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潜水服は蝶の夢を見る:左目のウィンクだけで書かれた自伝

Le scaphandre et le papillon (2007)原題。監督ジュリアン・シュナーベル。

ELLE誌の編集長だったジョン=ドー。三人の子供の母親とはもともと事実婚状態だったが、今は恋愛関係にもない。おそらくは、結婚生活の責任を引き受けることを拒み、華やかな享楽生活を追求しつづける独身貴族のプレイボーイ、というタイプだったのであろう。

そういうタイプが何らかの事件をきっかけに結婚や責任にめざめる、というストーリーは、映画にもよくあるが、この話は実話であり、自伝である。そしてジョンドーは、結婚の責任に目覚めたというわけではない。愛車のジャガーで子供たちに会いに行った帰りに脳梗塞を起こし、事故にあって、ロックドインシンドローム、閉じ込め症候群という病気になってしまったのである。題名の潜水服は、その中に閉じ込められたという意味だ。

頭には全く何の問題もないが、全身が麻痺している。機能するのは、聴覚と左目だけ。言語療法士の女性が、アルファベットを、使用頻度順に読み上げるのを聞き、言いたい言葉の文字のところで、ウィンクする。何とこれだけのコミュニケーション・システムを使って、かれは自伝を書き上げた。

撮影はスピルバーグの片腕キャメラマンとして有名な、ヤヌス・カミンスキー。映画のかなりの部分は、ジョン=ドーの視点から撮られている。つまりかれを見下ろしながら話す人々、とりわけ言語治療士である。実際にはかれらはつねに、カメラのレンズに向かって話していた、というわけ。ウィンクはジョン=ドーが目をつぶったことを現す、黒い画面で表現される。

彼女がいちいち読み上げるアルファベットに、観客はまたかと思いながら、これがまさにジョン=ドーの世界だったということを、理解する。かれの自伝の原題どおり、まさに「潜水服と蝶」だ。言語治療士の忍耐力にも、感服する。

マチュー・アルマリックは麻痺した顔面を再現するため、特注の入れ歯を入れた。これを入れている間は、痛みがある。その痛みを長時間実際に経験することで、ジョン=ドーの痛みや苦しみを感じながら、かれの役柄に入り込んだ。

蝶はイマジネーション。潜水服の中に閉じ込められていても、ひらひらと舞う蝶のように、かれの心は動いている。映画では心の声が、語りとして映像にかぶさる。もちろん雄弁にではない。これは後から付け加えた音声ではなく、同時に録音された。小さなブースに入って映像を見ながら、ジョン=ドーを演じたマチュー・アルマリックが、マイクに向かってぼそっと話す。あくまでも蝶のように、短くひらひらと舞うような語りである。

かなりの部分かれの視点から撮られる映像とともに、ここに提供されているのは、まさに潜水服に閉じ込められたところから発せられる、ジョン=ドーの心の声、魂の声、「私」の声を聞くという稀有な体験だ。

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