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分断を越えていくために


【満州国とウクライナ】


ウクライナへのロシアの軍事介入が始まってからのこの一年半、主流メディアの報道が反ロシアの戦争プロパガンダと化していく一方で、戦争の真実を伝える情報を追いかけていった結果、近代の戦争がどのようにして作られていくのかということを、私たちは裏の裏まで知ることになった。

戦争というのは、表向きの理由とはまったく関係なく、裏で準備されていく。そして、偽旗とか挑発とかで、相手が攻撃してきたと称して、始まっていく。戦争をしかけているのは、多くの場合、戦争をしている当の国ではなくて、他の国の金融資本家だ。彼らが、攻撃したい国の隣の国をそそのかして、戦争させるのだ。そそのかしてというよりは、乗っ取って、だ。それが今のウクライナに起こったことだったし、第二次世界大戦に至るまでの日本やドイツに起こったことだった。

パンデミックがあり、ウクライナがあり、それによって私たちは、情報操作によって、人をどうにでも動かしてしまうことができるのを、目の当たりにしてきた。学歴や教養も関係がなく、筋が通っているかどうかにも関係がなく、国民性みたいなものにも関係がない。ただ、メディアを使って繰り返し虚偽の情報を与え、印象操作することによって、多くの人々は暗示にかかったように操られてしまうのだ。それを見てきたからこそ、私たちは80年前にドイツと日本に起こったことが何だったのかを、本当に理解することができる。

第二次世界大戦のときに、どうして日本がソ連と戦争することになったのかを、知らない人が多いのだけれど、それは情報がわかりにくくされているからなのだと思う。北方領土のことがいつも話題になるから、ソ連が北方領土か樺太へでも侵攻してきたのだろうと私も思っていた。ところが、日本とソ連との戦いは、実は北方領土ではなく、満州国をめぐる戦いだったということを、つい数日前に知った。それで、すべての謎が解けたように思った。

今ウクライナに起こっていることと、まったく同じ構図がそこにはある。西側のグローバル金融資本家たちは、ロシアを何とかして切り崩そうとして、まわりの国に戦争をしかけさせるのだ。それがもう19世紀の頃から続いている。当時、イギリスやフランスの大帝国は、世界中を植民地支配しようとして軍隊を強化していた。アジア、アフリカのほとんどを植民地化したあとで、残っていたのはロシアと中国だった。イギリスやフランスは、国自体は小さいけれど、軍事力によって、国外に広大な領土を持っていた。それで大帝国になっていたのだけれど、ロシアと中国は本当の大国だ。広大な領土を持ち、さまざまな民族を抱える本物の大国だった。その大国を切り崩すために、まわりの国を乗っ取って、戦争をしかけさせようとしたのだ。戦争によって経済が破壊されれば、金融資本家たちはそこにつけいって、お金でその国を支配してしまうことができる。それで、いわば漁夫の利を得るために、ドイツと日本とを乗っ取って、ロシア、中国と戦争させることに成功したわけだった。

日本は、イギリスとアメリカの軍艦がやってきて、開国を迫り、つまり植民地支配しようとしたわけなのだけれど、それでできた大日本帝国というのは、イギリスとアメリカの傀儡政権のようなものだったわけだ。明治以降、日本は富国強兵と言って、軍国主義化していった。そして最初に起こったのが、日清戦争と日露戦争だったのだ。それを見れば、イギリスとアメリカが大日本帝国を作らせたのは、中国とロシアという二つの大国に戦争させるためだったということがわかる。日清戦争も日露戦争も、中国とロシアの間の土地をめぐる戦いだったのだ。その後も戦争は続き、第二次世界大戦までには、日本は朝鮮半島と満州国を支配することになっていた。

ウクライナの戦争のことで、「ロシアみたいな大国相手に戦争するなんて、頭がおかしくなければできるわけがないんだ」と言っている動画を見た。そんなことは自殺行為だから、まともな人間ならやらないというのだ。だから、大国相手に戦争させるには、ナチ化するしかない。ナチなら頭がおかしいからできる。それでウクライナはナチ化されたのだと言っていた。

まさしく同じことが、第二次世界大戦前の日本とドイツに起こったわけだ。ナチというのは、ドイツで人々を全体主義化するために使われた国家社会主義のことだけれど、人々を全体主義に従わせるために掲げる理想は、何でもいいのだ。本当に人々のための理想郷を目指しているようなことを言って、そのためにはすべてを犠牲にするべきだと思わせることができればいい。それで、ドイツでは国家社会主義が掲げられ、日本では大東亜共栄圏が掲げられることになった。ウクライナでは、ゼレンスキーは何とドンバスの停戦を公約して、大統領選に勝ったのだ。要するに、そのときの人々が切実に求めているものであればいい。理想として掲げていることと、実際にやっていることが正反対であってもかまわないのだ。それで人々の支持を集めたら、実際にやるのは、全体主義であり、排他的な植民地主義以外のものではない。

だから、言っていることとやっていることはまったく違うのだけれど、それでも多くの人は、理想を実現するために、あの悪者を排除しなければならない、と思い込まされると、異常な残虐性さえも発揮するようになってしまう。このことは、パンデミックのときにも見てきたからわかる。いいことをしていると思い込んでいるからこそ、残虐にもなれてしまい、そしてそのことに気づいてもいないという状況に、人を容易にしてしまうことができる。恐怖を与え続けて、落ち着いて考える暇も与えないようにしていると、繰り返されるプロパガンダを人は容易に信じてしまうのだ。

とにかく日本は、日清戦争と日露戦争に勝ち、さらには満州事変という偽旗作戦による戦争で勝って、満州国を作った。表向きは民族自決の原則に基づく独立国家だけれど、事実上は日本の植民地だ。この満州国は、西はモンゴル、北はソ連に接しており、南は北京の近くまで続いている広大な国だ。それにより、日本は中国とロシアという二つの大国の間に割って入って、二つの国を弱める役をやらされることになったわけだ。

この満州国を支配していたのが、関東軍という日本の軍隊なのだけれど、この関東軍は生物化学兵器の人体実験をしていたことで国際的に知られている。これもまた、ウクライナと同じなのだ。もちろん、日本もウクライナも自分で生物化学兵器を開発しようとしたわけではない。ウクライナにある生物研究所は、すべてアメリカのものだ。グローバル金融資本家たちが、どこか遠くの国、しかもロシアの隣の国で、やらせていたわけなのだ。

石油の独占で財を成したアメリカのロックフェラー財団は、20世紀の始めから、石油で作る製薬業を始めて、化学製薬による医学を作り、それまでの医学を排除してしまった。それで第一次世界大戦のときには、感染予防の薬だとして、公に大規模な人体実験を行ったのだ。その薬によって、多くの人が亡くなったけれど、それはスペイン風邪のせいだとされた。あれは実のところ、生物化学兵器にほかならなかった。

そのことを考えるならば、満州で関東軍が行っていた人体実験というのも、おそらくはロックフェラー財団が投資していた生物化学兵器のためなのだろう。それはもちろん、彼らが切り崩したいと思っている中国とロシアで使うためだ。満州国とは、まさにそうしたことのために、日本をけしかけて作らせた国だったようだ。ソ連崩壊後に、ウクライナがロシアと敵対するように持って行かれたのと、状況はよく似ている。

第二次世界大戦のとき、ソ連は日ソ不可侵条約に基づいて日本に対して軍事攻撃をしなかったのだけれど、この条約の期限が切れた1945年8月9日、終戦も間近になってから、日本に宣戦布告した。それで日本は満州国を失って、満州は中国の一部になった。これも、何だってそんなときになってと思うけれど、実はそれまで満州からモンゴルやソ連に対してずいぶんと紛争がしかけられていたようなのだ。それだけではなく、生物兵器を開発したりもしていたわけで、その背景は、まさに一年半前に、ウクライナに軍事介入することになった経緯と似ている。さんざん挑発されたから、軍隊を出したということのようだ。

私が満州国のことを調べてみる気になったのも、数日前にロシア外務省報道官のマリア・ザハロワが、ソ連の対日参戦記念日を前に、日本政府は極右主義者たちにロシア大使館前で抗議なんかさせていないで、1930年から40年までに日本が行った戦争犯罪を思い出し、分析して、二度と起こらないように考えるべきだ、と言っていたからだった。今年に入ってから、マリア・ザハロワの西側諸国に対するデクラスは、ますます鋭くなっているようなのだけれど、これは日本人としては真摯に受け留めるべきものだと思った。

つまるところ、当時の日本も今のウクライナと同様に、騙されて利用されていたわけなのだけれど、そのことを知った上で、同じことが繰り返されないようにするにはどうしたらいいのかを考えるべきだ。アフリカだって、これまでさんざん騙されて利用されてきたからこそ、今、本当に自立していく道を歩もうとしているのだ。この200年ほど、人類はありとある残虐を経験してきたけれど、その経験があるからこそ、今進んでいける道があるのだと思う。

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満州国があった当時の地図


生体実験をやっていたという関東軍の731部隊について。ロシア人も人体実験やられていたことがわかります。最後にソ連が侵攻することになったのも、それと関係があると思います。その辺も、今のウクライナと状況が似ています。

https://ja.m.wikipedia.org/wiki/731%E9%83%A8%E9%9A%8A


中国の収容所に入れられた731部隊の人たちは、犯した罪を認めれば、釈放されて日本に帰還していたという話です。中国は、731部隊の日本兵が洗脳されていたことを知っていたので、人間的に扱えば、目が覚めると考えて、ずっとお客さん待遇にしていたそうです。ロシアが今、ウクライナの捕虜に対してやっているのと似ています。


モスクワ在住の日本人商社マンの話。ソ連時代と違って、今のロシアには情報統制がないと言っています。

2023年8月5日

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【核兵器を使ったのは誰なのか?】



8月6日の広島原爆記念日の式典で、誰も原爆を落としたのが誰なのかを言っていなかったということを、ロシア外務省報道官のマリア・ザハロワが言っていた。岸田首相は、その代わりに、ロシアが核兵器の使用で世界を脅していることを批判していた。これは、日本の政権がアメリカ政府の言うなりだということを、世界に示したようなものだったと思う。

アメリカが原爆を投下したことについては、これまでも不思議と日本ではアメリカに抗議するようなところが少なかった。全体主義化していた日本を止めるには、原爆を落すしかなかったのだというのが、アメリカ側の説明で、それを日本も受け入れたといった風だ。事実、同年3月の東京大空襲で、首都が焼け野原になったのにもかかわらず、日本は8月まで戦争をやめなかったのだ。大陸や南方で、あいかわらず戦闘が続いていた。

当時の日本を思うと、まるで今のウクライナのようだと思う。違うのは、日本は全国の都市が空爆されていたのに対して、ウクライナではドンバス以外では戦闘がなく、市街を爆撃されてもいないということくらいだ。ウクライナでは、言論の自由もなく、政府を批判すれば逮捕されるようなことになっているし、子供までロシア人を殺せというプロパガンダを吹き込まれている。すでにマリウポリの拠点もバフムトも陥落しているのに、まだ戦闘をやめない。前線へ送られるウクライナ兵たちは、ほとんど死ぬために行っているようなものだ。

どうしてこんなことになっているのかと言ったら、ウクライナ政府は国民のための政府などではなく、外国に乗っ取られているからなのだ。政権を握っている人々は、外の勢力に使われていて、自分で決めることなどできない。言われるままにやっているだけだ。ゼレンスキーはイギリスの諜報部MI6から指令を受けているというもっぱらの噂で、ブチャの虐殺の演出にも、MI6が関わっていたということを、アメリカの軍事専門家のスコット・リッターが、「エージェント・ゼレンスキー」というドキュメンタリーで言っていた。一方、言うなりに残虐行為をやらされているゼレンスキーは、もうまともな精神状態ではないのか、コカインがないといられなくなっているらしい。闇のお金が入ってくることにも中毒状態になっているという話がある。西側から送られる武器を転売したり、支援金を着服したりすることに依存状態になっていて、臓器売買とか幼児売買とかで入ってくるお金もあるらしい。

当時の日本も、そんな状態になっていたのか、すでにボロボロになっていたのに、戦争をやめようとしなかったのだ。だから、原爆を落とされてもしかたがないという話になっていたのだけれど、実は日本は8月の初めには、もう停戦する用意があったという話もある。それでアメリカは、日本が降伏する前に急いで原爆を投下したというのだ。それによって、アメリカがどれだけの武器を持っているのかを世界に知らしめて、戦後の世界を支配しようということだったらしい。

事実、アメリカは第二次世界大戦後、世界中に軍隊を派遣して、世界を牛耳っていった。ソ連は、アメリカと連合国だったのにもかかわらず、戦後しばらくすると、仮想敵国ということにされてしまい、ソ連のまわりを基地で囲まれてしまった。そうなると、ソ連も核兵器を持つ以外に、アメリカの支配から主権を守る手はなくなる。それで、米ソの核開発競争が激しくなったわけだ。

原子力爆弾は、もともとアメリカがこれで世界を支配できると思って作ったのだ。それが、世界中で核兵器を持たなければならない事態になった原因だ。同じく核兵器を持っていると言っても、その動機がまったく違う。アメリカは世界を征服するために核兵器を持ち、他の国はアメリカに征服されるのを防ぐために、核兵器を持たざるを得ない。これは、世界中で軍備競争を引き起こして、アメリカの軍事産業は大儲けをしたわけだ。

アメリカに原爆を落とされたことに、日本がアメリカを非難するのではなく、日本政府のせいにするような感じになっているのは、一つには、ほとんどの国民が日本政府にひどい目に遭っていたからなのだと思う。アメリカよりも日本政府に苦しまされていたのだ。今のウクライナと同じく、当時の日本でも政府を批判するようなことを言ったら、逮捕されていたし、軍隊でもずいぶん暴行が加えられたり、自殺行為みたいな突撃命令が出されたりしていた。だから、原爆を落とされてでも、とにかく戦争が終わったら、ありがたいというような状況だったのかもしれないし、原爆を落とされるようなことになったのは、何よりも政府が戦争をやめなかったからだという気持ちの方が強かったのかもしれない。

それに、日本は戦後すぐにアメリカ民主主義に切り換えることになり、昨日までは鬼畜米英と言っていたのに、すべてアメリカのものがいいということになった。それも一つには、戦時中の統制が厳しくて、西洋的な文化に飢えていたというのもあるかもしれない。

しかしそれが、日本人が愚かだったという風にすり替えられていったような気がする。日本政府はそのままアメリカに乗っ取られた状態で、アメリカ式の自由と民主主義を押しつけられていったのだけれど、それはアメリカ資本が好きなだけ儲けられるというようなシステムに他ならなかったわけだ。

そしてここに来て、原爆を投下したアメリカや、戦争をやめなかった当時の日本政府を批判する代わりに、ロシアが核兵器で脅していると批判しているのだ。

核兵器を所有している国はたくさんあるけれど、実際に使用した国は、アメリカだけだ。広島と長崎の二つの都市に原爆を投下して、一度に何万人もの市民が犠牲になった。これは最大の戦争犯罪なのに、その罪は問われていない。セルビアでは、劣化ウラン弾を使って、多くの人々が被爆した。この戦争犯罪の責任も問われていない。イギリスがウクライナに劣化ウラン弾を送ったので、ロシアは劣化ウラン弾をロシア領内で使ったら、核攻撃する用意がある、と言ったのだ。これを、西側諸国はロシアが核兵器で脅しているとして批判している。ロシアは劣化ウラン弾もクラスター弾も核兵器も持っているけれど、一度もそれを使ってはいない。使っているのはアメリカなのだ。そしてロシアは、そうした武器をロシアで使われないために、所有しているだけだ。

ロシアが、核兵器を使われる危機にさらされないかぎり、核兵器を使用することはないということは、実はアメリカ政府も知っている。アメリカ政府が使っているシンクタンクのランド研究所が、そのように報告していたからだ。それなのに、アメリカはロシアが核兵器で脅していると言いふらしているのだ。実は、核兵器で脅しているのは、アメリカの方だ。

ウクライナも日本もドイツも、アメリカに完全に支配されているというのが事実だ。ドイツも政府が乗っ取られていて、国の経済を犠牲にしてもウクライナを支援させられていて、ロシアを支持するような発言も処罰の対象になっているくらいだ。そればかりか、ウクライナ政権が明らかにナチなので、ナチが悪くなかったというような話が公に出ているくらいだ。ドイツはこれまで、ナチ的な発言もシンボルの使用も厳しく禁じられていた。それが今では逆になっている。ウクライナ兵が身体にナチのシンボルの入れ墨を入れているのを批判したら、ロシアに協力したと非難されるくらいだ。さらには、ナチがソ連の侵略を防いだのだから、ナチは悪くなかったのだという話にまでなっている。

パンデミックのときにも、80年前にナチを使ってドイツを支配していた勢力と同じ勢力が操っている、という話はあったけれど、それがウクライナの戦争によって、ナチを肯定するようなことにまでなっている。日本もどうも同じようなことになっているようだ。ロシアの脅威をメディアで繰り返し報道して、ロシアを攻撃するためには何をやっていいような雰囲気を作っている。それでナチさえも肯定されていっている。

それでも、パンデミックのときにもベルリンでまず大きなデモがあったように、8月5日には平和のためのデモがあり、ロシアの国旗を掲げていた人たちもいたらしい。主流メディアに意識操作されている人も多いけれど、そうでない人たちもたくさんいる。80年前にはまんまと世界大戦に持ち込まれてしまったけれど、今度はアメリカが支配している西側諸国の方がもう孤立した状態になっているし、世界のドル離れが加速しているから、同じ流れにはならないだろう。私たちはこれまで、つねに存在しない脅威によって、騙されて、操作され、戦争させられてきたのだ。とにかく今は、そのことを知っている人たちが少なからずいる。何があろうと、そのことを知って、煽られないでいることが大事なのだと思う。それが免疫力になって、いずれは集団免疫のようになり、もう戦争に煽られないようになるのに違いないからだ。


ベルリンの平和デモ。Frieden =平和

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スコット・リッターのドキュメンタリー「エージェント・ゼレンスキー パート1」(英語版)

ロシア大使館のサイトから。(英語からのDeepl翻訳)

「1945年8月9日、アメリカは広島に原爆を投下した3日後、日本の長崎に核攻撃を行った。この攻撃によって長崎市は地上から消し去られ、7万人以上が即死、さらに9万5千人が放射能汚染による病気で数年後、数十年後に亡くなった。

目撃者である山下泰明の手記より: 原爆は長崎の中心部を死と荒廃の地獄と化した。通信と交通は途絶えた。街には食べ物がなく、私たちは飢えていました。爆発から1週間後、私たちはまだ火の燃え盛る瓦礫の中を歩いた。数年後、私は長崎の原爆病院で働いた。被爆者が火傷や放射線の影響で今も苦しんでいるのを見るのは、とてもつらいことだった。

長崎への攻撃は、新型の大量破壊兵器が都市やインフラ、人々にどの程度効果的かを確かめるための、とんでもない実験の最終段階だった。

アメリカ人はこの原爆投下を冷静に受け止め、終戦を早めることになると信じた(実際には、ソ連が日本に対する敵対行為を開始したことで終戦がもたらされた)。日本の都市への攻撃を命じたハリー・トルーマン米大統領は、日記で日本人を野蛮人、蛮族と呼び、その決断に最後まで疑問を持たなかった。

ロシア外相セルゲイ・ラブロフ:アメリカによる原爆投下は、事実上、武力の誇示であり、民間人に対する核兵器の運用実験であった。米国はこの種の大量破壊兵器を使用した最初で唯一の国である。広島と長崎の恐怖と痛みが二度と繰り返されないよう、私たちは力を合わせなければならない。この悲劇は、ロシア国民の心に深く刻み込まれた。(2020年8月6日、原爆投下75周年広島追悼式典参加者へのセルゲイ・ラブロフのメッセージ)。」

2023年8月7日


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【人と政府は別だという考え方】



自分の国が過去にやった戦争のこととかになると、私たちは国=自分みたいに考えてしまうようなところがある。何があったかによって、日本人として誇りに思えるとか、恥ずかしいと思うとか、罪の意識を持つとかだ。それによって、自分を卑下するような気分になったり、あるいは優等意識を持ったりする。

だけど、その国というのは、実のところ当時の為政者がやったことにすぎないのだ。今現在の政府のすることだって、国民が決められるわけではない。この頃、近代の政治システムについていろいろなことが表に出てきて、民主主義のシステムだって、国民の総意などと言えたものではないことがわかってきた。選挙だって裏で操作されていて、実はごく一部の金融資本家たちが自在にすげ替えていたりするし、情報だって都合よく変えられていて、真実を知らされていたわけでもない。ましてや過去の政治家がやったことなど、どうしてその人と関係があるだろう? 

国と自分とを同一視してしまうというのは、外国に行ったりしたときによくわかる。何だか自分が日本代表みたいになってしまって、日本がやったことを言い訳してまわらなくてはいけないような気がしたりする。とりわけ過去の戦争犯罪に関する話題が出たりすると、まるで自分が責められているような気がして、恥ずかしいと思ったり、隠そうとしてみたり、弁解しなくてはいけないような気がしたりする。だけど、こうしたことは、つまるところ、過去のできごとを率直に見ることを妨げてしまうだけなのだ。

ロシアでは、人と政府とは別だという風に考えるのだと、ロシア在住のドイツ人ジャーナリスト、トーマス・レーパーが言っていた。ドイツは昔ナチの時代にソ連に侵略した国だから、ロシア人に嫌われるんじゃないかみたいな思いがあったらしいのだけれど、ロシア人はまったくそんな風には考えないのだそうだ。「国がしたことと人とは違うでしょ? あなたに責任があったわけじゃないでしょ?」とロシア人たちは誰でもそう言うのだと言っていた。

少し前に、ロシアの街の人たちに、「あなたはアメリカ人が嫌いですか?」と聞いてまわっている動画が拡散されていたのだけれど、誰も彼もすぐさま「ニエット(いいえ)」と答えていた。何でそんなことを聞くのかわからない、といった風な、不可解な顔つきをしていた。ロシアはアメリカ政府にはさんざんな目に遭わされ続けてきたわけだけれど、それとアメリカ人とは何の関係もない。アメリカ人だからといって、好きだとか嫌いだとか決められるようなものじゃない。その動画を見ると、ロシア人たちは、本当にそういう風に考えているのがよくわかった。

西部のウクライナ人たちが、ロシア人を嫌っているのと対称的に、ロシア人はウクライナ人を嫌ってはいない。もちろん、攻撃してくるウクライナ人とは戦うけれど、だからといってその人をウクライナ人だからと嫌っているわけではない。それは、ロシア兵たちのウクライナの捕虜に対する寛大な扱い方でもよくわかる。ロシア人たちは、ウクライナ兵を政府の犠牲者として考えているのだ。騙されて、利用された不幸な人たちだと。だから、捕虜に対して腹いせをするようなこともないし、驚くほど簡単に釈放してしまったりする。軍事介入が始まったばかりの頃は、「もう戦いません」という書類に署名させて、そのまま帰したりしていたくらいだった。それは、政府と人は違う、という考えが基本的にあるからなのだ。

しかし、ロシア人もいつも政府がしたことと人は違うと考えていたわけではない。第二次世界大戦のあとで、占領軍としてドイツとオーストリアにやってきたロシア人たちは、生き残っていた住民に腹いせをした。この大戦で、ソ連はナチスドイツの最大の犠牲者だったから、無理もないといえば無理もないことだった。やってきたロシア人たちは、戦争で犠牲になった人々の遺族だったりしたというのだけれど、彼らはナチスの土地に来て、ナチスがソ連の人々に対して行ったように、略奪したり強姦したりということをさんざんやったのだ。それで、ドイツやオーストリアでは、ロシア人は残虐だという印象があとあとまで残ってしまった。このことについて、プーチン大統領は、オリバー・ストーンのドキュメンタリー映画で、「ソ連軍はナチスから国を守るためによく戦ったけれど、戦争のあとで蛮行を行ったのはよくなかった」と言っている。

人と政府とは別だという考えは、いつからロシアで普通になったのかわからない。ソ連の時代にすでにそうだったのか、あるいはプーチンの時代になってからそうなったのか。しかし、プーチン政権がわずか数年で、腐敗でボロボロになっていたロシア経済を立て直すことができたのは、まさにこの、人と政府は違うという考え方のおかげだったと思う。当時のロシアは、腐敗でひどいことになっていて、何も信頼することができないような状態だったらしいのだけれど、人は国とは違う、組織や社会とは違う、と考えて、人を信頼したのだ。プーチンは就任して間もなく、テレビの全国放送でライブで「これまでのことはいいから、明日から規則を守って、政治家を買収するのはやめるように。税金の申告をちゃんとして、税金を払うように。明日から規則を守れば、これまでのことは追究しない。」と言ったのだそうだ。それで、8割がたの企業は規則に従い、たちどころに政治腐敗を一掃することができた。規則に従わない一部のオリガルヒたちを追究して、追放すればいいだけだった。そうしてプーチン政権は、わずか数年で経済を立て直すことができたのだ。

このことは、たとえどれだけひどく腐敗した社会でも、8割の人々は、仕方なくまわりに合わせていただけだということを示している。ほとんどの人たちは、腐敗した社会の中で、いつも相手を出し抜こうとして画策しているのなんかは嫌なのだ。公正に仕事ができる社会で生きたいと思っている。社会や組織の中でしかたなくやっていることとは関係なく、人は人だと信頼して、それに賭けたからこそ、プーチン政権は腐敗の極みだったロシア経済を速やかに立て直すことができたのだ。

国と人とが同じだみたいな考えになっていると、たとえば国がやったことを肯定しないと、反日主義者だみたいなことになる。たとえ過去の為政者がやったことでも、それを否定すると、日本人全員が否定されるみたいに思ってしまうことになる。しかしこれこそは、政府がやることに人々を無条件に従わせるための論理で、これを全体主義とも言う。かつての日本で、「非国民」と言っていたのと同じなのだ。政府がすることを全肯定しない人間は、社会に害をなすかのように思い込ませると、大半の人々を自分から従わせてしまうことができる。

パンデミックのときも、ウクライナの戦争のことでも、まさにこうした意識操作をすることで、ほとんどの人々が自分から政府の望むようにするようにしてしまった。自分からそのようにするだけではなくて、他の人々に同調圧力をかけて強要しさえした。ある心理学の調査で、黒のものを白だと言っても、皆が白だと言っているという印象を与えると、75%の人は黒のものを白だと言ってしまうのだという。それは、国=自分、社会=自分という考えが深く入り込んでいるからなのだと思う。反射的に、まわりと同じようにしなければと思ってしまうのだ。

パンデミックの頃から、これまでの世界がどれだけメディアによる意識操作によって支配されてきたかということを、まざまざと目の当たりにしてきた。つまるところ、意識操作で人が支配されてしまうのは、国=人(自分)、社会=人(自分)という意識が根本にあるからなのだ。人と政府は別だ、人と国は別だ、と考えて、人は人として考え始めたら、あるいは私たちは分断支配から速やかに抜け出して、調和する関係を作っていけるのかもしれない。そうなったときに、一体どれだけの力を、国=人という考えの中にすべてをはめ込もうとして、無駄に使っていたかということに気づくのかもしれない。


イギリスのハンプシャーで7月25日に発見されたクロップサークル


2023年8月8日

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【ロシアの経済は何故健全なのか?】



この3年ほど、人間はどうして支配されてしまうのか、どうして自分や他人を犠牲にするようなことでもやってしまうのかということを、さんざん考えさせられた。今の世界の状況を支配しているのは、ごく少数のエリートたちだと言われている。あとの人々は、結局のところ搾取されているのに、一緒になって支配の世界を作ってしまうのだ。西側諸国の政治家たちだって、操作されて言うなりになっているマリオネットたちばかりだ。彼らがまるきり筋の通らないことを行っているのに、メディアもプロパガンダを流すばかりで批判しようともしないし、裁判所でさえエリートたちが望むような判決しか出さなくなっている。役所の人たちも警察官も、従わなければ、国民全員が支配されてしまうことなんかないのに、従ってしまうのだ。だから、ごく少数のエリートたちが、世界中を支配するというようなことが可能になっている。

ウクライナ政府の人たちは、ロシアと戦争をするために送り込まれた工作員らしいのだけれど、もう勝ち目はないような状況で、毎日千人近い兵士が犠牲になっているのに、戦争をやめようとはしない。彼らは、西側から送られてくる武器を転売したり、支援金を着服したり、戦地から誘拐してきた子供たちを売買したりすることにすっかり依存状態になっていて、やめられなくなっているようだ。

つまりは、お金に対する依存状態が、この支配システムを作り上げているということなのだろう。政府の工作員たちは、大金持ちにしてもらえるからというので、そんな汚い仕事を引き受けるわけだ。ゼレンスキーは、世界のあちこちに豪邸を持っているということを、スコット・リッターが「工作員ゼレンスキー」というドキュメンタリーで示していた。パンデミックのときに、コロナの予防薬に関わっていた医療関係者たちは、法外な報酬をもらっていた。一気に月々の収入が百万円以上になるような条件で、多くの人々は目をつぶって一緒にやっていた。

戦争が続いていく背後には、闇のお金に夢中になっている人たちがいるのだ。戦争が終われば、そのお金が入ってこなくなるので、やめたくないらしい。そのために毎日どれだけの人々が亡くなっていようが、そんなことにも意識が向かないらしい。この人たちには、人の命もお金にしか見えていないのかもしれない。

どうして人はお金に依存状態になってしまうのか? それを知るのに、お金のエネルギーそのものにアクセスしてみたらどうかと思った。今のお金のシステムを作っているのは、紙幣だ。それ自体に価値があるわけではなく、価値があることになっている紙。これを集めるのに、人々はまるで取り憑かれたようになっている。

それで、米ドルとユーロとロシアのルーブルの画像を探してきて、その画像からお金のエネルギーにアクセスしてみたのだ。すると驚いたことに、米ドルとユーロには重苦しい嫌なエネルギーが感じられるのに、ロシアのルーブル紙幣には、そういう重苦しさがまるきり感じられなかった。

これは一体どういうことなのだろう? 米ドルとユーロには裏付けがないけれど、ロシアのルーブルには裏付けがあるからなのだろうか? 私だけの印象なのかと思って、封印解きクラブの人たちにもエネルギーを感じてみてもらったけれど、やはり皆同じ感覚を感じていた。ロシアのルーブル札には、他の紙幣にはある重いエネルギーがなくて、驚くほどすっきりしたきれいなエネルギーだと。

米ドルの1ドル札の裏側には、闇の秘密結社のシンボルが入れ込まれていると言われているから、そのせいなのかとも思ったけれど、それだけでもないようだ。米ドル札の画像から来るエネルギーは、何だか禍々しさがあるのだけれど、それが結局のところ何なのかといったら、「これは嘘だ、作られた幻想なのだ」ということだと思う。本当はこんなものには、何の価値もない。だけど、人々はこの紙切れに価値があると思い込んで、これを集めるために、何でも言うなりになっている。この紙切れを製造している人たちは、これに価値があるという幻想を作り出すことによって、支配力を得ているのだ。

そのエネルギーを読み取っているうち、お金というものの魔性の正体が見えてきた。本当には価値がないものを価値があると思って得ていたら、依存状態になる。それは、いくら得ても、求めているものが得られないからだ。これは、ジャンクフードはお腹がいっぱいになってもやめられないというのと似ている。調味料とか香料とかで肉のような味がするのだけれど、そこには肉の栄養価はなく、タンパク質も入っていない。身体が求めている栄養を得られないから、もっともっとと食べることになる。いくら食べても本当の栄養は入ってこないので、果てしなく食べることになる。

お金が作り出している幻想とは、これを持てば豊かになる、というものだろう。楽に幸せに暮らせるということ。しかし、お金を稼ぐために時間を取られ、幸せな暮らしからは逆に遠のいていく。それで、もっとたくさんお金があればいいのかと、もっとお金を稼ごうとする。お金は増えていくけれど、人はお金の奴隷のようになっていく。お金を得るために、何でも言うなりに働くようになる。まさにこの依存状態をこそ、米ドルを作ったエリートたちは作り出そうとしていたのだ。

ウクライナの戦争が始まってから、アメリカはNATO諸国に法外な値段で武器を買わせて、ウクライナに送らせていた。巨額の税金を使って、武器援助をするのだけれど、その武器というのが、何倍にも値段を釣り上げてあるのだ。もちろん、こんなことを受け入れているのは、西側諸国がすでに傀儡政権に入れ換えられているからだ。パンデミックの時にも、法外な値段の薬を税金で買わせていたけれど、あれも同じことのようだ。危機だといって、税金を大量にあるグローバル企業に流す。そのために、買収やら脅しやら暗殺やら選挙操作やら、あらゆる手を使って政権を乗っ取り、言う通りになるマリオネットを据えるのだ。

お金に依存状態になった人々が、もっともっととお金を求めていくうちに、お金はどんどん新たに発行されていって、社会全体のお金の量は増えていく。米ドルは裏付けがない通貨で、ジャンジャン刷っているので、大金をもらったと思っていても、それは数字だけの話なのだ。だけど、大金をもらえると思うと、人は悪事でも何でもやってしまう。だから、ケタ違いの金額のお金をばら撒いて、人を操っているわけだ。

それで、大金を手にした人たちのために、値段を十倍くらいにつけた高級品を用意しておいて、そういうものを持つのが大金持ちだみたいに思わせているわけなのだ。値段が高いだけで、別に価値が高いわけでもない。そういうものを買って、豊かになったと思っても、それは見せかけだけのことだ。本当には満たされていないから、依存状態になって、もっともっとと求めることになる。そんなことをやっているうちに、特別な贅沢を求めて、麻薬とかアドレノクロムとかペドとかに手を出してしまうのかもしれない。

アドレノクロムは、子供が死の恐怖を感じたときに出すアドレナリンだ。これに依存状態になる人は、子供の生命力を求めているのだろう。お金などにはまってしまう前の、純粋に毎日の時間を生きている子供の生命力だ。その場その場の好奇心や歓びで生きている子供たちの生命の力。しかし、死の恐怖を与えられた子供たちは、その純粋な生命の時間を生きる感性を失ってしまうのだ。だから、アドレノクロムに依存状態になる人は、子供の頃の生命力を失ったトラウマを、何度も再生しようとするのかもしれない。シグムンド・フロイドがいう強迫神経症のようにだ。神経症の人たちは、トラウマが加えられた以前の状態に戻ろうとして、何度もトラウマを作った原体験を再生しようとして、やめられなくなる。それと同じように、アドレノクロムやペドに大金を払う人々は、自分では気づかずに、失われたものを再生しようとしているのかもしれない。まさにそれこそは、人を依存状態にして、どうにでも支配される状態にしてしまうものなのだ。

ユーロ札は、米ドルほど禍々しいエネルギーは放っていないのだけれど、クリーンなように見せかけていて、やっぱり嘘をついている感じだった。「結局何が言いたいのかわからなくて、本音を隠している感じ」だと言っていた人がいた。ユーロは、できたときには、ヨーロッパ諸国で共同して、自立した経済を守っていくというものだったはずなのだけれど、できてみたら、実は体のいい乗っ取りだったことがわかった。ユーロに切り換えたばかりに、国の自治権を事実上売り渡してしまったようなものだったのだ。まさにユーロは、「よさそうに見せかけているけれど、本音を隠している」というものだったと言える。

ところで、ロシアのルーブル札はというと、エネルギー的に実にすっきりしてきれいだ。何なのかといったら、ルーブル札は、価値があるという幻想を与えている感じがない。嘘をついていないのだ。これは、交換するためのものにすぎない。循環していくものなのだとはっきり言っているようなところがある。

お金を所有と考えるのか、循環と考えるかの違いなのかもしれない。米ドルやユーロは、所有の幻想を与えているような禍々しさを感じるのだけれど、ルーブル札にはそれがない。お金は所有じゃなくて、循環だ、と割り切っている。そこに清々しさがある。

アメリカでは、収入が多くて、お金がさかんに交換されているけれど、何にでもお金がかかる。それで、お金がないとすぐに生きるのに困ることになる、というシビアさがある。だから、人々はお金を追いかけることになるし、貯金をたくさん持っているということが、生きていくための安心感になってもいる。一方、ロシアは公共料金とかが安くて、収入はアメリカよりずっと低いけれど、暮らしやすい。それに、政府がちゃんとお金をまわして困らないようにしているという安心感もあるのかもしれない。だからロシアでは、貯め込むことに必死になる必要がなく、ジャンジャン循環させて、皆で豊かになろうという方向に意識が向かうのかもしれない。

ロシアは、西側諸国にありとある経済制裁をかけられ、戦争もやっていて、大勢の難民を受け入れている上、ドンバスの復興まで引き受けているのに、経済は非常にうまくいっていて、人々は豊かに暮らしているし、公共施設もどんどん新設しているという。ヨーロッパでは、パンデミック、ウクライナと続いて、経済がボロボロ、失業者が増えて、燃料や食料品の値段が上がり、貧困が増えているというのにだ。

何が違うのかと言ったら、ロシアでは政府が腐敗していなくて、グローバル企業から不必要なものを法外な値段で買うのに、税金を使ったりしていないということ、そしてお金が搾取するために作られていないということがあるのだろう。つまるところ経済とは、社会が豊かになるために皆が働くためのシステムに他ならない。それを循環させるために、お金というものがある。お金は、それ自体が価値なわけではない。循環させること、つまり、人々が貯め込むために働くのではなくて、社会が豊かになるために働くような流れを作るためにあるわけだ。

200年前に、王政から資本家が支配する時代が始まって、産業資本主義が発達して、社会が豊かになったら、いずれは資本家ではなく、実際に働いている人たちが社会を動かしていく時代が来るだろうということが100年以上前から言われていた。それが、国家社会主義のような管理社会になるのだという説がさかんに流されていたのだけれど、それはこの時代の転換が起こることを恐れた資本家たちが作り出した嘘のイメージなのだと思う。そうではなくて、実際に働き、生産する人々が豊かになっていった結果、少数の金融資本家に搾取されるままになっているのではなくて、循環する経済を作り出すようになる、ということなのだ。それが今、ロシアを中心にして生まれようとしている多極化の世界だ。

これまでの世界では、ごく少数の金融資本家に世界中が搾取されていて、言うなりに働かされ、余剰は政府やメディアを乗っ取ったり、互いに殺し合うための戦争をしたりすることに使われていたわけだ。だけど、こうした搾取がなくなったら、経済には無駄がなくなり、あっという間に皆が豊かになって、楽に幸せに暮らせるようになっていくはずだ。一体どれだけの労働力が、社会を豊かにするためではなく、人を搾取するために使われていたかを考えてみればいい。そうこうしているうち、西側諸国はろくな製品を作る力もなくなって、ウクライナで使われている武器にしても、ロシアの方が遥かに性能のいいものを、ずっと安価に作っている。NASAが宇宙に行っているふりをして、地上で映画撮影ばかりしている一方で、ロシアは直に月軌道に衛星を打ち上げようとしている。私たち人類は、実はそれだけの生産力を持っているということなのだ。そして、世界全体では、すでにそうした経済の方向へ向かい始めている。このことは、これからの世界に大きな希望を示してくれていると思う。

2017年に発行された新しい2000ルーブル札


ロシア銀行総裁のエリヴィラ・ナビウリナ



シリアの紙幣。これもエネルギーはいい感じ。


ユーロの新札。クリーンな感じだけど、何か隠している感じ。


オーストリアのヴェルグルという町で使われた地域通貨。1930年代の金融恐慌のときに、町の経済を救った。これは10シリングの紙幣で、「困窮を緩和し、労働とパンを与える」と書いてあります。 エネルギー的には、他の紙幣とずいぶん違います。所有の重さがなくて、開放感があります。

2023年8月9日

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【マルクス主義者が銀行総裁になったら、どうなるのか?】



お札のエネルギーについて調べていたときに、ロシア銀行総裁のエリヴィラ・ナビウリナさんのオーラがあまりにも純粋できれいなのに驚いた。金融に関係がある仕事をしている人といったら、あこぎなくらいにお金にガツガツしている感じの人が多い。世界中にはいろいろな銀行があるから、いろいろな人がいるのかもしれないけれど、少なくとも西側諸国の金融関係の人はそんな感じだ。お金でお金を生むマネーゲームとかが好きそうで、とにかくお金が増えるということに、特別な魅力を感じているような人たちだ。

ところが、ロシア銀行のエリヴィラ・ナビウリナさんは、そんな感じがまったくない。金融関係の人たちによくあるような、お金を見せびらかしている感じの服装とかもしていない。それどころか、野暮ったい感じがするくらいの飾り気のなさだ。ロシアの政治家のパロディ動画で、エリヴィラさんを演じている役者さんは、「サッカーにもショッピングにも興味ないわ。お金を守ることだけに興味があるの」と歌っているのだけれど、まさにそんな風な人だ。自分がお金を持つことには別に興味もなくて、ただお金が循環するように守る仕事をするのが好きだからやっている、といった風だ。

典型的なロシア女性の顔立ちでもないので、どこの出身の人だろうと思って調べてみたら、この人はバシキール共和国という、聞いたこともないような国の人で、タタール人だった。バシキール共和国というのは、カザフスタンの北にある国で、もともと遊牧民族が住んでいたステップが広がっているところだった。しかし、地下資源が豊富で、加工する産業もあるので、今ではロシア連邦でも最も豊かな国だという。タタール人は多くがイスラム教徒だというから、彼女もおそらくイスラム教徒なのだろう。

お父さんは運転手だとあるから、特別に豊かな家でもなかったのだろうけれど、頭がよかったので、モスクワ大学に行って、経済学の勉強をしたらしい。専攻が国民経済とあるから、これはマルクス経済学だろう。そして彼女は、共同の研究で「疎外された労働」という論文を書いている。もともとマルクス経済の専門の人なのだ。

マルクス経済といったときに、イデオロギーとしてのマルクス主義と、経済理論としてのマルクス経済学は区別する必要がある。もともとカール・マルクスが著書「資本論」で書いたのは、資本主義経済が成熟して、社会が豊かになったとき、必然的に労働者が主導権を握る経済システムに移行する動きが起きる、という経済理論にすぎないからだ。そこには、だからどうするべきだということもない。ただ、経済の流れの必然としてそのようになるであろうという話にすぎない。

マルクスはハザールユダヤ系ドイツ人で、金融資本家のロスチャイルドとも親戚にあたる。彼はロスチャイルド家に資金をもらっていたという話があるから、もしそうなのだとしたら、ロスチャイルド家は資本主義経済が崩壊する危険があるのかどうかを調べさせて、それを未然に防ぐような策を講じるつもりだったのかもしれない。資本論を書いたあとで、思想家で実業家のフリードリヒ・エンゲルスが現れ、共同で空想的社会主義というものを唱え始めるのだけれど、これは経済理論ではなくて、イデオロギーだ。労働者による革命を起こすべきだという政治思想なのだ。それを、実業家でもあるエンゲルスが、マルクスとともに唱え始めた。

この背後に金融資本家のロスチャイルド家がついているとすると、どうもこれは、資本主義の崩壊を未然に防ぐためのロスチャイルド家の策だったのではないかという気がする。ここ20年くらいで世界中でさかんに行われたカラー革命のようにだ。ある種の理想主義で人々を煽って、政権を倒すように誘導して、国をもろとも乗っ取ってしまおうというのがカラー革命だったのだけれど、政権を乗っ取ったあとは、理想主義的な人々のための政治などではなく、独裁的な管理社会をこしらえて、搾取し放題だ。そして、最初にこの社会主義革命という名のカラー革命の犠牲になったのが、20世紀始めのロシア帝国だったわけだ。

ロシア革命当時の様子は、ドストエフスキーが長編小説「悪霊」で描いているけれど、当時のロシアには、資本主義経済などわずかしかなかったし、革命の主体になるべき労働者というものだって、ろくにいなかった。そして彼らは、ロシア皇帝を批判するなどということは、まったく考えてもいなかったのだ。外からやってきた革命家と称する人たちにやいやい言われて、宮殿に出かけていっただけのことだった。

要するにあのロシア革命というものは、マルクスが予言した共産主義革命とは何の関係もない。単なる政権乗っ取りのクーデターだったのだ。そしてそのクーデターのあとで、労働者たちは主導権を握るどころが、所有権さえ失って、国家の奴隷のようになってしまった。ロシア革命は、実はアメリカから送り込まれたハザールユダヤ系ロシア人たちによって行われたと言われている。つまり、外国から勝手に人が押しかけてきて、人々を煽って暴動を起こさせ、乗っ取ってしまったのだ。これは革命などではなく、占領と言うべきものだ。

マルクスが「資本論」で書いていたのは、そんな管理経済の話ではない。資本主義経済というものは、どのように発展していくのかという経済理論なのだ。資本主義経済は、人々がそれぞれ自由に自分の利益を追い求めて働くので、その結果、社会全体が豊かになっていく。すると、雇われて働いている人たちも、だんだんと経済力をつけていく。すると、ある時点で、雇われて働いている人たちが、主導権を求めるようになる。要するに、大勢の人々を少数の権力者が搾取し続けていたら、いつかは引っくり返されるということなのだ。これは、歴史的につねに起こってきたことで、そのようなことが起こると考えるのは、かなり的を得ていると言える。

マルクスは、雇われて働いている人たちが、雇われていることに不満になっていく理由として、搾取と労働の疎外という二つの点を挙げている。つまり、資本家はいつまでも雇われ人たちを低賃金でこき使って、のうのうとしていられない、ということだ。雇われ人たちは、賃上げだとか、労働条件の改善だとか要求してくるだろうからだ。そしていつかは、自分たちで工場を買い取るなり、労働の代価として取り返すなりして、利益を働いている人たちに還元するような仕組みを作るだろう、ということだ。

もう一つの労働の疎外というのは、ドイツ語でEntfremdungといって、つまり仕事が違和感のあるものになる、自分のものではなくなってしまう、ということを言っている。かつて自分で仕事をしていた職人たちは、腕を磨いて、自分の作品と言えるものを作っていたから、自分の仕事に誇りを持てたり、満足感を持てたりした。ところが、雇われて工場なんかで働いていると、できた製品は、自分の作品と言えるようなものではない。自分が思ったように働けるわけでもない。そうすると、仕事をすることの喜びというものがなくなってしまって、ただお金のために言うなりに動くだけみたいになってしまう。仕事をする喜びというものは、人間が生きていく上で重要なものだから、それが奪われると不満が募って、紛争が起きる、ということを、マルクスは言っている。

つまり、「資本論」でもともとマルクスが言っていたのは、資本主義経済で資本家が好き放題にしていられるのは今のうちだけで、いずれ雇われ人たちが利益を還元させるようにして、仕事の喜びが得られるような形に変えていくだろう、ということなのだ。

だから、ロシア革命で起こったのは、実のところ、マルクスが予言したものとは真逆なものだと言える。人々から所有することさえ奪い、自由に仕事をすることさえ禁止して、管理してしまったのだから。ソビエト連邦では、社会主義の理想であるとして、人々を支配してきたけれど、アメリカでは社会主義から自由経済を守るためと言って、人々を支配してきた。こうした金融資本家の工作のおかげで、マルクスが予言した資本主義の終焉は、百年くらいは引き伸ばすことができたのかもしれない。過去50年ほどで、生産性は10倍以上にも増えたというのに、人々の生活は豊かになっていないし、管理支配はかえって厳しくなって、仕事をする喜びも、ますます減っているようだ。利益を還元せず、ますます搾取していれば、人々は主権を取り戻す力などなくなって、金融資本家たちは支配権をまだ保っていられるということになる。

ロシア銀行総裁のエリヴィラ・ナビウリナさんは、マルクスの経済理論を学んで、経済省で働き始めたのだけれど、それはソ連が崩壊して、ロシアが自由経済に切り換えたあとのことだった。西側諸国の経済の専門家ならば、利益を上げることを第一に考える。つまり、GNI(国民総所得)を増やすことだとか、為替の相場が高くなるようにするとかだ。その一方で、絶えず大企業が自分たちが有利になるようにしてもらおうとして、買収しようとしてくる。だから、政治に関わる仕事をしていると、闇のお金を儲けようと思ったら、いくらでも儲けられるようになっている。

ところで、エリヴィラさんは、利益を上げるためではなくて、マルクス経済理論に忠実に仕事をしているように思える。この理論から行けば、つまり働いている人たちに利益が還元されるようにして、働くことに喜びが持てるような環境を整えれば、人々は満足して働き、社会は人々が幸せになるような方向に豊かになっていく、ということになる。つまり、利益が上がった分だけ、搾取と労働の疎外が少なくなるようにしていけば、それだけ労働が効果的になり、社会は豊かになっていくということになる。1990年代のエリツィン時代に、腐敗でボロボロになっていたロシア経済を立て直したプーチン大統領は、「紛争を防ぐには、経済を安定させるのが重要だ。経済が安定していれば、紛争も起きない」とオリバー・ストーンのインタビューで言っていた。つまり、現場で働いている人たちにとって、暮らしやすく幸せに働けるような状況を作れば、社会は安定していくということになる。

ロシアでは、収入はそれほど多くはないけれど、生活費が安くて、公共料金なども安いから、暮らしやすいらしい。学校や医療も無料だったりする。だから、人々はお金にガツガツする必要がなく、自分が働くことで、社会が豊かになり、人々が幸せになるということを楽しむ余裕があるということになるのかもしれない。

実際、ロシアの政治家たちは、エリヴィラさんにかぎらず、人々が幸せになるように働いているという感じがある。西側諸国の政治家たちみたいに、気取っていたり、権力を振りかざしていたり、あるいはろくな能力もないのに高いポストに就いていたり、といったところがない。たまたま自分が持っている能力が、その仕事に合っているから、その能力を使って役割を果たしている、といった感じで、特権階級な感じでもない。そして、実によく働くし、働いた結果がストレートに出るので、働くのを楽しんでいるという風に見える。

結局のところ、お金自体が豊かさではないし、お金とは、世の中が豊かになるべく、人々が働くような仕組みを支えているものにすぎない。重要なのは、仕事なのだ。管理されるのではなく、それぞれが思うように働ければ、それだけのびのびしていい仕事ができる。ロシアの政治家たちを見ていると、まさにそうした関係性が作られているのだろうと思える。

そしてそれは、まさにマルクスの経済理論によるものなのだろうと、私には思える。イスラム経済でも、富裕な人々は、貧しい人たちに施すことを義務づけているけれど、それによって貧しい人たちが暴動起こすこともなく、社会が安定する。社会が安定すれば、仕事がますます社会を豊かにしていくようになる。このように、バランスを取る仕組みが、マルクス経済にも、イスラム経済にもちゃんとあるのだ。それがないのは、資本主義の自由経済と呼ばれるものだけだ。

そして、社会主義国とイスラム諸国こそは、第二次世界大戦後、西側の金融資本家たちによって、最も攻撃されてきた二つのものだったのだ。このことは、この二つが資本家たちが搾取して、利益を独り占めにする仕組みを暴露して、崩壊させてしまうからなのだろう。しかしすでに、結果は出たようだ。今や、西側諸国は経済が崩壊し、文化的にも堕落して、ろくな製品が作れない状態に陥っている一方で、イランやロシアでは、遥かにいい製品を作り始めている。それはまさに、仕事の喜びがあるようにしてきたか、利益ばかりを考えてきたかの違いなのだ。

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ロシア銀行総裁エリヴィラ・ナビウリナとプーチン大統領***

2023年8月11日

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【マトリックスの壁を越えていく】



白頭山の封印解きセッションをやっていたときに、白頭山の真ん中を分断するように赤いガラスの壁のようなものが見えたと言っていた人がいた。その赤い壁は、しかしホログラムのようになっていて、通り抜けていくことができる。だけど、その壁があることによって、ほとんどの人はその向こうへ行ってみようとはしない。向こうへ抜けると、異次元空間が開けているのかもしれない。まったく違う世界に入ってしまうのかもしれない。それが恐いからなのか、誰も通り抜けていこうとはしないようだと言っていた。

イメージワークで出てくるこういうイメージは、集合意識の中に入り込んでいる封印なのだと思う。この赤い壁というのは、何を表しているのだろう? 赤い壁といったら、共産主義国のことのように思える。中国もソ連も、国旗は赤だった。そのイメージなのかもしれない。

白頭山は、北朝鮮と中国の国境のところにある。満州国があったときには、朝鮮半島は日本の領土になっていて、その向こうは満州国だった。そして満州国は、明治維新以降、軍国化していた日本が、ソ連と中国と戦争して勝った結果、獲得した広大な土地で、1930年代から中国やソ連との間で何度も紛争があった。満州国は共産主義から防衛するために重要なのだと日本は言っていて、紛争は中国やソ連が満州国の領土を取り返そうとして侵攻してきたから起こったのだと言っている。けれど、中国やソ連は、満州国の軍隊が国境警備の軍隊を攻撃してきたから、侵攻されないよう撃退したのだと言っている。どちらが正しいのかについては、未だに国同士の間で合意がない。白頭山のある土地は、共産主義圏との戦いがつねにあった場所であり、今でも事実がはっきりとされていなくて、そのために分断を作り出し続けている場所でもある、ということになる。

ロスチャイルド家のある女性が、近代の戦争はすべて、ロスチャイルド家がしかけていなかったら起きていなかった、と死ぬ前に告白したという話がある。実際、ロスチャイルド家があちこちへお金を動かすことによって、戦争がしかけられていっていたらしい。人間は、必要がなければ戦争などはしたくはないものなのだ。いくらそれで国が豊かになるからといって、国の若い子たちの命を犠牲にして、他の国に侵略しようなどとは思わない。だから、戦争をさせるには、その必要があるかのように思い込ませなければならないということになる。

そのために、どこの国は残虐で恐ろしい国だというような話が、まことしやかに語られるのだ。戦争はつねに、「XXの脅威」から国を守るためだとして、起こされる。それがイスラム教であれ、共産主義であれ、だ。イスラム教徒や共産主義者だからといって、残虐だということにはならないはずなのだけれど、残虐なことを平気でやる人々なのだという印象が、でっち上げられた事件やら衝撃的な画像やらで、繰り返し作り出されていく。ロスチャイルド家は、そうした心理操作を行うプロだった。彼らはそのために、巨額の資金を投じていたらしい。

戦争を作り出すためには、911のような大掛かりなテロが自作自演されることさえある。あるいは、ある国は危険な生物兵器や化学兵器を所有していて、使うつもりがあるという話が語られたり、そういう証拠が見つかったという話が作られたりする。人々が恐怖に震えて、防衛が必要だと思い込むようにするためには、どんな手でも使われてきたのだ。

20世紀に入ってからは、共産主義が脅威であるとして、戦争へ煽るために使われてきた。石油がエネルギー源として重要になると、今度はイスラム教が脅威だと言われるようになった。それで実際に、テロリストを送り込んで、残虐行為を行わせたりもしていた。アラブ諸国は、そうしたテロリストたちから国を守るために、軍隊を動かすことになるのだけれど、すると、独裁的な政府が国民を武力で弾圧していると報道して、イスラムの国は恐ろしいという印象を染みつけるわけだ。まったく同じ事が、中国でもロシアでも行われていた。それが、イスラム教徒は恐ろしい、共産国は脅威だ、という集合意識的な壁を作り出していった。

恐怖のイメージによって意識の壁を作るのは、昔から聖地を封印するのにも、よく使われてきた手法だ。人々を支配するために、征服者たちは、彼らが力を得ている源になっている聖地を封印する。そのときに、聖地でわざと残虐なことをしたりしたのだ。それによって、その場所に恐ろしい記憶をしみつけてしまう。そうすると、それまで聖地と繋がりを持っていた人たちは、残虐と敗北の記憶のために、繋がりを持つことができなくなってしまう。まるで、ホログラムがそこにあって、残虐なイメージを映し出し続けているかのようにだ。それによって、人々はその壁を通り抜けていくことができなくなってしまう。

白頭山を分断している赤い壁のイメージとは、白頭山の本当のエネルギーが、共産主義の脅威というイメージによって、封じ込められているということなのかもしれない。それなら、その壁を越えていくならば、本当の白頭山のエネルギーに繋がることができるのかもしれない。

白頭山は、日本の白山信仰の元宮だと言われているのだそうで、確かに白山のエネルギーとも共通したものがある。白山はククリヒメだと言われていて、つまり繋がりを作る力、分断を解消して、調和を作り出す力だということになるかもしれない。意識の壁を越えて、白頭山のエネルギーにアクセスして読み取ってみると、まさにそうしたエネルギーがあった。そこにあったのは、争いというものがそもそも存在しないような世界のイメージだったのだ。いろいろな民族の人々が、皆白い服を着て、手を繋いで大きな円を描いていた。モンゴル風の服の人もいれば、チマチョゴリの人もいて、中国の服の人、着物の人もいた。白頭山も白山も、白い光のイメージがあるけれど、その白なのだ。服が本当に白いわけではなくて、白頭山の白いエネルギーのために、白く見えていたらしい。

それは、その次元では、すべての人は潔白だという意味での白だった。「すべての罪は赦される」というのが、瀬織津姫の浄化の力だというけれど、白頭山のエネルギーは、まさにそれだった。その力によって、すべての罪が赦されるから、これまでの歴史で争い、罪を犯し合ってきた人々が、手を繋ぐことができる。それは、すべてが無条件の愛でしかなくなる6次元の世界なのだろう。

昨年2月に始まったウクライナの戦争では、ロシア軍が残虐行為を行っているという報道が、ウクライナと西側諸国ではさかんに流されていた。ウクライナとロシアはもともととても仲のいい国で、人々も互いに姉妹のように感じていた。それなのに、残虐行為の報道が毎日のように流されているうち、ウクライナの人々は本当にロシアが恐ろしい国だと思い込んでしまったのだ。そして、ありとあるロシア的なものを憎み始め、ロシア人に対して、平気で残虐なことをするようになっていった。隣の国は残虐で恐ろしい国だというイメージが、まるでホログラムの壁のように、ウクライナとロシアとを分断してしまったのだ。

ちょうど白頭山の封印解きセッションを行った翌日に、ロシアにいるウクライナ女性が、ウクライナの人々へ動画でメッセージを伝えているのが、テレグラムで拡散されていた。ロシアにあるウクライナのカフェに彼女は座っていて、そのカフェでウクライナ語の音楽が流れていて、ウクライナの食べ物があるのを見せていた。ここでは、ウクライナ語で注文しても、誰も変な顔をしないし、ウクライナ人だからといって差別する人は誰もいない、と彼女は言っている。現実のロシアは、ウクライナで信じられているような国とはまったく違うのだと。そのことを黙っていられなくなって、動画メッセージを送ることにしたのだと言っている。ウクライナでは、ロシアのものを何でも憎んでいるけれど、ロシアはそんなところではないのだと。だから目を覚まして、平和を求めて欲しいと、涙ぐみながら訴えていた。

それはまるで、マトリックスの外側からのメッセージのようだった。ウクライナでは、ロシアは恐ろしい国で、ウクライナ人は迫害されるという幻想が絶えず見せられていて、そのために人々はロシアに対して攻撃的な反応しかできなくなっている。映画「マトリックス」で、現実に存在していないものを意識に送り込まれて、それを信じているようにだ。このウクライナ女性の動画は、マトリックスの壁の向こうからのメッセージそのものだ。マトリックスの世界が現実だと思い込んでいる人たちには、それは存在しない虚構の世界のようにしか思えないだろう。しかし、マトリックスの存在に気づくことができる人たちは、そこからマトリックスの外が存在することを知るだろう。

私たち日本人もまた、これと同様なマトリックスの壁を、集合意識の中に作られてきたのだ。ロシアや中国が恐ろしい残虐な国だという意識が、繰り返し植えつけられてきた。そうやってできた壁が、意識のイメージの中で、白頭山を分断する赤いホログラムの壁として現れていたようだ。

意識のイメージの中に赤い壁として見えているマトリックスの外へ、その壁を通り抜けて出て行ってみると、そこにあったのは、まるで6次元の世界に移動したかのような、争いを越えた世界だった。そこでは、争いというものがそもそも必要がないのだ。十分に場所があり、誰もが大地に宇宙に守られて生きているのならば、どうして他人から奪う必要があるだろう? 3−4次元の意識では、現実は直線的な時間軸としてしか見えていないので、つねに競争相手とぶつかり、争っていなければならないように思えている。だから、絶えずまわりを見て、出し抜かれないようにしていなければならないように思えている。その意識状態で生きている人々を、たがいに戦わせることなど、まったく容易なことだった。相手が攻撃している、出し抜こうとしている、と思わせればいい。そして私たちは、その罠にまんまと引っかかって、あれやこれやを脅威だと思い込んで、恐怖を感じたり、憎悪したり、攻撃的になったりしてきたのだ。

赤い壁を通り抜けて出ていったときに見えたものは、まるでそれまで直線としてしか思えていなかったものが、平面に広がったかのような世界だった。何も争う必要などなかった。すべては十分に与えられていた。そしてこのことを、私たちは心の奥ではつねに知っていたことを、思い出したかのようだった。力の源から切り離され、恐怖を植えつけられたために、マトリックスの壁が越えられなくなっていただけだった。心の奥では、誰でもこの次元を知っていて、だから、その次元の意識では、誰とでも手を繋ぐことができるのだ。白頭山の封印の向こうにあったものは、その次元の記憶だった。

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白頭山の山頂のカルデラ湖


「風の谷のナウシカ」の腐海の中の場面


ウクライナ女性のウクライナの人々への動画メッセージ


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これは、昨年8月に出た動画で、西側のプロパガンダを信じて、ロシアがウクライナに侵略していると思い込み、モスクワで反戦運動やっていたロシアの英語通訳者マーシャさんが、アメリカのジャーナリストに誘われて、通訳としてドンバスに行ったあと、ドンバスの真実を語っているインタビューです。10日間のドンバスの旅で、マーシャさんは事実がまったく逆だったことを知って、自己崩壊起こすほどのショックを受けながら、それを受け入れていったプロセスを語っています。まさに、マトリックスの壁を越えていった体験です。元の英語版の動画は削除されてしまったんですが、日本語字幕付きのこの動画はまだ残っていました。前半だけですが、日本語字幕付きで見られます。

2023年8月14日


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【日本の文化的ルーツを取り戻す】



他の国を見ると、自分の国のことがよくわかる、ということがある。昨年2月にウクライナの内戦にロシアが軍事介入を始めてから、ロシアとウクライナの間に起きていることに世界の意識が向かっているけれど、ウクライナの今の姿は、日本がたどってきた道を見ているようなところがある。それを見ているうち、日本についてこれまで不可解だったことが、見え始めている。

ウクライナでは、ロシアのものがすべて弾圧されるということになっていて、ロシア語が公用語から外され、ロシア文学もロシア音楽も外されて、ウクライナ人のほとんどが信仰しているロシア正教まで弾圧されることになった。ウクライナとロシアはもともと同じ一つの国で、文化圏も共有してきた。だから、ウクライナにとって、ロシア文化をすべて排除してしまうのは、文化的な自滅行為そのものだ。ロシア文学もロシアの古典音楽も排除してしまったら、一体ウクライナには何が残るだろう? ゴーゴリはウクライナの出身だったというのだけれど、しかし彼はウクライナ語ではなくてロシア語で書いている。もともとウクライナ語とは、ロシア語の方言のようなものなのだから、一体誰かウクライナ語で文学を書いたりしたのだろうか? それは、東北弁とか大阪弁とかで文学を書くのと同じようなことに思える。

そして今、ウクライナ大統領のゼレンスキーは、英語を公用語に加えると言っていて、クリスマスも正教の1月7日ではなく、12月25日に変えるのだそうだ。つまり、ウクライナがアメリカ化されようとしている。しかし、スラブ民族の文化圏を共有し、とりわけロシア文化圏の一部を成していたウクライナが、ロシア文化を排除して、アメリカ化していったら、ウクライナ人は文化的なルーツが断ち切れてしまう。その結果、ウクライナは精神的に根無し草のようになってしまうだろう。

少し前に、ロスコスモスの元代表のドミトリー・ロゴジンが、ドイツ人ジャーナリストのアリーナ・リップのインタビューで、文化の破壊はファシズム化に繋がるということを言っていた。ウクライナでは、宗教を弾圧し、ロシア文化を排除しているけれど、文化的なルーツが断ち切られると、そこに悪魔主義が入り込みやすくなる。まさにそれが、ウクライナに起きたことなのだ。人々がよりどころとしてきた信仰や文化は、人として常識的に思考し、行動する基盤になってきたはずだ。ところが、そうしたものから切り離されたとき、人は上から言われるままに、悪魔主義でも何でも従ってしまうようなことになるのだと思う。だから、ドイツも伝統的な家族関係や中立公正なジャーナリズムはもとよりだけれど、それだけでなく、古典文学、古典音楽に親しむことが大事だと、ロゴジンは言っていた。ともかくもそうしたものは、精神的な根っこを繋ぐものになるのだからと。

ロシアは、ソ連のときにまさにこれをやられたのだ。ロシア帝国時代の伝統を否定して、ジェンダーを壊し、父親母親の代わりに親1親2というのも、ソ連のときに経験しているのだと、少し前にプーチン大統領が言っていた。宗教も、ソ連では弾圧されていた。大統領に就任したとき、プーチンがまずやったことは、ロシア正教を立て直して、国歌を作り直すことだった。ソ連が崩壊し、西側資本に何もかも持っていかれたような状態になっていて、ロシア人には精神のよりどころとするようなものが何もなかったのだと、オリバー・ストーンのインタビューで、プーチンは言っている。ともかく、信仰は物質的な利益や欲ではなく、人として正しく生きていくという感覚を与えてくれるものなのだと思う。

それを思えば、日本は明治維新のときに、同様なことをやられていた。チョンマゲが禁止になり、人々は伝統的な服装をやめて、洋装に切り換えさせられた。それで、日本人はどうもスタイルが悪いということになった。音楽も、西洋音階の音楽を強制されることになったので、多くの日本人は、音程が取れなくなり、音痴だということになってしまった。宗教も国家神道に切り換えさせられて、多くの神社はつぶされたり、国家神道に組み込まれたりした。このときに、そのときすでに廃れていた天皇家を権力の中心に持ってきて、西洋風の立憲君主制に変えたのだけれど、明治以降の天皇は、平安時代の頃までの天皇とはまったく違うもので、西洋の皇帝を真似たものでしかない。

第二次世界大戦後には、今度は日本はアメリカ化されることになった。昔から日本と深い関係があった中国や韓国やロシアの言葉ではなく、英語が必修科目になった。核家族化が勧められて、伝統的な子育てではなく、ベビーベッドに乳母車で育てられるようになった結果、多くの日本人は自閉的になった。琵琶や三味線ではなく、西洋の楽器を弾くようになり、神楽や仕舞ではなくバレエやソーシャルを習うようになり、そうした日本の伝統文化に関わる伝統的な手工業も廃れていった。日本の土地に根づいた文化を継承しているという感覚が持てなくなって、外国の真似事みたいになっていった。

多極化の世界が、グローバル化と大きく違うのは、まさにその点にある。西側のグローバリストが目指すグローバル化とは、世界中がある一つの同じ文化を持つというもので、つまるところ、世界中がアメリカ文化の消費者になるということを意味している。しかし、BRICSが目指している多極化の世界とは、そういうものではない。それぞれの民族が、それぞれに伝統的な文化のルーツにしっかり繋がっていて、自立的に文化を作り出し、対等に交流するのが、多極化の世界だ。それは似ているようでいて、正反対とも言えるものだ。

しかしそれならば、日本の文化的なルーツとは何なのだろう? 日本の古典文学といったら、万葉集や今昔物語、能楽や歌舞伎、浄瑠璃、和歌や俳句といったものがすぐに思いつくけれど、それが文化的なルーツになるのかといったら、どうも今ひとつ何かが足りないような気がする。どれもすばらしいものではあるけれど、文化的な根っこをしっかり繋いでくれるのかといったら、そういう強さ太さがないように思えるのだ。

この頼りなさは、ロシア文化を取り除いてしまったあとのウクライナ文化の線の細さと似たものがある。大したものが残っていないのだ。地域的なものでしかないという感覚がある。ウクライナにとってのロシア文化と同様なものは、日本にとっては中国文化だ。江戸時代までは、漢学こそが重要なもので、医学も漢方だし、占いは易学だし、風水や陰陽道の考えで、建築でも庭園でも設計されていた。俳句や短歌だって、漢詩の壮大な世界があってこそ、その地域的なヴァリエーションとして生きてくる。もともと日本は、中国を中心とする壮大な東洋文化圏の一部だったのだ。そう考えたときに、日本の古典文化のすべてが、先ほどの線の細さを失って、力強い繋がりを持ち始めるようだ。

日本は、明治以降、中国文化を排除してしまい、この大きな文化圏の一部であることをやめてしまったのだ。そのために、何だか根無し草のようになってしまった。日本はそれによって、文化的なアイデンティティを失ってしまったのだろう。

中国もまた、ロシアと同様な大国だ。中国もロシアも、これだけの大国になった経緯として、遊牧民族たちとの長い戦いの歴史がある。定住農耕民族と遊牧民族との、果てしない戦いだ。それでロシアも中国も、遊牧民族が支配したり、定住農耕民族が支配したりといったことがあった。その長い戦いの歴史の中で、多民族が調和していく道を作り出していったのだ。まさにその歴史が今、ロシアと中国を、世界の多極化の推進力としているのだと思う。

ロシアも中国も、多様な民族が生きる大国で、ロシアがスラブ民族の国ではないのと同様に、中国は漢民族の国ではない。中国の最大の都の長安は、シルクロードの入り口に位置していて、西域の遊牧民族もたくさんいたらしく、中国最大の詩人、李白は、テュルク系の人だったという話もある。李白の有名な詩に、馬上で葡萄酒を飲んで酔っ払ったという詩があるけれど、漢詩の授業であの詩を習ったときは、どうして中国で葡萄酒なのかと不思議に思っていた。李白がテュルク系の遊牧民族なのだとすれば、すべてがしっくりと来る。李白の詩のあの破天荒さは、まさに西域の遊牧民族だからこそのものだったのだ。唐の時代からして、それだけの民族的な多様性を抱えて、文化を創造していた都こそは長安であり、私たち日本人もまた、その文化を継承している一部なのだと考えると、しっかりした大きな根っこに繋がった感覚が確かにある。

中国には神仙道のシャーマニックな伝統もあり、太極の考え方もあり、龍脈を扱う伝統もある。いろいろな民族文化が交流しているというだけでなく、つねに多様なものとバランスを取って、調和を作っていこうとするような考え方がある。そしてそうしたものこそは、日本の精神性の背景になっているものなのだ。これを抜きにしてしまうと、日本の精神性とは、何だか特殊でよくわからないものになってしまう。

こうして、日本がもともと一部であった中国の文化と切り離されてきたのは、今ウクライナがロシアに対して戦争をけしかけさせられているのと同様に、日本が中国に戦争をしかけるようにするためだったのだ。しかし、それこそはまさに、日本の本当のアイデンティティから切り離してしまうようなことだった。今、こんな風に日本がまた中国に対して戦争させられそうになっているけれど、そのおかげで私たちは、日本人の文化的ルーツを取り戻さなければと思い、中国との深い文化的な繋がりを思い出してもいる。どんなことにでも意味があるのだから、それもまた宇宙の恩恵と言えるのかもしれない。


李白

これ見ると、李白はキルギスの生まれで、一生ひとところに留まらず、中国中を旅していたことがわかります。遊牧民の血なのかもしれません。

2023年8月15日

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【龍の文化】



日本文化は大きな中国文化圏の一部だということを書いたら、さまざまな反応があったのだけれど、おそらく多くの人は、中国文化についてあまり知らないのだと思う。中国文化といったら、学校で学ばされる漢文の記憶とかが蘇ってきて、漢字の並んだ聞き慣れない名前が浮かんでくるくらいなのかもしれない。中国文化ではなくて縄文文化がルーツだと思うと書いてきた人も多かったし、中国文化は縄文人が作ったのだという最近の説を言う人もいた。

日本が中国文化圏の一部だと思ったとき、私には、これまで日本の文化として捉えていたものが、まったく別な巨大なスケールで見えてきたのだ。それは、これまで見えていた部分が、実はもっと大きなパズルのピースのようなもので、それがピタリとはまったときに、遥かに大きな絵がそこに見えてきた、といった感じだった。どっちが元祖だとか、どっちが偉いとかそういう争いのレベルを越えたところに、すべてを繋いでいる大きなネットワークが見えてきて、私たちはずっと大きな次元でともに世界を創造してきたのだというような、感動があったのだ。

どこに繋がりを感じるかは、人それぞれだと思うけれど、私にとっては、中国文化とは、何よりも壮大なファンタジーの世界だ。それは、神仙思想とも繋がっており、自然の力、大きな宇宙の流れを読み取ろうとする太極の考えにも繋がっている。そうした知的体系があってこその、ファンタジーの壮大さなのだと思う。そこに私は、魂の故郷に出会うような感動さえ感じるのだ。

岩波文庫に「唐宋伝奇集」という本があって、その本が私はとても好きなのだけれど、そこでは中国に伝わるいろいろな異界の物語を読むことができる。龍の話だとか、仙術が使える白猿の話だとか、仙人に幻影を見せられて、人生の真実を知る邯鄲枕とか杜子春の話とかだ。そうした話には、意識の次元の世界の真実といったものがあるのだけれど、中国の物語には、それが太極や神仙思想にしっかりと支えられているがゆえの、スケールの大きさとリアルさ深さがある。そこが私にとっては、たまらない魅力なのだ。

その本に、唐の時代に書かれた「竜王の娘」という物語がある。ある男が、科挙の試験を受けに行って、落ちて帰ろうとしている旅の途中に、悲しげな様子をした美しい女性に出会うのだけれど、その女性が実は洞底湖の竜王の娘だったという話だ。彼女は、別な竜王の息子のところに嫁いだのだけれど、そこで虐げられている。だから、洞底湖の父に知らせて、助け出してくれるように言って欲しいと言って、男に手紙を託すのだ。それで、男が洞底湖まで長い旅をしてたどり着くと、娘に教えられた通りに、南の岸に神木があって、帯が巻いてある。それを取って、帯で木をたたくと、竜の使いが現れて、湖底の宮殿に導いてくれる。そこで竜王が現れて、手紙を読むと、娘がそんなことになっていることを知って涙を流し、その手紙は宮殿の女性たちにも回されて、皆が泣き叫ぶ声が聞こえる。すると、気が荒いので刺激しないように皆が気をつけていた竜王の弟がそれを聞きつけてしまい、とたんに嵐が起こって、竜王の弟が娘の嫁ぎ先に飛んでいく。その間、男は竜王にもてなされて、宴が開かれ、酒や料理や踊りや歌が出ていると、やがて竜王の弟が帰ってきて、みじめな姿をしていた竜王の娘が、美しい姿になってやってくる。竜王の弟は、怒りにまかせて嵐を起こし、そのために60万人が犠牲になり、八百里の田畑が荒らされ、娘を虐げていた夫は食べてしまったと竜王に話している。

その後、男はそうとは知らずに竜王の娘と結婚することになり、子供が生まれたときに、初めてあのとき助けた竜王の娘だったことを告げられて知る。それで男は娘とともに洞底湖の竜王のところに行って、竜と同じく一万年の寿命を持てるようにしてもらう。最初の何十年かは、まわりの人に何故齢を取らないのかと不審がられているのだけれど、そのうち姿を消してしまって、洞底湖の住人になっていた、という話だ。

日本にも、いろいろなところに竜の伝説がある。湖に棲んでいる竜の話、竜になった人間の話などがある。だけど、唐の時代に書かれたこの竜王の物語には、竜というものの全体が描かれている。竜王が住む竜宮があり、竜が怒るとどうなるのか、竜を助けるとどういうことがあるのか、そして仙人のような不老長寿というものも出てくる。洞底湖というのは、地方一帯の重要な水源になっている湖で、その竜が怒ると、災害が起きるというのは、実際にその地方で起きた自然災害のことらしい。だから、ここで出てくる竜とは、自然の力、水の力のことで、呪術的な意味で、それとどのようにつきあうべきなのかということも、この物語には含まれているのだ。

自然の大きな力とともに生きていくという感覚が、日本の精神性の中にもある。自然の力をさまざまな神と考え、それに感謝したり、なだめたり祈ったりといったことをしてきた精神文化がある。そうしたもののすべてが、この竜王の物語によって、一つのまとまった世界の中にはまるような感覚がある。私たちが知っているようなこと、感じてきたようなこと、魂の奥で知っていたような気がすることが、実はこうした世界の一部だったとわかるという感覚だ。それは、あれこれ冒険してきたあとで、地図を見て、初めて全体がどうなっていたかがわかるようなものだとも言えるかもしれない。

東アジア文化圏全体で読まれ、実践されている易経は、伏羲(ふぎ)という 実在も定かでない伝説の帝王が書いたと言われているけれど、この 伏羲という人は、大洪水が起きたときに、妹の女媧(じょか)とともに瓢箪の中に入って助かり、夫婦になって新しい文明を始めたと言われている。これは、ノアの方舟とかアトランティスの水没とかとも通じる話で、 そのことからすると、この易経というのは、それ以前の文明、アトランティスのような文明から持ってきた知識だということになると思う。中国では、長い歴史の中で支配権力が何度も入れ換わったりしながらも、ともかくそのときからの文化が、ずっと継承されてきているのだ。そして、まさにその知識が、東洋文化全体の根幹になっている。

易経は、八卦といって、天、地、雷、風、水、火、山、沢の8つの要素で、世界のあらゆる状況を説明している。だからこれは、西洋の四大要素のようなものだとも言え、五行のようなものだとも言える。それによって、世界がどのようにできていて、どのように動いているのかを知ることができるのだ。それは、因果応報みたいなものだとも言えるけれど、いい悪い、正しい間違っている、ということを決めているというよりは、宇宙の理(ことわり)がどのようになっているのかを表しているようなものだと言える。

中国の古い伝奇物語に、不思議なリアルさと深さがあるのは、こうした宇宙の理を表した知的背景があってこそのものなのだと思う。私たちは、どれはどの国の文化だとか、自分の国の文化じゃないとか、どっちが先に発見したとか、どっちが正統だとか、そういうことにこだわりがちなのだけれど、地球全体から見たら、国境とか誰がどこの国に属しているとか、そんなこととは関係がなく、地球全体としての大きな創造が連綿と続いてきたというだけなのだと思う。そして日本文化は、まちがいなく 伏羲から始まる大きな文化圏の流れの中にある。その大きな流れの中で見たときに、実は国境などなく、すべてが繋がっていたということがわかるんじゃないかと思うのだ。

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竜王の娘(柳毅伝)の絵


伏羲と女媧


ヨーロッパでは、ウンディーネの伝説が、竜王の娘の話と似ています。これは水の精と人間の男の愛の話ですが、水の精の女性を傷つけると、親族の復讐を受ける。河や地下水や湖がすべて水脈で繋がっていて、父王は湖、河は叔父、彼らが怒ると、洪水が起きたり、嵐が起きたりする。

これも壮大なファンタジーの世界です。西洋のファンタジー世界の背景になっているのは、西洋四大要素、タロットや占星術の元になっているカバラですね。

ウンディーネの物語。ここであらすじが読めます。

2023年8月16日

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【文化のグローバル化】



中国文化について書いていたら、けっこう否定的なコメントが多かったので驚いた。というより、中国文化というものに対して、もうずいぶん意識が離れているようだ。90年代くらいまでは、まだ中国の古典文化に対して、大きなすばらしいものだという意識がともかくもあって、東アジア文化圏の一部として、そういう古い文化を共有しているということに、民族としての誇りみたいなものもあったと思うのだけれど、そういう感覚がこの20年くらいで消え失せてしまったようだ。

しかしこれは、日本だけのことでもないし、中国文化だけのことでもない。世界のグローバル化によって、ここ20年くらいで、古典文化との繋がりがいたるところで断ち切られてしまったのだ。

ロスコスモスの元代表ドミトリー・ロゴジンが、第二次世界大戦前のドイツにしても、今のウクライナにしても、国をファシズム化するためには、文化的な根っこをまず切り離していくのだということを言っていた。国民のほとんどが信仰している宗教を弾圧したり、古典文化を禁止したりすると、人々は民族的な根っこを失ってしまい、ファシズムに持って行かれてしまいやすくなるのだと。

この20年ほど、世界中で激しいグローバル化が起こっていたけれど、それでいつの間にか、古典文化との繋がりが断たれてしまっていた。オーストリアでは、古典文化といったら、クラシック音楽にオペラだけれど、これも演出が現代風になりすぎて、かつてどこにでも普通にいたファンたちは離れていった。クラシック音楽もオペラも、慣れ親しんだ文化を共有しているという感覚があるから、人々が自分の民族的な根っこを確かめられるものになっていたのだと思うけれど、それが現代風にされすぎて、慣れ親しんだものではなくなってしまったのだ。

文化を弾圧する代わりに、異質なものに変えてしまうというやり方もあったということらしい。中には斬新で面白い演出もあるけれど、グロかったり、残虐なイメージが入っていたり、単純に悪趣味だったりといったものが徐々に増えていって、いつの間にか、昔ながらの舞台が見られなくなってしまった。

芸術はつねに新しくなっていくのだから、斬新なものが出てくるのはいいのだけれど、昔ながらのものであってはいけないというような、変な圧力がどこからかかかっていた。とにかくこれまでなかったようなものでなくてはいけないというので、奇妙なものや趣味が悪いものが舞台に登場するようになり、それがもてはやされるという妙なことが繰り返されていった。そうこうするうち、伝統的な趣味のいいものを作れる人たちも、いつの間にかいなくなってしまった。2000年代には、そうしたことがあらゆる芸術分野で起こっていて、一体何だってこんなことになっているのかと思っていたけれど、今となっては、あれもすべて意図的に誘導されていたのだということがわかる。

民族衣装も、かつては伝統的な手法で作られた職人仕事のものしかなかったのに、いつの間にか安い既製品に取って代わっていき、ファッションの一つでしかなくなってしまった。ちょうど同じ頃、日本では、着物をきれいに着ている人が少なくなって、前だったら絶対なかったような、おかしな着方をしている人が増えたので驚いたけれど、まさにああいう感じで、オーストリアでも民族衣装の着方がおかしくなっていた。それと同時に、伝統的な手法を知る職人たちもいなくなり、地場産業も消えていったわけだ。

民族衣装を着るのは、自分の民族的なアイデンティティに関わることなので、外国人として民族衣装を着るのは、それなりの覚悟がいるようなことだった。精神的にオーストリア人になるということを意味していたわけだ。だけど、安い既製品が出回るようになると、それももうどうでもいいようなことになった。誰でも気軽に着られる一方、精神的なアイデンティティとしての民族文化との繋がりを感じられるものではなくなってしまった。それはもはや、大量に消費される商品にすぎなくなってしまったのだ。

それと同様に、古典文化もまた、小難しいものになったり、悪趣味なものになったりして、精神的なアイデンティティが感じられるものではなくなってしまったわけだ。伝統的なものは、古くさいとか保守的だとか自由がないとか言われて、排除されていった。その代わりに、お金でいくらでも取っ替え引っ替えできるようなものが増えていって、次々と現れては消えていき、お金だけがグルグルまわっていくようになった。

その結果、収入も消費も増えて、豊かになったはずなのに、生活は安っぽくなり、つまらなくなったと言える。本物の手触りがするものがなくなって、どれも同じようなものになり、文化もお金で消費されるようなものになっていった。

70年代くらいから、アメリカほど共産主義的な国はない、ということが影で言われていた。アメリカは、中国やソ連の共産主義と戦っている第一の国で、自由と民主主義とを何よりも大事にしているはずだった。だけど、アメリカではどこに行っても、皆同じような家に住んで、同じようなものを食べて、同じようなものを着て、同じようなテレビを見ているというのだ。それは、ソ連や中国の管理経済でやっていたのとまさに同じような状態だし、それ以上に画一的でさえある、と。全体主義と戦うと言いつつ、アメリカはまさに全体主義へと導かれていったのだ。

1990年代までは、ヨーロッパはまだその流れに抵抗して、独自の道を進んでいたようなところがあった。だけど、それも2000年代になったら、アメリカと同じようなことになっていった。前は、伝統的な価値観を大事にしていて、お金だけでは動かないようなところが、ヨーロッパ人にはあったけれど、それもなし崩しになっていった。伝統的な価値を守ろうとしていた事業は淘汰されてしまって、グローバル企業に独占されるというようなことになったのだ。経済がグローバル化したせいで、国の産業を守ることができなくなった。経済的に植民地化されたのと同じようなことだった。

つまるところ民族文化とは、その土地で自立して生活していく技だと言える。衣食住に関わる品物を、土地で生産し、土地で消費する伝統だ。だから、それぞれの土地に独自のものがあり、それはその土地の生活に合っている。つまり、自然環境を保ち、健康的な生活を続けていけるような生活スタイルがあり、そのためのすべての知識や技がある。その土地に自然にあるものから道具を作る技、繊維を取り出して糸を作り、布を織る技、土地に合った農法や、建物の建て方、そうしたものがすべてあり、継承されていて、その土地の生活を豊かにするべく機能していたわけだ。

そうしたものが、少しずつ切り崩されていき、しまいには何もかもグローバル企業が作り出す製品に取って代わっていって、土地の産業も消えていくと、その土地にはもう自立して生きるすべがなくなってしまう。何もかも、グローバル企業から買うしかないという事態になる。おそらく、その状態になっていたら、国をファシズム化するのもわけはなくなるのだろう。土地に根づいて自立的に生きていくすべが、物質的にも精神的にもすでに消え去っているわけだから。

2020年に奇妙なパンデミックが始まったときに、多くの人々がメディアに煽られて操作されてしまったのは、世界がすでにそこまでグローバル化し、自立した精神的アイデンティティが失われていたからなのかもしれない。しかしその一方で、あのときグローバル化の否応もない流れから、多くの人々が脱出し始めたというのも事実だったと思う。あのとき初めて、多くの人はこの流れが奈落に向かっていることに気づき、飛び降りていこうとしたのだ。全体からしたら、少数派ではあるけれど、世界中では少なくない人々がだ。

奈落を前にするという事態になって、私たちは初めて、失っていったものの価値に気づけるのかもしれない。気づいて立ち止まり、向きを変えることもできるのかもしれない。ルネサンスが、古典古代の文化と切り離されてしまったことに気づいたときに、失われた文化を取り戻そうとする運動から始まったようにだ。つまるところ、健康な土地さえあれば、私たちは生活に必要なものをすべて作り出すことができる。そのための知識も技もすべて存在している。これまでにあった文化は、いつでも再び掘り出し、発見することができる。文化の歴史は、実のところそうしたことの掘り返しでさえあるのだから。

多極化の世界が始まっていこうとしている今、グローバル化によって、伝統文化、古典文化から切り離されてしまったことに私たちはようやく気づき、それを取り戻すことから、新しい創造を始めていけるのかもしれない。だとしたら、一度繋がりが断ち切れてしまったことも、あるいはよかったのかもしれない。伝統文化につきものの因襲的な制限も、同時に消えてしまっているわけだから。

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うちの庭に初めて咲いた銀アザミ(Silberdistel)。珍しくなってしまった野生の花。

2023年8月17日



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【本物の持つ手触り】



オリバー・アンソニーという人のカントリーソングが、YouTubeで公開されてから、ほんの一週間ほどで大ヒットになったそうだ。この人は、ヴァージニアの農場で三匹の犬とともに生活している人で、少し前まではまったく無名だった。「リッチモンドの北の金持ちたち(リッチメン)」というこの歌は、「ワーキング・クラスのプロテスト・ソング」と書かれたりしていたけれど、世界が管理社会へと進んでいく中で、とことん搾取されていく人々の嘆きを歌っている。

「古い魂を持って、新しい世界に生きている。
リッチモンドの北の金持ちたち、
やつらがただ完全に管理しようとしているのは、神が知っている。
君たちが何を考えているのか、何をしているのか、やつらは知りたいんだ。
やつらは君たちがそれを知らないと思っているけど、君たちが知っているのを俺は知ってるぜ。
君のドルは糞じゃないし、とことん税金取られるからな。
リッチモンドの北の金持ちたちのせいで」

この人は、お酒やドラッグにさんざん溺れたあとで、若い人たちに希望を与えたいと、2021年に思い立って歌を作り始めたというようなことが、ネットの記事に書いてあった。これは政治的な歌ではあるけれど、これが大ヒットしたのは、それよりも生の本物の音楽だからだ、ということを政治コメンテーターのマット・ウォルシュという人が書いていたそうだ。

「本物の」というのは、 authentic の訳なのだけれど、このオーセンチックというのは、正統なカントリー音楽だとか技が本格的だとかいう意味ではなくて、ごまかしがまったくない、その人そのものの表現だということだ。この曲がとつぜん大勢の人々の心を惹きつけたのは、まさにそれだと思う。本物の世界、本物の現実がそこにあるという、その感覚なのだ。

音楽でも映画でも、私たちはここ何十年も、意図的に作られ、操作されたようなものばかりを見せられてきたのだ。心理操作が入っているような音楽や映像、意図的に恐怖を植えつけたり、催眠にかけるような暗示が入っているようなものばかりが、表に出てくるようになっていた。そういうものは、お金がかかっていて、きれいにできていたりするけれど、リアルな人間の表現ではなくて、人工的な不自然さがある。ヴァーチャルな世界ばかりを見せられて、本物の自然な現実がない。そういうところに生きてきて、それが当たり前なのだと私たちは思ってきたのだけれど、このオリバー・アンソニーの歌を聞くと、これが本物の現実の手触りなのだということに気づく。そして、私たちはそれまで、意図的に作り出されたヴァーチャルなマトリックスの世界に生きていたということに気づくのだ。

この、「これが本物の現実なのだ」という感覚、まるでマトリックスの世界に亀裂ができて、外の本当の世界が見えてしまったような感覚は、ロシアの「ザ・チャレンジ」という映画のトレイラーを見た時にも感じた。この映画は、地球軌道をまわる宇宙ステーションの中での事件をめぐる物語で、俳優とカメラマンが実際に宇宙ステーションに飛んで、ロケを行ったという映画だ。3分ほどのトレイラーの中で、宇宙ステーションで撮影した映像を見ることができるのだけれど、それには、本物の宇宙空間とはこんなに美しいものなのかと思うような、何かハッとするようなものがある。

宇宙ものの映画といったら、CGや特殊撮影を使って無重力状態を表現している。映画どころか、NASAの宇宙飛行の映像さえもが、実はスタジオ撮影されたものだったことが、この頃ではわかっている。無重力を装ってはいるけれど、地上で撮影されたものだったのだ。だから、宇宙空間とはそうしたところなのだと私たちは思い込まされていたわけなのだけれど、ロシアのこの映画の映像を見ると、とたんにこれまで見せられてきた映像は、本物ではなかったということに気づいてしまう。本物の宇宙空間とは、もっとずっと深い、すばらしい広がりを持ったものだったのだ。そのことに気づくとき、本物のリアルな世界には、しっかりとした手触り、手応えがあるのだということを、私たちは思い出すのだと思う。

この本物(authentic)の感覚というのは、理屈ではない人間の生の多様性のようなものであり、多様でありながら、同じ人間なのだという感覚だと思う。一言で言うならば、生命の力、生命エネルギーといったものだ。そうしたエネルギーがあるかないかが、つまるところ芸術の価値であり命なのだけれど、これまで私たちは、その感覚を忘れさせられてきた。

昔は、芸術作品は、技だとか正統なスタイルに合っているかどうかとか、そういうことで判断されてきた。それで、精巧にできてはいるけれど、型にはまったつまらないようなものが高く評価されたりもしていた。それがここ数十年くらいは、これまでになかったような新しい表現がいいということになり、確かに新しくはあるけれど、悪趣味なグロい表現が評価されることになった。ところで、どちらも作品の持つ生命エネルギーという視点が欠けている。本来は、それこそが芸術にとって最も重要なものであるはずなのに。

オリバー・アンソニーのカントリーソングや、ロシアの宇宙映画「ザ・チャンレンジ」にあるような本物の感覚とは、まさにその生命エネルギーの感覚なのだと思う。本物の命の力、本物の世界の力。そうしたものが、この何十年かずっと私たちの目から隠されてきて、私たちは作られたヴァーチャルな世界を本当の世界だと思い込んできた。本当の世界と繋がったとき、私たちはけっして無力な存在ではなく、自然にも宇宙にも繋がって現実を作り出していくことができるのがわかる。まさにそれこそは、命の力というものなのだ。そして、その力から人々を切り離すためにこそ、人工的に作られた虚構の世界ばかりを見せられてきたものらしい。

7月初めにアメリカで公開された「サウンド・オブ・フリーダム」という映画にも、この本物の命の力というものを感じた。幼児売買を検挙して、誘拐された子供たちを解放する仕事をしている実在の覆面捜査官の物語で、これは内容が本物の現実を表しているだけではなく、映像や演技のすべてに、人工的なごまかしがないリアルさがある。この映画は、公開させまいとする圧力がかかって、何年も公開されなかった上、上映された映画館も少なかったのにも関わらず、大ヒットした。それも、オリバー・アンソニーの音楽が大ヒットしたのと同じ理由なのだと思う。本物の現実がある、というその感覚なのだ。

ここ20年くらい、映画もマトリックスを作り出すために、操作されてきたようなところがある。極度な暴力シーンやグロい場面が増えて、現実の世界が何だか空恐ろしいところのように思えるような映画ばかりになっていった。現実の世界では、人間はどんな状況でも適応して生きていくような強さを持っている。だけど、映画が作り出す世界では、人間は世界の中で翻弄されるばかりで、まるで無力なように思える。現実の手触り、現実の手応えというものがないのだ。現実の手応えがあれば、私たち人間は反応することもでき、現実を変えることもできる。だけど、その感触がないがないのだ。本当の命の力と切り離されたところで、違和感しか感じない世界を現実として見せられているようなものだ。

「サウンド・オブ・フリーダム」は、闇世界の拠点に覆面で乗り込んでいくという、ジェームズ・ボンドさながらのハードボイルドなサスペンス映画でもあるのだけれど、そこには誇張もごまかしも一切ない。まったく現実にあった話を、そのままに表現している。そのリアルさを感じたときに、これまで見せられてきた映画の世界は、意図的に作られた虚構にすぎなかったことに気づいてしまう。残虐さがあれば、そこから人々を救い出そうとする力もまた、強くなる。現実の世界には、つねにそうしたバランスを取る力が働いている。本物の現実の手応えとは、そうした力を思い出すことでもある。

今年は、多極化の世界が現実的なレベルでできてきて、新しい表現も生まれてくるんじゃないかという予感があったのだけれど、それはこうした本物の現実の感触があるものだったのだ。そうしたものこそは、マトリックスの外を示して、マトリックスに亀裂を入れてしまうものだ。おそらくは、こうした表現こそが、新しい世界を作り出していく力なのだろう。そういうものが、宣伝もしないのにあっという間に世界中でヒットするような状況になっている。いよいよ面白い時代になってくるという予感がする。

***

オリバー・アンソニーの「リッチモンドの北の金持ちたち」
https://youtu.be/sqSA-SY5Hro

歌詞の翻訳

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これまで俺は魂を売ってきた
一日中働いて、クソみたいな給料で何時間も残業だ
それでここに座り込んで、人生の時間を無駄にしている
足を引きずって家に帰り、悩みを紛らわそうとする
世界がこんなになってしまったとは、何という恥辱だ
俺みたいな人間にとっても、君みたいな人間にとっても
目を覚ましたら、こんなことは本当じゃなかったっていうんならいいのに
だけど、これが現実なんだ。ああ、現実なんだ。

古い魂を持って、新しい世界で生きている
このリッチモンドの北の金持ちたち
やつらが世界を完全にコントロールしようとしているのは、神が知っている
君が何を考え、何をしているのかを、やつらは知りたいんだ
やつらは君がそれを知っているとは思っていない
だけど君が知っていることは、俺が知っている
君のドルは糞じゃないし、果てしもなく税金を取られているんだから
リッチモンドの北の金持ちたちのせいで

政治家は鉱夫たちのことも考えて欲しいね。どこかの島の子供たちのことばかりじゃなくて
神さま、路上で暮らしている人がいます。食べるものもない人たちが。
でっぷり太った人たちが、福祉のお金を搾り取っているのに

おお神よ、5フィート3で300ポンドの巨漢なら
ファッジの袋に税金を払わなくていい
だけど6フィート(約1.5メートル)の若者たちは、地面に叩きつけられる
このクソ国家は彼らを蹴り倒し続けているんだから。

これまで俺は魂を売ってきた
一日中働いて、クソみたいな給料で何時間も残業だ
***

英語の原文はこちらです。

I've been sellin' my soul, workin' all day / Overtime hours for bullshit pay / So I can sit out here and waste my life away / Drag back home and drown my troubles away.

It's a damn shame what the world's gotten to / For people like me and people like you / Wish I could just wake up and it not be true / But it is, oh, it is.

Livin' in the new world / With an old soul / These rich men north of Richmond / Lord knows they all just wanna have total control / Wanna know what you think, wanna know what you do / And they don't think you know, but I know that you do / 'Cause your dollar ain't shit and it's taxed to no end / 'Cause of rich men north of Richmond.

I wish politicians would look out for miners / And not just minors on an island somewhere / Lord, we got folks in the street, ain't got nothin' to eat / And the obese milkin' welfare.

Well, God, if you're 5-foot-3 and you're 300 pounds / Taxes ought not to pay for your bags of fudge rounds / Young men are puttin' themselves six feet in the ground / 'Cause all this damn country does is keep on kickin' them down.

I've been sellin' my soul, workin' all day / Overtime hours for bullshit pay.

2023年8月18日

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【国と国を喧嘩させる方法】



ハザール・ユダヤ系のある財閥家は、200年くらい前から、国と国と喧嘩させる名人だったらしい。喧嘩させることで、間で儲けるのが大得意だった。これが今は、イギリスやアメリカの諜報部だとかに入り込んで、同じことを続けているらしい。そうやって特にこの100年ほどは、大規模な戦争が世界中で繰り広げられていた。

人と人を喧嘩させようと思ったら、一番よく使われる手は、相手が悪口を言っていたとか、何かを企んでいるとかを信じさせることだ。こういうやり方は、たがいに信頼関係が強い場合には効かないけれど、それが揺らいできている状態だと、もともとけっこう仲がよかった人たちでも、仲違いさせることができてしまう。人間関係は、多くの場合、信頼関係だけに基づいているので、そこにわずかな不信感でも入り込むと、ずるずると崩れていったりする。それまでは、何かあっても悪気があってしたことじゃないからと鷹揚に受け入れていたようなことが、とたんに受け入れられなくなる。何か裏に企みがあるんじゃないかと疑い始める。過去にあったあれこれのできごとが、とたんに悪意があったように思えてくる。そうやって人を分断させるのは、実はけっこう簡単なことなのかもしれない。

国と国を喧嘩させるのも、要は同じことなのだと思う。ある国が何か悪いことを企んでいるとか、残虐性がある民族なのだとか、そういうことを少しずつ吹き込んでいくと、もともと関係が深くて、親戚がいたり、友達がいたりするような国でも、だんだん互いに好戦的になっていく。そうなったら、何かしら挑発するようなことでもあったら、とたんに軍事衝突に誘導していくことも、できてしまうのだと思う。そこまで行くのに、何十年もかけて、意識的な分断を作り出していたりする。

異文化で暮らしていると、文化ギャップがどれだけ人間関係の上での攻撃性を掻き立てることができるものかは、さんざん経験する。たいていの場合、原因になっているのは、ある言動やふるまいが、一方の国ではまったく許容の範囲なのに、もう一方の国では無礼に当たる、というようなことなのだ。無礼なことを言われたと思ったら、人は反射的に感情的に反応してしまう。そういうときに、相手が違う意味で言ったのかもしれないなどということは、なかなか考えられないものなのだ。相手の方は、別に悪いことを言ったつもりもないのに、そんなひどいことを言うなんてとガンガン怒られたら、こいつはヒステリックで面倒くさいやつだと思ってしまう。それでますます関係がこじれることになる。異文化間の喧嘩は、だいたいそんな風だ。

国と国の場合、すでに文化ギャップがあるわけなので、相手の国が残虐性があるとか悪巧みをしているとか思い込ませるのは、たぶんかなり簡単なことなのだと思う。文化ギャップがある国同士では、「向こうの文化ではこういう風にするんだな」と余裕をもって見ていられる間は、けっこう平和的につきあっていける。だけど、実はバカにしているんじゃないかとか、実は何かを企んでいるんじゃないかとか思い始めたら、文化ギャップによる微妙な違いは、すべてが攻撃性の徴のように見えてきてしまう。ある国が残虐だと仮定して、その根拠を数え上げることなど、わけはない。過去の歴史まで遡って、いくらでも証拠を探し出してくることができる。だけどこういうときに、ほとんどの人は、逆のことを証拠づける事象も同じくらいあるということには考えが至らないのだ。そしてとりわけ、同じようなことは自分の国にも同じくらい見つけることができるということにもだ。

そんな風なことで、世界は200年くらい前から、たがいに隣の国とさんざん戦わされてきている。だから、そのときの犠牲の記憶とか怨みとかも、探せばいくらでもある。そういう記憶は、まだくすぶっている炭みたいなもので、うまいこと空気を送れば、いくらでもまた燃え上がらせることができるのだ。だから、過去の戦争の歴史をうまいこと書き換えるようなことは、国と国とを戦争させたいときには、よく行われる手だ。やっぱり相手の国が悪かったのだ、というような話にするわけだ。それでヨーロッパでは、ロシアに敵対させるために、ナチまで正しかったような話が作られていたりする。そして、かつての戦争のときにも使われていた同じ怪談が、またまことしやかに語られていたりする。

その一方で、宿敵と思われていたサウジアラビアとイランが、4月の初めに北京の仲介で国交を回復した。これは、一体どうしてこんなことが可能になったのかと驚くくらいのできごとだったけれど、今ではパートナーとして協力関係を次々と築いているという。サウジアラビアとイランが喧嘩することになったのも、イスラム教の宗派の違いとか何とか言われていたけれど、実のところは、たがいに戦争させたい人々が外にいたからにほかならない。北京は、自身がそういう画策にさんざん翻弄されてきたので、そうした内情をよく知っていたのだろう。奇跡でも起きなければあり得ないと思えるようなことだったのに、北京は難なく関係を回復させてしまったのだ。

中国については、西側諸国ではありとある悪口が語られているけれど、実は多民族間の調和を作る才覚がある国なんじゃないかということを、このできごとは感じさせてくれた。ドイツ外相のベルボックが、とつぜん中国を訪問したときに、中国の外務大臣は北京にあるチベット寺院に彼女を案内したという話が報道されていた。実は北京には、いろいろな民族の聖地があって、多民族であることを人々は誇りに感じているというのだ。それは、西側諸国で語られている全体主義的なイメージとは、まったく正反対のものだと言える。

中国は非常に古い国だけれど、もともと中心地だったのは、東の海に近い方ではなくて、西のシルクロードの入り口のあたりだった。モンゴルやテュルクや西方の商人たちが行き来するような場所で、中国の文明は栄えていったのだ。中国の精神文化の中心と言える儒教も、忠孝を強調するので、人々を支配するもののように思われてきたし、またそのように利用されてもきたけれど、もともとは戦乱の中で調和を作り出すための教えだった。

孔子が「論語」の中で忠孝が大事だと言っているのは、実は臣民がではなくて、君子がということだ。孝というのは親を敬うことで、それも形だけではなくて、真心をもって信頼し、敬意をもつことを言っている。君子というのは、人の上に立つ人間、導いていく人物のことだ。人々が君子に従うようにするには、君子は自分の親を信頼して敬意を持てばいい、と孔子は言うのだ。これは真実だ。それというのも、世界は自分の意識で創造されていくのだから、目上の人物が信頼され、敬意を持たれるという世界に自分が生きていれば、自分も目上の人間として信頼され、敬意を持たれるような人間になる、ということになるからだ。それは、従うことを強要するような教えではない。人々が進んで従うような信頼関係を作る方法を教えているのだ。

孔子は紀元前6世紀の人で、その頃には確固たる国家のようなものはなく、分裂や戦乱が絶えなかった。さまざまな民族がいて、それぞれの考え方、生き方があった。そうした中で、調和を作って安定した国を作るには、真心が大事だということを孔子は言っていたのだ。自分が信頼を持ち、相手に敬意を持って、真心を込めて接するべきだと。そうすれば、人々に信頼され、敬意を持ってもらえる。そうして勝ち得た信頼によって、調和の世界を作っていくことができる。それが、孔子が「仁徳による統治」と言っているものだ。

だから、孔子の教えを、人民が君主に従うべきだというように変えてしまうのは、歪曲どころか真逆だとさえ言える。しかしこうした入れ換えは、儒教にかぎったことではなく、キリスト教でも仏教でも同様なことが行われてきた。社会が一極支配になると、もともと調和を目指す教えが、権力と服従の教えに入れ換えられてしまうのだ。

ところで今、互いが互いを警戒し、防衛し、戦い続けるような200年のあとで、真心が大事だという孔子の教えが、再び意味を持ってきているのじゃないかと思う。つまるところ、人と人との間、民族と民族の間の信頼を壊されてしまったことから、私たちは戦争に次ぐ戦争の時代を生きることになったのだ。その分断の中で、再び信頼関係を作り出すのは、言葉だけでも形だけでもない、本当の真心であり、人間の根底にある信頼だ。

つまるところ、この戦争の長い歴史は、私たちの間に分断を作り出されてきたことによる。恐れをかき立てられて、疑いを植えつけられてきたことによる。まさにそのために、ありとある残虐も行われてきたわけだけれど、私たちはたがいに騙されてきただけだったのだ。その認識に行き着くことができれば、私たちは敵対し続けてきた国とも、信頼と調和とを作り出していくことができるはずだ。


イランと中国とサウジアラビアの外務大臣。4月初めの北京で、長年外交を閉ざしてきたイランとサウジアラビアが国交を回復した記念すべき瞬間。


2023年8月20日


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