◇読み手として支える、ということ

大学生のころ、教授が口にした言葉があります。

“ここへ学びに来た君たちの中には、プロを目指す者も多いだろう。叶えられる者はわずかだが、そうでない者も優れた読み手になれているはずだ。どうか創り手たちを支えてほしい”

この前後にどんな話があったのか、実は覚えていません。言い回しやニュアンスも、どこまで正確かは分からない。おそらく学年全体のミーティングで聞いたのだと思いますが……。

わたしが属していたのは、ざっくり言うと「表現すること」を扱う学部でした。だから小説を書くひと、漫画やイラストを描くひと、映画を撮るひとなど、創るひとたちも多くいた。もちろん、プロになりたいと考えるひとも。

自分自身も書いたり描いたりする身でしたが、そういう考えはありませんでした。社会人になると書く、描くことから離れ、読むことさえなくなってしまった。
ふたたび読むようになるまでの間、数年ほどの空白が存在しています。教授の言葉も忘れてしまっていた。ふと頭をよぎったのは一年ほど前。読むことに前向きになってきた時期。

教授の言葉を思い出してからというもの、“読み手として支える”ということを、何度も考えてきました。
まず、作品を買うのは大前提でしょう。だけど、本一冊でどれだけ作者に還元されるのか。これだけでは微力すぎる。ならば、少しでも知ってもらうために情報を発信・拡散する? でも、わたしにたいした力はない。いったい他に、何ができるだろう。

はっきり言って、気負いすぎていたと思います。そんなわたしに、友人は「考えすぎだよ」「まずは自分が大事でしょ?」という言葉をくれたのです。
創り手を支えることはたしかに大事だけれど、楽しむという根本を、忘れるところでした。それを失えば、また読むことから遠ざかってしまったかもしれない。

最近になって改めて教授の言葉を振り返り、「優れた読み手」というのは「楽しむ力のある読み手」のことなんだろうか、と考えるようになりました。なにせその教授は、「創るためにはまず読む力だよ」と説く方だったのです。創るために身につけた読む力は、作品に深く入り込み、その魅力に気づく上で、きっと役に立つでしょう。
実際にわたしは、彼のゼミで読み解く楽しさに触れてきました。

そして、なぜ教授があんな言葉を発したのか。
もちろん創り手が創るために、支える存在が重要なのは分かります。でも、それだけではないのかもしれない。
プロになれなくても。夢が叶わなくても。創造の場から離れないで欲しい――そういう願いもあったのではと、今では思うのです。
立場が違っても、創造の場に関わっていて欲しいと。

自分が楽しむという根本は忘れないように、でも、創るひとたちを、創造の場を、支えてゆくにはどうしたらよいか。それが今、わたしが考えていることです。容易に答えは出ないでしょうし、正解があるかもわかりません。
だけれど、やっていきたいと思います。わたしが、そうしたいと望むことだから。