◇読み手としての渇望

Kindleアプリを落としました。わたしは紙媒体の書籍が好きで、読みたいものを探すのは基本的に書店。ネット上で興味あるタイトルを見かけたときも、わざわざ紙媒体を探すか注文するかしていました。
電子書籍を避けてきた節もあります。扱うショップやサービスが多々あるうえ、会員登録や専用アプリを用いる必要がある。それほどの需要を感じていない時点では、面倒や煩わしさの方が勝っていた。

なぜ今になって手を出したかというと、読み込んでいる作品があるからです。そう、欲しかったのはすでに所持している本の、電子書籍版。
電子書籍だと本文中のワード検索ができたり、辞書などで調べられたり、ハイライトをつけられたり、メモを残せたりする。それがとても便利に思えた。
読み込んでいる作品については、専用の一冊を新たに用意して、付箋やマーカーによる色分けをしてきました。特定の語句や言い回しをチェックするためです。色数がけっこう膨大になり、それ自体は電子書籍のハイライト機能では間に合わない。ただ、深く考えたいテーマがいくつかあるので、その関連箇所をハイライト機能で分けてもいいかなあと思っている。
特に使いたいのは検索で、今日もためしにある語句を拾いだしてみたら、さっそく気づきを得ました。メモも、たっぷり書けるのが嬉しい。

これだけ読み込みたい作品に出会えたことは幸福だと思います。積んでいる本も多く、それを崩すことを優先している状況にあって、二度も三度も読みたくなる、二倍三倍以上の時間をかけても惜しくない作品は稀だから。
でも一方で気づいてしまった。満たされないということに。それは決して、冷めるとか興を失うというのではない。むしろ強く惹かれ、のめり込むが故に、感じてしまうのです。飽くなき想いを。「飽きる」とは、本来はそう感じるほどに腹いっぱい食べることを指します。そこから「満たされる」と意味も出てきた。わたしは、満足したことがあっただろうか。

細部にまで注目して何度も読めば、新たに気づき、分かることも増えます。そのぶん作品への理解が深まって、より魅了されていく。幸せなことです。けれど見えるものが増せば、疑問も生まれてくる。深く考えを巡らせたいテーマも出てくる。その為にまた読み、気づき、理解し、疑問が生まれ、考えを巡らせて……どこまでも終わることのない循環。
どんなに食べても食べても満腹にならないような、ずっと何かを望んでいるような感覚がある。満たされない飢え。癒されない渇き。どうしようもなく、ただただ欲するばかり。
そんな風にして辿り着きたいのはどこでしょうか。究極的には、作者の意図であり思考なのかもしれません。すなわち、創造主の領域。けれどそんなものは、いくら望もうと、願おうと、決して到達できないものでしょう。わたしはただ、焦がれるしかない。

「書くことを止められない」というひとたちがいます。ならばわたしは、「読むことを止められない」ひとなのかもしれない。読む、というのはただ言葉や文章を目で追うことに止まりません。それが構築する世界のことを考えずにはいられない。表現のちょっとした差異を気にかけて、ひたすら思考を巡らせていることもある。目の前に作品を広げているとき以外の時間にも、気付けば想いを馳せていたりする。

数年間、読むことから離れていた時期がありました。それでも結局戻ってきてしまった。この先も幸福と渇望を感じながら、創られた世界にのめりこんでゆくのでしょうね。ずっと、ずうっと。