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据え膳食わぬは男の恥なのか、パスカルに聞いてみる

『パンセ』のなかでも有名な、神を信じるか信じないかについての対話、「パスカルの賭け」。コイントスで、表が出るか裏が出るか、という確率論と同じような手法で、神を信じない人に対して、信じた方が得だ、とパスカルが説得している断章である。

神を信じるほうに賭けて、当たれば、そこには神の祝福をうけた幸福な人生が、待っている。期待値は、無限大である。しかしはずれても、期待値はゼロ。

だから、特に損をするということはない。

神を信じないほうに賭けて当たっても、神の祝福を受けられるわけではないから、やはり期待値はゼロ。はずれてもゼロ。

もし神がいたらこのひとは地獄落ちかもしれないので、マイナスかもしれない。

『パスカル「パンセ」を楽しむ』の山上浩嗣さんは、パスカルがすすめるのは、あくまでも救済への希望、来世への希望を目的とした賭けである、という。

神ありに賭ければ、この世にいる間に、すでに価値を約束されている。だから、「神あり」に賭ける生は、「神なし」に賭ける生よりも、幸福である。

「賭け」の断章の末尾ちかくで、パスカルはいう。

「ところで、こちらの選択を行うことで、君にどんな不利益が生じるというのだ。君は忠実で、正直で、つつましくて、感謝を忘れず、親切で、友として誠実で、真摯な人間になるだろう。実のところ、君はもはや、有害な快楽や、栄誉や、逸楽からは遠く離れることになるだろう」

「神あり」に賭けた人間は、倨傲(きょごう)ではなく謙遜を、強欲ではなく無欲を、自己愛ではなく慈愛を、より幸福な状態とみなすようになる。つまりすでに現生においてこのひとは、いわば人生の賭けに勝っている、というわけ。

エリック・ロメールの『モード家の一夜』に、主人公(ジャン=ルイ・トランティニアン)が学生時代の友だちとばったり会って、パスカルの賭けについて議論をする場面がある。主人公はむかしからパスカルを読んでいるのだが、違和感も持っている。しかしかれはカトリックであるから、「神あり」に賭けている。

モード(フランソワーズ・ファビアン)は、この友だちの友だちで、とても魅力的な未亡人である。積極的な彼女は、雪を理由に主人公を引きとめ、ベッドにさそう。

主人公にはしかし、まだ話しかけてすらいないけれども、勝手に心に決めた女性がいる。モードは普遍的に魅力があるが、自分はとくに惹かれない。

だからかれは、据え膳を食わないことにする。

自分にとって大切なひととでなければ、そういうことをしない、というだけのモラル。たったそれだけのことだけれど、それはかれにとって、「神あり」の人生の選択だったのだと思う。

いい女だけれど自分にとって重要ではないひとのお誘いを、筋を通してことわる。そのことでかれは、本当に大切な人との縁を、天に深めてもらったのではないか。

作者のロメールも、人生のなかでいろいろな挫折を経験しながら、破滅的な行動から無縁で、全体としてはとても平和で充実した人生を、全うした。

自分が正しいと思うことをする、思わないことはしない。そういう意味で、勇気をもって、「神あり」の人生をえらびとる。

それはきわめて、主体的な生き方だ。そういう決意をもって生きることではじめてひとは、心の平安を得られるのではないだろうか。


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