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フナの解放


【IKEイケ ー 世界をどう見るかで、世界が変わる】



ハワイに伝わるフナというシャーマニズムは、私たちの意識が、いかに大きな力を持っているのかを教えてくれる。こうした知は、世界のいろいろなところで伝えられてきたけれど、多くは歴史のある時点で封じ込められてきた。人類は、この数百年、数千年の間、まるで三次元的な世界しか存在していないかのように思わされてきて、それによって私たちは支配可能な存在にされてきたのだ。しかし、意識の世界に開かれたとき、私たちは決して無力な存在ではないことがわかる。意識の力を使うことで、私たちが生きる現実、私たちが生きる世界を、変えていくことが可能になる。

70年代以降に、意識の世界に関心を持つ人が増えてくると、この領域に封じ込めがしかけられるようになった。フナを教える人が増え、世界中にフナを使う人が増えてくると、あれはハワイ古来のものではないと言う人たちが現れる一方で、これが本物だというメソッドを教え始める人々が現れた。しかしそれは、意識の力を逆に封じ込めてしまうようなメソッドだったりした。本当のフナは、人間をより自由にするものなのに、そうした新しいメソッドは、まるで意識を狭い枠の中に閉じ込めてしまうかのようだ。

こうしたことは、精神世界にかぎらず、よくあることではある。自然なもの、本当に効果のあるものが、偽物だとか詐欺だとか有害だとか言われる一方で、逆に力を失わせてしまうようなものを、これが本物だと言って流行させる。そうやって多くの人が、意識を開こうとして、逆に封じ込められてきた。

それというのも、意識の力に目覚めたとき、人間はもはや三次元的なもので支配できなくなってしまうからなのだと思う。つまり、お金だとか、保険だとか、収入のいい職業だとか、そういったものでだ。 私たちは、そういったものが生活を保障してくれると思い込み、不本意ながらも言いなりになってしまう。だけど、意識がどれだけの力を持つものかを知ってしまうと、人間はそんな三次元的な保障などで生きているのではないということが、わかってしまうのだ。

7回にわたってフナの世界を探究していく公開セミナーを企画したのは、フナがそのような封じ込めに遭っていることに気づいて、本当のフナを解放しなければと思ったからだった。フナには、7つの基本原則があって、すべてのメソッドは、その原則からできている。その7原則を、一回に一つずつ解き明かしていきながら、それを自分で体験できるようなワークを皆でやって、その効果を確かめようというものだ。それによって、意識にどれだけの力があるのかということを、集合意識的に拡散できるのじゃないかと思った。

第一の原則は、IKE(イケ)といって、ハワイ語で単に「見る」という意味だ。これをフナでは、「世界はあなたがこうだと思っているところのものだ」と言っている。私たちは、外に客観的な現実というものが存在していて、それを見ているのだと思っている。ところが、意識の世界から見ると、実はそんな絶対的な現実というものはなく、それぞれがどういう意識で見ているかによって、見えるものは大きく違ってくるということがわかる。

何人かで一緒に旅行して、まったく同じものを見て、まったく同じことを経験してきても、きれいなところだった、人が親切だった、と言う人と街は汚いし、人は意地悪だし、と言う人がいる。何をどう見るかで、経験がまったく変わってしまうのだ。同じことをされても、それを意地悪だと感じる人と、そうは感じない人がいる。そして、人が自分を意地悪に扱うと感じている人は、実際にそういう状況を引き寄せていたりもする。私たちは、世界をどう見るかによって、まさにそのような現実を作り出していたりもする。

だから、私たちは世界をどう見るかを変えることによって、現実を変えてしまうことができる。IKEとは、見ることをこのように考えて、見ることによって現実を変える力のことを言っている。

意識の領域のことは、理屈で理解しようとするよりも、やってみた方が簡単にわかる。それで、皆で「きれいになる魔法」をやってみた。これは、ただ単に「もし私がすごくきれいなんだとしたら?」と想像するというもので、そう思ってみると、胸のあたりがゆるんで、うれしい気分になってくるのだけれど、その瞬間にもう顔が変わっている。これは、瞬時に起こる。さっきまで冴えない顔つきをしていた人が、目がキラキラと輝き始めて、肌がしっとりとして、つやつやし始める。背筋も伸びて、きれいな人のオーラを発し始めるのだ。そういうオーラを発していると、会った人が、すてきですね、とか言ってくれるようになる。それで、きれいな人の気分になっていると、服の選び方やお化粧の仕方も変わってくる。そんなことをしているうちに、本当にきれいな人になってしまう。

だから結局のところ、自分がどういう人間なのかは、自分が自分をどう思っているのかによる。だけど私たちは、自分がどうなのかということは、自分で勝手に思ってはいけないように思っている。自分がきれいだとか、頭がいいとか、天才的だとか、そんなことは、他人が決めることであって、自分が決めることではないと思っている。そんな風に思うことによって、実は私たちは、自分がどうであるかを決める権限を、人に譲り渡しているようなものなのだ。自分がどうなのか、世界がどうなのかは、私たちが自分で決めることができる。これがフナのIKEの力だ。

このとき、「もし。。。。だとしたら?」と仮定で考えてみると、「客観的に言ってそんなわけはない」という固定観念を容易にすり抜けていくことができる。想像ならば、何を考えようが自由だ。だけど、想像しただけで、私たちの現実はその瞬間から変わり始めるのだ。

それから、「もし私がすごく幸せなんだとしたら?」と想像して、うれしい気分になったら、幸せの理由をこじつけでもいいから10個くらい考える、というワークを皆でやった。すると、とたんに皆の顔がゆるんで、幸せそうなオーラを出し始める。身体が暖かくなって、こって痛かったところが緩んで治ったりもする。不安だったり、鬱々としてたのが、あっという間に消えてしまったりもする。

その一方で、逆に胸のあたり、喉のあたりが苦しくなった人も何人かいた。怒りとか悲しみとかが内にあるときに、幸せな気分になろうとしても、幸せな気分になれないことに、逆にプレッシャーを感じて、かえって気分が沈むこともある。怒りや悲しみの感情は、現実に何か変えるべきものがあるときに、それを示すために出てくるので、これを無視して幸せな気分でいろ、と強制してもしようがない。そういうときには、「幸せだと思えなくてもいい、怒ってもいい、悲しんでもいい」と自分に言うと、それで緩んできたりする。

それから最後に、それぞれ自分のインナーチャイルドが身体のどの辺にいて、どんな風にしているのかを、想像でもいいので見てもらった。多くの場合、インナーチャイルドはお腹のあたりや胸のあたりに、小さくなっている。膝を抱えて座っていたり、胎児みたいに縮こまっていたりする。しこりのような固いものとして感じた人、箱の中に入っていた人、あるいは子供ではなくてオウムや恐竜の形をしていた人もいた。

インナーチャイルドとは、私たちが大人になるときに、世間の価値観に合わせて生きるために、封じ込めてきた意識の部分だと言えるかもしれない。子供っぽい感覚、野性的な本能的な感性、生の感情といったもの。こうしたものは、現代社会では、コントロールしなければいけないもの、しつけて枠にはめなければいけないものと言われている。だから私たちの中で、インナーチャイルドは小さくなって、枠にはめられているのだ。表に出てきてはいけないもの、悪いもの、と思っているからだ。

このインナーチャイルドに、「今まで気がつかないでごめんね。閉じ込めていてごめんね。もう大丈夫だから、何でも好きなことをしていいよ。いくらでも大きくなってもいいよ」と言って、どこまで大きくなるか、それぞれにやってみてもらった。

固いしこりのようなものだと言っていた人は、それが卵のようにバリバリと割れて、中から恐竜の赤ちゃんが出てきたそうだ。その恐竜が翼を広げて飛び始め、鳳凰になったそうだ。しこりのようなものが消えて、胸がすっかり緩んだ。これまで自分で自分を押し込めてきたことに気がついた、と言っていた。

等身大になって、自分と一つになった人、一反もめんのように大きく広がった人、地球よりも大きくなったと言った人もいた。オウムの形をしていた人は、オウムの頭からいろんな楽器を持った人魚が何人も出てきたと言っていた。インナーチャイルドがいろいろな形をしているのは、それぞれが子供のときに封じ込めた創造性であったり表現性であったり、いろいろな感情だったりするからなのだろう。そうしたものは、それぞれの心の中で、固く封じ込められて、異形のような形をしていたりもするけれど、それを許して大きくしてみると、現実を変え、世界を変えるような大きな力になっていく。

自分の中にあるそうした力を、コントロールするべき感情だとか、しつけなければならない子供のようなものだと見るか、あるいは現実を変えることもできるような力と見るか、それをどう見るかで、自分自身が変わり、世界の中で自分のあり方も変わってしまう。インナーチャイルドとは、「裸の王さま」で、「王さまは裸だ!」とはやし立ててしまう子供のようなものだと言えるかもしれない。抑えつけておかなければならないと思っていたら、世界はいつまでも架空の現実を演じ続けているだろう。だけど、私たちがその子供に出てくることを許すならば、世界は瞬時にして変わり始めるかもしれないのだ。


セミナーのあとで摘みに行った森の小川の野生のクレソン




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第1回 IKE 見る力によって、現実を変える

Posted by Chihiro Sato-Schuh on Monday, February 12, 2024

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【KALAカラ ー ゆるすとは、自分自身を制限から解放すること】



フナの第2原則KALA(カラ)は、ハワイ語で「ゆるす」を意味する普通の言葉だけれど、フナでは、KALAとは、あらゆる制限を外して、すべてのものとの連続性を知ることを言っている。だから、「境界はない、限界はない」という意味だと言われている。

私たちは、ここまでは正しいけれどそれ以外は悪い、とか、ここまでは現実的だけど、それ以上は現実的ではない、とか、ここまでは可能だけれど、これ以上は不可能だ、とかいう風に、あらゆるものに限界を設けて、それ以上の領域はまるで存在しないかのように生きている。宇宙には無限の可能性があるのに、ごく限られた狭い領域だけに生きるのが、まともな人のすることで、それが社会に適応できる立派な大人であるというように、多くの人は考えている。

つまりは、それが現代社会が作り出しているマトリックスのようなものだ。その中で生きる私たちは、マトリックスの外は存在しないと思い込まされて、覗き込むことさえ、してはいけないように思っている。そこから出ていこうとする人は、悪い人、おかしな人、まともでない人、あるいは社会にとって危険な人物だとさえ考えられている。まさにそうした禁忌の感覚が意図的に作られていて、それが私たちをマトリックスの外へ出ていかないようにしている電気柵のようなものなのだ。

数秘の6は、異なる世界と出会うことで、それまでの自分が消え去り、新しく生まれ変わっていく力を表している。だから、タロット大アルカナの6番は、「恋人たち」であり、マヤ暦の6番目の太陽の紋章は「世界の橋渡し」だ。これは、異なる世界と出会って、そこに繋がりを作ること、それによって、それまでの自分が一度死んで、新たに生まれ変わるようなプロセスを示している。

マヤ暦では、ちょうど1月29日から2月17日までが、6回目の20日サイクルで、260日サイクルの中での6のステージだったのだけれど、ちょうどその時に、アメリカのジャーナリスト、タッカー・カールソンがモスクワに行って、ロシア大統領プーチンにインタビューしたのは、興味深い。多くのアメリカ人にとっては、ロシアはまさに異なる世界、禁じられた世界といったものだったのだ。アメリカからロシアへ行くのは、まさにマトリックスの外側へ出ていくようなことだった。

まるで極悪犯罪を犯しているかのような言われ方をしながら、カールソンはモスクワに行って、現実のロシアを見て、本当のプーチンに会ってきた。そこには、それまで聞かされてきたようなロシアとはまったく違った姿があった。それによって、カールソンは多くのアメリカ人たちとともに、マトリックスの外へ出ていき、それまで信じてきたことが違っていたことを知るというプロセスを経験したのだ。マトリックスの外が、実は危険なところでも頭のおかしい人たちの世界でもなく、これまであるとも思っていなかったことが可能になっている世界だということを知ると同時に、自分がマトリックスの内側に閉じ込めれらていたことに気づく。まさにそれが、6のテーマであり、西側世界はカールソンとともに、そのプロセスを経験していた。

こうしたことは、世界が大きく転換しようとしている今だからこそ、起こることなのだと思う。異なる世界に出会って、新しい可能性に開けるとき、私たちは実はこの世界では何がすべて可能だったのかを知ることになる。そして、まさにそれによって、私たちは古い構造を手放して、まだ存在していない新しい世界を作っていこうとするのだ。

フナの第2原則KALAとは、こうした意味で、制限を解いて無限の可能性に開かれる力のことを言っている。私たちは、誰かをゆるすと言ったとき、自分が傷つくようなことをされることを、ゆるさなければいけないように思ってしまう。だけど、これはKALAとはまさに反対のことだ。相手からは制限を外すけれど、自分は我慢させて、檻の中に閉じ込めるようなことをしているのだから。

KALAの力を経験しようと思ったら、そうではなくて、まず自分自身を完全に許さなければならない。私たちは、自分が外の世界に対して感じていることを、どう感じるのはよくて、どう感じるのは悪い、と感情さえも制限をつけて閉じ込めている。これがつまり、「ネガティブな感情」と言われるもので、これが、私たちがマトリックスから出ていくことを妨げている電気柵のようなものだと言える。

それで、自分が「ネガティブな感情」だと思って禁じている感覚を、自分自身に対して完全にゆるしてみるというワークを皆でやった。怒りとか、憎しみとか、悲しみ、恐怖、絶望、といった感情を、私たちは「ネガティブな感情」と呼んで、そうした感情を抑圧したり、自分がそうした感情を感じていることに、罪の意識を感じていたりする。しかし、どんな感情も、すべては自分を守るため、自分の自由を守るために自然に湧いてくるものなのだ。

嫌な感情が湧いてくるのは、何か現実に反応しなければならないということ、何かを変える必要があるということを示している。だから、本来ならば、感情が湧き上がってくるままに反応していれば、状況を変える行動が自然に出てくるはずだ。恐いと感じたら、全速力で逃げているし、怒りを感じたら、怒鳴るなり相手を威嚇するなり、攻撃するなりしているだろう。それで、相手は人の自由を侵すような行動をやめるだろうし、それで問題は消えてなくなることになる。

どんな感情でも、完全にゆるしてみると、すべては愛に変わる。これは、理屈ではわからないかもしれないけれど、やってみるとわかる。怒りを溜めている人に、「怒ってもいい。それが当たり前なんだから。そんな目に遭ったら、怒るのは当たり前だよ」と自分に言ってもらうと、それでガンガン怒り出す人はまずいない。ほとんどの場合、「怒っていいんだ! ああよかった。ホッとした」と言って、喜んで笑い始める。何故かといって、怒りの力の本質は、創造性であり、喜びから何か新しいことをしようとする力だからなのだ。これは、肝臓の力、火の要素、陽の力だ。この創造の力が開花する自由を奪われたとき、怒りの感情が湧き起こる。これは、創造の力を生きるための自由を作り出そうとする、本能的な衝動なのだ。だから、怒りの感情は、自分に対してゆるせればゆるせるほど、攻撃性として出るのではなく、喜びの力、創造力になって表現される。

現代に生きる私たちは、ほとんどが子供の頃に、親に守られなかったり、虐待といえるような扱いをされて育ってきている。そもそも親も守られて愛されて育ってきていないので、子供の愛し方も知らないことが多い。その場合、親を責めてもしようがないとは言え、そのような扱いを受けたことで、怒りや悲しみや絶望やありとある感情を、私たちは抑圧してきている。感情を抑圧するとはつまり、そうしたひどい扱いを受けることもしかたがないと諦めること、認めること、自分に対して許してしまうことなのだ。

そして、まさにそうしたことが、私たちをマトリックスの外へ出ていかせないようにする強制力になっている。そうすることで、私たちは、自分自身のインナーチャイルドを自分で檻に閉じ込めるのだ。だから、人々を支配しておこうとする人たちは、生まれたばかりの子供を親から切り離して一人にしたり、母乳でなく哺乳瓶で粉ミルクを飲ませたり、ある意味、生命の危険を感じさせるようなことをあえてするのだと思う。事実そうしたことで、インナーチャイルドは閉じ込められてしまい、人の顔色をうかがって、相手が望むことしかしないようになったり、あるいは逆に反逆するようなことばかりにエネルギーを使うようになる。

生まれたばかりの子供を見ると、どの子も天才のように思えるし、神秘的とも言える賢さを持っているように見える。だけど、ほとんどの子は、ある時点から普通の子供になってしまうのだ。多くの場合、それは何かのワクチンの後だ。保育器に入れられているうちに、そうなってしまう子もいる。あれを見ていると、本来の私たちは、誰でも天才的な力を持っていて、感情のバランス力も備え、賢く生きていく力を持っているのじゃないかと思う。しかし、ほとんどの場合、それが子供の頃に破壊されている。

今、世界全体が狂ったような状況になっていて、いったい何をどうすればいいのかもわからないのだけれど、とにかく今、怒ったり絶望したりしているインナーチャイルドに、「こんな扱いを子供が受けることは、もうゆるさない。ゆるしてはいけない」と言って、ありのままの感情をすべてゆるして認めてみるべきだ。そうなったとき、私たちのインナーチャイルドは、ようやくこんな世界を変える行動に出ることになるだろう。それというのも、私たちのインナーチャイルドは、すべての感情であると同時に、潜在意識であり、身体意識であり、宇宙意識や多次元的な意識とも、境なく繋がっているからなのだ。インナーチャイルドにありのままであることをゆるしたとき、インナーチャイルドは多次元的なネットワークや宇宙意識まですべて駆使して、新たな現実を切り拓いていく行動に出る。この力は、まさに無限だ。

自分の感情を型にはめることをやめた人は、そうした力のことをよく知っていると思う。あるとき、ふいに思わぬアイディアが降りてきて、思いもよらない行動に出ていたりすることがある。それを自分に許していると、思いもよらないシンクロが起きて、思いもよらない繋がりができ、まるで不思議な力に導かれるように、望んでいたことが実現していったりする。これは、ありのままにあることをゆるされた潜在意識、私たちのインナーチャイルドの力なのだ。

それで、熊野の縄文の磐座の、ルートチャクラのポイントの磐の画像を使って、そのエネルギーにアクセスして、まずルートチャクラを開けて、大地と繋がるワークをやった。そして、しっかりと大地と繋がったところで、自分がネガティブだと思って禁じている感情を、インナーチャイルドに話しかけるようにして、ゆるしてみることにした。

怒ってもいい、憎んでもいい、絶望してもいい、と自分にゆるすのだけれど、それは自分のインナーチャイルドと深く繋がって和解するようなプロセスで、多くの人は、いつになく緩んだ様子になり、愛に満ちた穏やかな表情になる。額のあたりや上半身が光を放ち始めたように、オーラが強くなっていたりもする。意外に思うかもしれないけれど、それは、本当の自分を取り戻すようなプロセスなのだ。

さんざん痛めつけられて、檻に入れられ、型にはめられ、生きる気力さえ失っているインナーチャイルドにも、もうこんな扱いはゆるさない、ありのままであっていいのだと言ってあげると、死んだようになっていたのが、まるで息を吹き返したかのように、生き生きとし始める。感覚が麻痺して、何も感じなくなっていたのが、急に生々しい感覚を感じ始めて、この世界は本当はこんなに楽しく美しいところだったのかと思い出すかのようだ。そう、子供のとき、私たちは誰でも、こうした生き生きとした感覚で世界を感じ取っていた。それが、生まれたばかりの子供が誰でも神秘的なほどに賢い存在に見える理由なのだと思う。

子供の頃のことは、もう過ぎたことだから変えようがないのじゃないかと思うかもしれないけれど、本当は何も失われてはいないのだ。ただ、これまで閉じ込めてきたインナーチャイルドをありのままに認めて、解放してやればいい。そのことを、皆で確かめることができたセミナーだった。



第2回 KALA ゆるす力で現実を変える

Posted by Chihiro Sato-Schuh on Monday, February 19, 2024

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【MAKIAマキア ー インナーチャイルドと和解することで、意識の力が開花する】


MAKIAマキアは、ハワイ語で「狙い」というほどの意味なのだけれど、フナでは意識を向けることによって現実を変える力のことを言っている。これがフナの第三原則だ。公開セミナー「フナを解放する」のシリーズでは、2月26日の第3回目のときに、マキアの力を皆で体験しつつ、解放するのをやった。

意識の領域、呪術の領域では、現実に作用するのは、つまるところ意識を向ける以外のことではない。私たちは、意識を向けることによって、遠く離れた聖地のエネルギーを受け取ったり、人の意識にアクセスしてリーディングしたり、ヒーリングエネルギーを送ったりすることもできる。意識の領域は境なく繋がっているので、空間的時間的な境はまったくない。いつでもどこにでも繋がることができ、現実に作用することができる。

意識を向けることによって現実を望むように変えるのは、たとえば、パーキングが空いているようにしたり、天気を変えたり、レストランの好きなテーブルに座れるようにしたりといったことがある。しかし、お金が欲しいとか、パートナーが欲しいとかいうことでは、一生懸命に望んでいるのに、どうしてもうまくいかないということもある。

望みを実現するには、望んでいるものに意識を集中させればいいのだけれど、そこで重要なのは、私たちのすべての意識が同じ方向へ向かっているということだ。フナでは、意識をクー(ウニヒピリ)、ロノ(ウハネ)、カネ(アウマクア)の3つに分けて考えていて、これはそれぞれ潜在意識、顕在意識、宇宙意識に相当する。私たちが望みの力を向けようとしているのは、顕在意識であるロノなのだけれど、うまくいかないときは、クーが別の方向を向いているときだ。

クーは感情であり潜在意識だけど、身体を機能させている自律神経のようなものもすべて含まれている。クーはインナーチャイルドのようなものだけれど、インナーチャイルドは私たちがどう考えるかで、大きくも小さくもなる。潜在意識は、意識の領域と境なく繋がっているので、宇宙意識やアカシックレコードにようなもの、地球全体、宇宙全体の意識ネットワークとだって繋がることができる。だから、クーが本気になったら、あり得ないようなシンクロを引き起こしたり、私たちから見たら、まるで無から有を生み出すように見えることさえ、引き起こすことができる。

しかし、多くの場合、私たちは、顕在意識でクーを型にはめて、常識的な領域に留めておこうとするのだ。その結果、「一生懸命望みを実現しようとしているのに、どうしてもうまくいかない」ということが起こる。それでフナでは、クーは有能な右腕のように信頼するのがいい、と言っている。つまり、目的だけはっきりと示して、それをどう実現するかは、クーを信頼してまかせるようにするのがいい、ということだ。

あることを実現しようとするとき、クーとロノが一致しているかどうかを知るための簡単なメソッドがある。「私はXXをする力がある」「私はXXをする権利がある」「私はXXをする望みがある」を言ってみて、自分の身体がどう反応するかを見てみるのだ。もし、身体のどこかがキュッとしまって重くなったり痛くなったりしてきたら、それはクーが嫌がっているときだ。だから、そこでクーの声を聞いて、一致するようにしなければならない。

第1回と第2回のセミナーでは、意識の力、インナーチャイルドにどれだけの力があるのかを体験するのをやったけれど、実際、この力は無限だ。1回目では、世界をどう見るかで現実が変わるというのを体験するために、インナーチャイルドをどこまで大きくなるかやってみた。2回目では、あらゆる制限を外して、インナーチャイルドを解放するのをやったりした。そのせいなのか、「私はXXをする力がある」で引っかかる人はほとんどいなかったようだ。クーは私たちが思っている以上に大きな力を持っているので、それを信頼してやると、大喜びする。だから、「私はXXをする力がある」と言うと、クーが喜んで跳ね回ったり、両手を挙げているイメージが見えた人も多かった。

しかし、「私はXXをする権利がある」になると、そこで引っかかる人がけっこう多かった。これは、いかに制限の多い世の中で私たちが生きているかということを表している。子供のときから、型にはまった人間にならなければ、生きる権利さえないかのように思わされてきた。だから、自分の望みを実現しようとするとき、自分はそんなものにふさわしい人間ではないのではないのか、自分がそんな望みを実現することを、世間は認めないのではないのか、という不安感が出てきてしまうのだと思う。それには、実際に過去に経験した痛みの記憶もある。

それで、カウアイ島のワイアレアレ山のエネルギーを使って、地上のすべての人間には、すべての望みを実現する権利があるというメッセージを世界に送ってみることにした。ワイアレアレ山のエネルギーは、まさにそうしたエネルギーなのだ。地上の生きとし生けるものを育み、地上に生まれてきた意味を実現できるようにすべてのサポートが与えられているというようなエネルギー。私たち人間は、本当はそのような愛に包まれて育てられるべきなのだと思う。この百年ほど、まるですべてが工場生産品のように規格通りに行われるようになって、子供たちは出産のときから、型にはめられて扱われている。本当は、子供はそんな風に扱われるべきではないし、そんな風に育てられるべきでもないのだ。

「私はXXをする望みがある」で引っかかる場合は、望んでいることが、本当には自分が望んでいることではないことが多い。私たちは、お金がもっと入るようにしたいとか、事業を大きくしたいとか、大きな家が欲しいとか、皆に愛されたい、とか、世間的によさそうに思えるようなことを望もうとするのだけれど、本当に望んでいることは、実は別なことだったりする。だから、そういうときには、本当に自分が望んでいるものは何なのかを、クーと話してみるといい。たとえば、私たちは、お金がなければ何もできないと思い込んでいるけれど、クーはあらゆる可能性を知っているので、お金がなくても望みを実現させることだってできる。

クーと話してみると、実はお金が欲しいということではなくて、お金にケチケチしないで生きていきたい、とか、お金のために働かないですむようになりたい、ということだったことがわかったりする。もしクーがそれで満足しているようだったら、どのように実現するのかは、考えなくてもいい。クーはすべての可能性を知っているのだから、クーにまかせておけばいいのだ。

15年くらい前、私もお金のことではずいぶん困っていて、お金のないアーティスト仲間と、どうしたらお金を引き寄せられるのかと、あれこれ情報を集めては、いろいろなことを試していた。最終的にうまくいったのは、何かにつけて、「私がすごい大金持ちだったら?」と考えてから決める、というものだった。このときに、ハンパなお金持ちではなくて、値段が高かろうが安かろうが、まったく気にする必要がないような超大金持ちになったつもりになる、というのが大事なところだ。高いものを買って自慢しているようなのは、まだ本物の大金持ちじゃない。そんなものでカッコつける必要もないような、大金持ちだ。

そう考えてみると、まず豊かな気分になる。お腹とか胸とかがホカホカと暖かくなった気分になる。買い物をするときとかに、いつもそう考えてから買うようにする。そうしたら高いものを買うんじゃないかと思うけれど、これが意外と買わないのだ。いつも10円とか20円とかをケチって、安い方を選んでいたのをやめて、10円高くても好きな方を買うくらいのことだったりする。そうすると、10円しか違わないのに、豊かな気分になるのだ。お金がないから安いものしか買えない、という貧しい気分を味わうことがなくなる。それで豊かな気分になっていると、それほどあれこれ物を買わなくても、すむようになる。高いアクセサリーを買うよりも、自分で作る方が面白くなったりもする。それで、どんどんお金を使わなくなっていく。

その結果、収入が増えたわけでもないのに、お金に困らなくなるのだ。どうしても欲しいもの、必要なものは、どこからかタダで入ってきたりするようにもなる。クーは、そうしたものをシンクロで引き寄せるような力だってある。必要なときには、そのお金がどこからか入ってくることもある。

私たちは、お金がなければ何もできないと思い込んでいて、そのためにこうしたすべての可能性が使えなくなっているのだと思う。クーの力を知って、クーを信頼してまかせることを知ると、現代社会が作り出しているすべての制限を超えて、あらゆる可能性に開かれていく。

それで最後に、ワイアレアレ山のエネルギーから、地球上のすべての人、すべての生き物が、本当の望みを実現する力を持っているイメージを、世界中に送ることにした。実際、私たちのインナーチャイルドには、その力があるし、この地球の大地も宇宙も、それだけのサポートを与えてくれている。その力を信頼してまかせればいいのだ。すると、私たちはとつぜん大きな力を持っていることに気づくだろう。

地の時代が終わって、風の時代に入っているので、地球は今、お金や所有物で支配するような世界ではなくなり、そうしたものと関係なく自由に繋がり合って、皆が幸福になるような世界に変わっていこうとしているのだと思う。最後の瞑想は、予定していたわけではなかったのだけれど、それはまさに風の時代へシフトするためのものだったのだと思う。

自分のことだと思うと、なかなかそう思えなくても、他の人のことだと思うと、楽に思えてしまうのだ。だから、世界の人々のためにとよいことを望む方が、うまくいったりする。お金がないからとか、友達が作れないからとか、そういうことで引っかかっていた人たちも、それで引っかかりが取れて、インナーチャイルドがうまく解放されて、クーとロノとが一致したようだ。

多くの人は、本当の望みは実は「何もしたくない」ということだったと言っていた。何もしたくない、というのは、本当に何もしないということではなくて、何かを実現するため、あるいは生きていくために、努力したり嫌なことをしたりしたくない、ということだ。ところで、「何もしなくていい」ということにしてしまうと、クーはとたんにのびのびとして、まったく思ってもいなかったようなやり方で、望みを実現し始めたりする。

このことは、何かを手放す経験をしたことがある人は、よく知っているのではないかと思う。努力するのを諦めたとたんに、物事がトントンと進み始めるということがある。まったく思ってもみなかったところから、思ってもみなかったような話が出てきて、努力する必要もなく、するすると進んでいったりする。

意識の力で望みを実現させる、などというと、一心不乱に祈るようなことを連想するけれど、実はそんなことではない。むしろ、自分の本当の望みに気づいて、緩むようなこと、世界を信頼してゆだねるようなことだと言える。インナーチャイルドの本当の力を知って、それと協調していくことを知るとき、世界はまさに、何もしないのに、すべての望みが叶っていくようなところだということがわかる。


フナのシンボル、カナロアの目



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【Manawaマナワ ー 時間の多次元性を知ると、時間から解放される】


Manawa マナワというのは、ハワイ語で単に「時間」という意味なのだけれど、フナでは、時間の多次元性を知ることで、時間を自由に変容することができるということを言っていて、これがフナの4つ目の原則だ。

私たちは、時間というものは、変えることができないように思っている。何かの力によって時間が動いていき、私たちはパッシブに運ばれていくだけであるかのように感じていたりする。しかし、これは3−4次元の時間感覚にすぎない。3−4次元では、時間軸は一本しかないので、時間は過去から現在へ、現在から未来へと、一直線に動いていくだけなように思えている。そうすると、過去はすでに過ぎ去ったものなので、もはや存在していないし、変えることもできないように見える。未来はまだ来ていないから、やはり存在していないし、私たちの意志とは関係なくやってくるように思える。そのような時間感覚からすると、現在とは、過去と未来の間のごく狭い一点のようなものにすぎないということになる。

「今ここに生きる」ということがよく言われるのだけれど、こういう3−4次元の時間感覚でこれをやろうとすると、まるで敷かれたレールの上に立って、どこにも行けないまま、自分は幸せなのだと思い込もうとするような感じになってしまう。フナでは、Manawaは、「今に力がある」という意味だと言っていて、それは「今ここに生きる」ことによって現実を変える力のことを言っているのだけれど、ここで言っている「今ここ」とは、一直線のレールの上の一点のことではない。5次元以上の現実認識では、「今」の中には、過去も未来もすべての時間が存在していて、そのすべてを自在に行き来したり、変えることが可能になる。そのようなものとしての「今ここ」とは、すべての力、すべての可能性がある時だということになる。

次元上昇とは、物理次元から離れて空に舞い上がることのように思われていることが多いのだけれど、次元とはハシゴの段のようなものではない。次元とは、現実を認識するために使っている軸の数のことなのだ。軸が1本しかないなら、世界は数直線のように、何かが多いか少ないかでしか測ることができない。これが2本になると、x軸とy軸のように、平面的に現実を把握することができる。そこにもう一本加わると、空間的に世界を見ることができる。これが3次元だ。

そこにもう一本軸が増えて4次元になると、三次元の空間が一直線上を動くことになる。これが、時間軸だ。だけど、4次元ではまだ時間軸は一本しかないので、数直線のように一本のレール上を動いていくだけのように見える。これが、私たちがこれまで普通に認識してきた時間感覚だ。

5次元になると、時間軸がもう一本増えて、時間を平面的に認識することができる。時間とは、実は過去から現在、現在から未来へと、一直線上を動いていくのではなく、無数の過去、無数の現在、無数の未来があって、私たちはそこを行き来しているのだ。6次元になって時間軸がもう一本増えると、時間が空間的になる。こうなると、私たちはあらゆる過去や未来を自在に行き来し、自在に変えてくることもできる、ということになる。

こうなると、「今ここに生きる」ということが、まったく違うイメージで見えてくる。今の中には、すべての時間があり、すべての可能性があるのだ。ここには、なかったように思えている過去もすべて存在しているし、パラレルワールド的に、実際になかったはずの過去もすべて存在している。そのすべてに行き来することができるのが、「今」なのだ。Manawaが「今ここに力がある」と言っているのは、こうした時間感覚のことを言っている。「今」の中には永遠が丸ごと入っているし、そこからすべての現実を変えることも可能になる。

こうしたことを、理屈で考えようとすると、わけがわからなくなるのだけれど、実際に過去へ戻ってみたり、過去を変えたりしてみると、何のことはなくわかる。それでセミナーでは、過去の時間がすべて今の中に存在していて、自在に行き来することができるのを知るために、それぞれ楽しかった過去の時を思い出して、その場に実際にいるようにイメージしてみることにした。

私たちは、過去の楽しかったときのことは、すべてもう失われてしまっているのだと思っている。それで、過去のことを思い出すときには、それが今はもうないという喪失感と欠如感ばかりを感じることになる。過去はすでに過ぎ去ったものだから存在していないし、未来は未だ来ていないものだから、やっぱり存在していない。そう思っていると、私たちは何もないところに座っていて、欠如意識でいっぱいになっているようなことになる。多くの場合、私たちはこの状態で支配されてしまう。欠如意識でいっぱいになっていると、幸福感を与えてくれそうなものに容易に依存状態になってしまうからだ。

過去の楽しかった時間は何も失われてはおらず、すべて存在しているのだと思って、意識上でそこに戻っていって、そこで感じた幸福感をそれぞれに感じてみてもらった。何でもないことのようだけれど、私たちはそういうことをやってはいけないかのように思っていることが多い。しかし、やってみると、それがいけないことのように思えていたのも、実は私たちを3−4次元の時間感覚に縛りつけておこうとしていたからだったことがわかる。すべての時間に自在に行き来することができることがわかってしまうと、「幸福な未来」なるものを約束して、人を言うなりに動かすことができなくなってしまうからだ。だから、支配というものは、3−4次元までの現実認識でしか、可能にならない。

若い頃に経験した冒険的な旅の場面に戻ってみた人は、顔が当時のような若々しさに戻っていて、目が生き生きと輝き出していた。第一回のセミナーで、きれいになる魔法を皆でやったときもそうだったけれど、意識を向けただけで、とたんにまったく違うオーラを発し始めるのだ。表情も目もその頃のようになるし、肌が若返ったように、しっとりとし始めたりもする。すっかり満たされて幸福な気分になり、身体が軽くなったりもする。

両親が離婚する前の3歳くらいのときに戻ってみたという人は、面白いことに何だか大人っぽい顔つきになっていて、当時のお母さんはこんな風だったのではないかと思わせるような感じになっていた。彼女は母親に育てられた記憶もほとんどなかったのだけれど、意識で戻ってみたら、母親に愛されていた頃の時間を確かに経験したのだ。それによって、母親なしで育った自分から、母親に愛されて育った自分に変わってしまったかのようだった。

DVに遭う前の10代の頃に戻ってみたという人は、自由気ままでクリエイティブな女の子みたいな顔になっていて、何か目立つことをしたら虐待されるんじゃないかという恐怖感から解放されてしまったようだった。

それから、過去を書き換えるのを皆でやってみた。過去はすでにもう決まってしまっているもので、変えたりできないんじゃないかと私たちは思っているけれど、実は過去は変えることができる。それというのも、私たちが「こういう過去があった」と思っている過去とは、今そのように思っているということにすぎないからだ。第一回のIKEでもやったけれど、自分がどういう現実に生きているかは、実は意識をどこに向けるかで、まったく違ってしまう。過去についても同じなのだ。だから、ぜんぜん違う過去に書き換えたつもりが、実はそういう過去も確かにあったということに気がつくということもある。

それで、それぞれに「もしあのときこうなっていたらよかったのに」と思うような過去の場面に意識で戻っていって、思うように変えてきてもらった。そのときに、絶対になかったような過去に変えてしまってもいい。もし過去を変えてしまったら、今の自分がなくなってしまうのではないかと思うかもしれないけれど、そんなことはない。これも、理屈で考えるとわけがわからないのだけれど、やってみるとわかる。たとえば、ぜんぜん違う親の子供として生まれたことにするとか、他の時代や他の星で生まれ育ったことにしてしまうこともできる。それで、姿形が変わったり、自分の親を忘れてしまったりするわけではないけれど、書き換えてみると、まるでそういう恵まれた子供時代をすごしてきたような気分になり、そういうオーラを放ち始めるのだ。

どうしてそうなるのかはわからないけれど、やってみると、現実にそうなるのがわかる。してみると、過去というものも、実はそれほど決まりきったものではなくて、時間というものも、実は直線的に動いているわけでもなくて、絶えず変化していて、私たちはつねにいろいろな時間を漂っているのかもしれないと思えてくる。3−4次元の時間感覚で考えると、私たちは過去や未来に縛られているように思えるのだけれど、実は過去も未来も現在も、たえず同時に変化しているし、いつでも変えることができるのだろう。それは、般若心経で言っているように、現実というものも、私たちの意識が作り出している幻想にすぎないことに気づくようなことだとも言える。私たちが自分の過去だと思っているものも、実は、演劇で演じることになった役の人物設定のようなもので、「そういう過去を持っている自分」を演じているだけなのかもしれない。

ともかく実際、意識上で過去を行き来したり、自在に変えたりしていると、「自分の過去」と思っていたものも、実はそういう設定でこれまで生きてきたということにすぎないようにも思えてくる。まったくなかった過去に変えてしまっても、そういう過去の経験を実はどこかでしていたのかもしれないし、あるいは過去生であったり、アカシックレコードにある誰かの経験なのかもしれない。意識の領域では、すべてと境なく繋がっているのだ。それならば、どんな過去だって存在するし、それが自分の経験なのか、それとも誰か別な人の経験なのかも、本当はどうでもいいのかもしれない。

母親に愛されて育てられた過去に変えようとして、母親の記憶がないのでうまくいかなかったという人がいたので、皆でその人が母親に愛されて育てられた場面をイメージして、送ることにした。自分では経験がないからイメージできないことでも、他の人たちがイメージすると、それがちゃんと伝わるのだ。自分で経験したことがないことは、そんなことがあり得るとなかなか思えないし、だからうまくイメージできなかったりもする。

自分のことになるとなかなか幸福な状況が思い描けなくても、他の人だといくらでもイメージできる。そして、他の人に贈ったつもりでも、ちゃんと自分のところに戻ってくる。それが意識の領域の面白いところで、与えたものは、同時に自分も受け取っているのだ。それで、自分の過去はうまく変えられなかったけれど、人のために過去を変えたら、自分の過去も変えられたと言っていた人も少なくなかった。

そして最後に、世界中のすべての人が愛されて大事にされた子供時代を送ったという風に過去を書き換えてしまうことにした。地球にはそうした時代もあったはずだし、この数百年、あるいは数千年が異常だっただけなのかもしれない。いずれにしても、もう子供が大事にされないような世界は終わりになるべきだし、実際、水瓶座の時代に入って、そういう世界に移行していっているのだと思う。

その書き換えをやってみて感じたのは、皆が大事にされて愛されて育っていたら、もう戦争は起こらないだろうということだった。満たされていて、自分が大事にできて、他人も大事にすることができるから、争う必要をそもそも感じないのだ。将来の不安に駆り立てられて、何かを独占する必要もない。皆で一緒に生きていけばいいだけの話なのだから。

物理学での5次元



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【Alohaアロハ ー 緩んでゆだねるのが、最強の力】



フナの5つ目の原則はAloha アロハで、これはハワイ語で「愛」という意味なのだけれど、日常的に「こんにちは」とか「ハロー」という風に使うあいさつの言葉でもある。しかしハワイでは、人に会うたびに「愛しています」と言っているわけではない。アロハとは、一緒にいて幸せだ、という意味なのだと、フナでは言っている。つまり、ハワイでは、人に会うたびに、「あなたに会えてうれしいですね」と言っているわけなのだ。アロハとは、そういう意味の愛だ。

愛というと、私たちは何かと難しく考えてしまいがちだ。愛するとは、自分を犠牲にして相手のために何かをしなければならないことのように思ったりする。「愛はよくわからない」と、まるでよほど精神修養を積んだ人でなければできないことのように言っていたりもする。

しかし、愛とは意志の力で「する」ようなものではなく、好きか嫌いかといったような、自然に湧いてくる感情にすぎない。うれしい、好きだ、という感情が湧いてきたとき、身体が緩んで、胸のあたりから暖かくなってきて、幸せな気分になる。アロハとは、そういう感情のことだ。そして、その感情にこそ、最強の力がある。

このことを体感してみるために、公開セミナーでは、まず誰かと一緒にいて、幸せだったときのことを思い出し、その時に戻って、その喜びを味わってみることにした。その人とずっと一緒にいたいわけじゃなくても、ただそのとき一緒にいて幸せを感じたという体験だ。そこに戻っていって、ただその幸せを感じてみた。

今は亡くなった父親と病院のカフェで話していたときのことを思い出したという人、過去のいろいろな場面を次々と思い出したという人、現実にあった場面ではないけれど、書き換えた過去で、2歳の自分が両親と手を繋いで野原を歩いている場面に戻ったという人、皆、しみじみと幸福感を感じ、身体が緩んで暖かくなり、愛に満たされた感覚になっていた。何よりも、目の光が優しくなって、とても繊細な、傷つきやすい感じの表情になっている。

これが、愛に満たされた状態、ハートが開いた状態なのだ。ハートが開くと、人は傷つきやすい感覚になる。それは、弱いことのように思えるけれど、まさにこの傷つきやすさこそが、最強の力なのだ。すべてに開かれているからこそ、傷つきやすい。守ろうとしていないからこそ、守られている。その状態こそは、すべてを可能にするゼロ磁場のようなものだ。

それから、自分が理屈なく好きなものが何なのか考えて、それをやっているときの幸福感を感じてみることにした。しかし、これは実際にやってみると、そう簡単ではないことがわかった。自分が好きだと思っているものが、実は何かの代償であったりすることがとても多いのだ。たとえば、お金をもらったらうれしいけれど、それはお金自体が好きなわけではなくて、それによって働かなくてもいいとか、旅行に行けるとかがあるからだ。だから、本当はお金が好きなのではなくて、働かなくてもいい時間が好きなのだ。

また、お酒とかタバコとか甘いものとかが好きだというのは、好きというよりも一種の依存状態で、本当に欲しいものが得られないから、代わりにそういうもので満たそうとしているだけだったりする。やっぱりそれ自体が好きで愛に満たされるわけではない。達成感とか人に勝ったという感覚とか、認めてもらえる喜びとかが欲しくてやっていることもある。一体、本当に自分の魂が求めていることは何なのか、それがなかなかわからない。これは、現代に生まれ育った私たちが、いかに条件づけで生きているかということを表している。

それで、それぞれインナーチャイルドに話しかけて、何が好きなのかを聞いてみることにした。そして、これからはそれをいくらでもやっていい、と言ってもらった。すると、多くの場合、インナーチャイルドはこれとはっきり言えるようなものを求めているわけではなかった。ただ自由に駆け回りたいとか、のんびりしたいとか、空を駆け巡りたいとか、そういうイメージで答えてくるだけだった。

私たちは、何をやりたいのか、何を望んでいるのかと思うとき、あることを成功させるとか、達成するとか、勝ち負けとか、そういう形のはっきりしたもので考えるように条件づけられているのだと思う。しかし、魂が求めているのは、そんなはっきりと決まったものではなく、ただ気持ちのよい方向に自由に進んでいくということだけなのだ。しかし、この気持ちのよい方へ進んでいくということこそは、実のところハイヤーセルフの導きだ。高次元に導かれて生きる感覚を知っている人は、何かのときに、理屈で考えるよりも、身体を緩めて、行きたくなる方向へ身を任せて進んでいくように行動したりする。そうすると、まるで導かれるように、するすると事が運んでいき、いつのまにか望んでいたことが実現していたりするのを知っているからだ。

現代に生きる私たちは、まさにこうしたハイヤーセルフの導きを信じないようにされている。そして、魂が自然に向かっていこうとする心地よい方へ動く代わりに、達成感とか勝ち負けとか、成績とかお金とか、そういうもので動かされていることが多い。

それで次に、それぞれ自分のハイヤーセルフにアクセスしてみることにした。これは、自分をいくらでも甘やかしてくれる宇宙のおじいちゃんみたいに想像すると、すんなり繋がることができる。高次の意識だとか神さまだとかいうと、ずっと遠くの高いところにある恐いような存在を想像するのだけれど、本当のハイヤーセルフは、そんなものではない。私たち人間の想像を遥かに超えたような、甘やかしまくりの意識なのだ。福音書を注意深く読めば、ナザレのイエスが神さまをそのような存在として語っていたことがわかるし、ハイヤーセルフにアクセスしたことがある人も、同様なことを言っている。何でもわかってくれて、何でもしてくれようとして、無条件に受け入れて愛してくれる存在。それが神さまであり、自身の高次元意識であるハイヤーセルフだ。

だから、そういう宇宙のおじいちゃんみたいな存在がもしいたらどうだろう?と想像して、その感覚を味わってみたり、「そこにいますか?」と声をかけてみたりしてもらった。それでほとんどの人は、うまくアクセスできたようだった。はっきりしたイメージや答えが返ってこなかった人も、胸から上のチャクラが開いて、サードアイのあたりが明るく輝き出しているのがわかった。甘やかし放題のおじいちゃんみたいな存在とアクセスしているのに、頭頂やサードアイが開くのだ。そして、いわゆる「宇宙と繋がっている」状態になる。

ふわふわした白いヒゲのおじいさんのイメージが出てきた人、赤ちゃんになったみたいに甘やかしてもらった人、いつもついているから、もっと好きにしていいんだよ、と言われて涙が出たと言った人。一方では、そのままでいい、自由に遊んでいていい、と言われても、何だか物足りなくて、「何をすべきなのか?」と聞き出そうとしていて、甘やかされる気分を味わわなかったと言っていた人も多かった。

私たちは、それぞれにこの地上ですることがあって生まれてきていて、つまるところ、それは自分自身の高次の意識によって導かれている。しかしそれは、私たちが顕在意識で「これを果たそう」と思って果たせるようなものでもない。それというのも、私たちの顕在意識は、私たちがすでに知っているようなものしか考え出すことができないからだ。しかし高次の意識は、私たちがまだ知らないような可能性をすべて知っていて、そこへ向かって私たちを導いていっている。

このことは、それぞれ自分のこれまでの人生を考えてみればわかると思う。このようになることを考えていて、それに向かって進んできたという人は、ほとんどいないのじゃないかと思う。そうではなくて、まさかこんなことがと思うようなことの連続で、導かれてきたということが多いのじゃないかと思う。そして、もうどうにもならないというところまで来て、自分で努力するのをやめ、大きな力にまかせるつもりになったとき、不思議な力で運ばれていくように切り抜けていったという経験をしている人も、多いのじゃないかと思う。

まさにこの高次の意識との繋がりが、これまで封じ込められてきたのだ。神さまとか宇宙とか呼ばれてきた高次の意識は、本当はただ気持ちのいいように動いていればいいようにしてくれているのに、そうではなくて、私たちの行動をすべて監視していて、裁いたり罰したりする存在であるかのように言われてきた。それによって私たちは、自分の魂の声に従う代わりに、外の権威の命令に従うように条件づけられてきたのだ。そして、まさにこの状態が、戦いと支配とが絶えない世界を作り出してきた。

それで最後に、ハイヤーセルフとの繋がりのエネルギーを、光の玉に入れて、世界中のすべての人に送ることにした。繋がりを失って、戦いや支配欲に取り憑かれたようになっている人々にも、このエネルギーを送った。それは、これまで受けてきた傷が癒えるときの痛みを感じさせるプロセスでもあった。地球の中心にマグマのように熱い大きな愛の力があり、それが地表のあたりにあるカチカチの殻のようなもので封じ込められていたようだ。光の玉を送ると、そのカチカチの地表に風穴がいくつも開いて、地中に封じ込められていた愛のエネルギーが地表に出ていき、地球全体を光で包んでいった。

自分自身がありのままに受け入れられ、愛される感覚に満たされていてこそ、人をありのままに受け入れ、愛することができるのだ。高次の意識と繋がったとき、私たちは、自分がまったくありのままに当たり前に受け入れられ、甘やかしまくられるくらいに愛されるという感覚を知る。何ができるから偉いとか、何ができないからダメだとかいうことが一切ない。何をすべきだとか、何をしてはいけないとかも、一切ない。ただ地上に生きている存在だから、当たり前に愛され、何もかも与えられるという感覚を知る。

そうなったとき、私たちは初めて、すべての人をありのままに受け入れて愛するということが、当たり前にできるようになるのだ。それは、何かをその人たちのためにしなくちゃいけないとかいうことではなくて、同じように高次の意識に愛されている存在として、敬意を払い合うようなことでしかない。ただ自分が甘やかされまくる感覚で緩んで、魂が求める気持ちのいい方向に動いていくように、ゆだねていれば、私たちは自ずと他人にも、条件をつけないでありのままに受け入れて、たがいに心地よい状態を作っていこうとする。

そしてそれこそは、多極的な調和と共生とを可能にするものだ。何百年、何千年もの間、その力が封じ込められてきたのだけれど、それが再び解放されて、その状態が当たり前になるときが、すでに来ているということなのだと思う。


チチカカ湖の湖上に出た日輪


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【Manaマナ ー 賢い王が有能な部下を使うように、インナーチャイルドとつきあうこと】



Mana マナは、ハワイ語で権限 authorityという意味なのだそうだ。これがフナの原則の6番目で、これは、誰もが自分の現実を決める力がある、ということを意味している。会社の社長ならば、自分の会社がどういう方向でどういう仕事をしていくかを決める権限を持っている。そういう風に、本来は私たち誰もが、自分の現実を決める力があるということを言っている。

意識の領域で見たときに、自分の意識が自分の現実を作り出しているということが、はっきりとわかる。もし、自分の意識が自分の現実を作り出しているならば、意識を変えることによって、自分の現実を自在に変えることもまた可能なのだ。だから当然、自分の現実を決める権限は、誰もが持っているということになる。

ところが、私たちは子供の頃から、自分がどういう人間なのか、どう生きるのか、何をすべきなのかといったことが、自分では決められないかのように思わせられてきている。そういうことは、学校だとか病院だとか何かの師匠だとか、あるいは何かの専門家だとかの外の権威が決めることであって、自分で勝手に決めるべきことではないかのようにだ。それで、自分が病気なのか健康なのかさえも、病院やら検査やらが決めてくれるのに頼っていたりする。あなたはどういう病気だからどうしなければならないと言われたら、その通りに従うしかないと思っている。自分がどういう人間なのか、何ができるのか、何をすべきなのか、といったことも、学校の試験だとか何かの検査だとかあるいは師匠とかの権威の人が決めてくれることであって、自分が決めることではないみたいに思っている。だから、自分がどうなるのか、将来がどうなるのか、といったことも、外から来るものを「これが現実だから」と受け入れるしかないみたいに思っている。

しかし、まさにそのように思って、何でもパッシブに受け入れ、自分の現実を自分で決める力を使ってこなかったからこそ、私たちはどうでもいいように支配されてしまったのかもしれない。本当は自分に決める力があるのに、その力を外の権威に譲り渡してしまっているのかもしれない。

それで公開セミナーでは、まず自分にどういう力があるのかを知るために、ダイナマインドというメソッドを使って、それぞれ自分の身体の状態を思うように変えてみてもらうことにした。これは、カウアイ島のカフナのサージ・カヒリ・キングがヒーリングのメソッドとして考え出したもので、とてもシンプルで誰にでもすぐできる。

まず、両手の指を合わせて、玉の形を作る。これが、意識を向ける始まりの合図だ。そして、もし頭が痛いのだとしたら、「私は今、頭が痛い。だけど、これは変わり得る。私はこの痛みが消えるようにする」という風に自分に対して宣言する。それから、身体の3ヶ所を7回ずつタッピングする。最初が胸骨の真ん中、それから合谷(ごうこく)と呼ばれる親指と人差し指の付け根のところのツボを右手と左手両方タッピングして、最後に大椎(だいつい)と呼ばれる首の後ろの一番大きい背骨の骨の下あたりをタッピングする。これは、身体を緩めて、自然治癒力を活性化させるのに役に立つ。そして最後に、また両手の指を合わせて玉を作り、頭頂から息が入ってくるイメージで息を吸い、足の裏から出る感じで息を吐く。それで終わりだ。

こうしたメソッドには、いろいろな形式があるけれど、要は自分の身体の状態がどうあるべきかを、自分の意識で決める力を使っているのだ。それが、Manaの力、権限の力だ。ダイナマインドの面白いところは、たったこれだけのことなのに、けっこうパワフルに効いてしまうということだ。嘘みたいに痛みが消えてしまったりもする。これは、飲みすぎて気持ちが悪いとか、食べすぎてお腹が苦しいとか、そういうときでも使えるし、疲れて頭がボォッとするとか、風邪引きそうだとか、何にでも使える。

花粉症で目がかゆかったのが治ったという人、痛風で足が痛くてしようがなかったのが、痛みが消えてしまったという人もいた。また、肩が痛かったのが、痛みが少し和らぐとともに、自分一人で問題を抱え込まないで、人に助けを求めてもよかったのだと思えた、と言った人もいた。

こういうヒーリングメソッドを使ってみると、身体の症状というのは、実は意識から来ているということがよくわかる。たとえば、肩が痛いのは、自分が「重荷を背負っている」という意識の現れだったりする。それが痛みとして出てくるのは、この状態を変える必要があるからなのだ。だから、意識を変えることで痛みを消そうとすると、痛みを生じさせている根本の原因が意識に上ってきて、それに対処することになる。

フナでは、潜在意識や身体意識をクーとかウニヒピリと呼んでいて、これはインナーチャイルドのようなものだとも言える。ところで、潜在意識は深いところで宇宙意識とも繋がっていて、アカシックレコードのようなものとも繋がっているので、実はものすごい力を持っている。どんなことでも知っているし、どんな力も使うことが実はできてしまうのだ。だから私たちは、自分のクーを万能な部下として信頼して、指示を与えればいい。マナの力を使うとは、そうしたことなのだ。会社だとしたら、いろんな部所があって、いろんな専門家、いろんな取引先との繋がりがある。クーはそうしたものをすべて完全に把握していて、どんな指示を出しても、ちゃんとどこに何を手配すればいいかがわかっている右腕のようなものだ。だから、私たちは一体何をどうやったら可能になるのかなどということは考えなくてもいい。ただ何がどうなるべきなのかをクーに言って、あとはまかせておけばいい。

このメソッドは、不安感だとか怒りが湧いてくるとか、気分が落ち込むとか、そういう心理的な状態にも使うことができる。この頃は、世界が一体どうなっていくのかわからないような状況なので、これからどうなってしまうのかという不安感が襲ってくるという人も多い。そういう不安感にダイナマインドを使うと、何が起きても何とかなるというような、ドーンと肚が据わった気分になったりする。あるいは、恐ろしいようなことは本当は何も起こらない、ということが、感覚的に納得できたりする。

パートナーが本心を隠しているのを見るとイライラするとか、まわりの人の性質に振り回されているのを変えたいという場合は、相手を変えようとしても変えられないけれど、自分がそれに左右されないことを決めることはできる。誰でも自分の現実を決める権限があるのだから、相手が何をやっていようが、それはその人が決めた現実だ。だから、それを変えようとはしない方がいい。

その代わりに、「私は、彼がXXしているとイライラする。だけど、これは変わり得る。私は彼がXXしていても、それに振り回されないようになる」とかいう風にやることができる。これは、相手と距離を取るようで、何だか冷たいようにも思えるけれど、やってみると起こったことは逆だった。勝手に一生でもやってろ、と突き放して思えた一方で、何だか相手に対してハートが開いたような感じになっていた。相手をありのままに受け入れるというのは、実はこうしたことなのだろう。相手は相手だ、と突き放しているようで、実はありのままの相手に心を開くことになる。この状態になっていると、相手の態度も変わってくる可能性もある。

マナの力、権限の力を使うとは、それまでクーに指示を与えず、放りっぱなしにしていたために、外からどうにでもされていて、無秩序状態になっていたのを、指示を与えて秩序を取り戻すようなことだと言える。つまり、いなくなっていた王さまが戻ってきて、国を建て直すようなことだ。そのために、私たちには、すべてを把握していて、何でもできるクーがいる。ただ、その力を認めて、信頼して、指示を与えればいいのだ。

それで、クーとのそのような関係を作るために、クーとアクセスして、自分が社長とか王さまになったつもりで、クーに指示を与え、相談するのをそれぞれにやってみることにした。やってみるとわかるのだけれど、こんなことを望んでもいいのかと疑問に思うような途方もないことでも、けっこうクーは動じた風でもなく、大喜びしていたりする。私たちは、クーの力を過小評価していたようだ。まるで、これまでつまらない仕事ばかり与えられてやる気をなくしていた部下が、やっと自分の能力を発揮できる仕事をもらえたというように、飛び跳ねて喜んでいるようだ。

このワークのあとで、何だか皆、身体に軸が通って、サードアイが開いたように、額のあたりのオーラが強くなっていた。まさにこれが、自分に対する主権を取り戻した状態なのだろう。至福の自由の感覚を感じた人も多かった。これまで自分は自由人だと思っていた人でも、実はまだまだ自由ではなかったのだということに気がついたようだ。奴隷解放の感覚と言ってもいいかもしれない。それまでは、それが当たり前だったから、囚われているとも思っていなかったけれど、本当に解放されたとき、実はそれまで囚われていたのだということに気づくといった風だった。

実は私たちは、他の国に乗っ取られて、主権を奪われていた国のようなものだったようだ。主権を取り戻すことで、もはや他の国に支配されなくなり、初めて自分の力のすべてを、自分のために使うことができる。それによって、これまでは可能だとも思っていなかったような豊かさ、自由、幸福が実は当たり前に可能になるということがわかる。権限の力を使うべくクーとの関係を作るのは、まさにそうしたことのようだ。

それから、湘南が大規模災害に遭うのではないかという予言があるけれど、マナの力を使うことでそれを防ぐことはできるのかという質問があった。これも、他人の問題と同様で、災害自体をなくすことはできないけれど、自分が災害によって被害を受けないと決めることはできるはずだ。ところで、ある人が、地震について奇妙なことを経験したという話をしてくれた。このところ何年も、他のところで地震が起こっていても、自分のいるところでは地震がない、というのだ。近くの人に聞いても、ちゃんと地震が起こっているのに、自分の家だけは揺れていない。地震には敏感な猫でさえも、まったく反応していないから、本当に地震が起こっていないようだと言う。

すると、何人かの人が、やはり同様にこの頃地震を経験していないと言っていた。私自身も、前は日本に行くたびにちょっとした地震は何度かあったけれど、ここ10年くらい、日本に行っても一度も地震に遭っていない。それで私は、日本には地震がなくなったのかと思っていたくらいだった。しかし、どうもそういうことではなかったらしい。

一体どうしたらそんなことがあり得るのかわからないけれど、クーはすべての次元に通じる潜在意識の力なのだから、私たちが不可能だと思うようなことでも、ちゃんと可能にする方法を知っているのかもしれない。台風の進路を変えるようなことなら、ハワイのカフナたちは昔からやっていた。久高島の神女は、男たちが乗った船が海難に遭わないように祈りで守っていて、実際それで男たちは無事に帰ってくる。クーに何が可能なのかは、私たちの顕在意識では計り知れない。

今私たちが、人工災害やら戦争やらを起こされて犠牲にされてしまうのも、実は私たちがマナの力、権限の力を使うことを忘れさせられてきたからだったのかもしれない。何が起きても、「現実を受け入れるしかない」と思って何もしようとしていないようなものなのかもしれない。支配とは、まさにこの状態を作り出すことなのだろう。だからこそ、征服者たちは、土地の磐座や聖地を破壊したり、封じ込めたりするのだ。そうやって、自分の現実を自分で決める力を奪い取ってしまうためにだ。

だから、「自分は災害の被害を受けない」と多くの人が決めるなら、実際に災害は起こらなくなるのかもしれない。もし、「自分は」というのを、ずっと広い範囲にして、自分のいる地方一帯、あるいは国全体に広げたら、自分が決めることで、世界全体を災害から守ることだって、あるいはできるのかもしれない。それで最後に、皆で「自分は災害の被害を受けない」と決めて、その自分のオーラを好きなだけ大きくしていって、世界全体、地球丸ごとでも包んでみてもらうことにした。

ところで、これをやってみると、意外と何のことはなくできてしまった。クーはそんなことも簡単にできるかのようで、まったく動じている風もなく、それくらい当たり前に受け取っているように思えた。これまで地球の人類は、何かの理由で災害や戦争を必要としていたけれど、もうそうしたものを必要としない時代が来ていたのかもしれない。それなのに、私たちが戦争や災害などの試練はつきものだという意識で生きていたので、そのままになっていただけだったのかもしれない。誰かが「もう災害は要らない」と決めさえすれば、災害も戦争もなくなってしまうというようなことだったようにさえ思えた。それくらいの軽さで、すんなりと通ってしまったのだ。

マナの力、権限の力を使うとは、一方的な命令を押しつけるようなことではない。賢い王のように、クリエイティブに調和を作り出すことなのだ。無秩序状態で混乱が起こっている状況で、賢い王は、どうしたら皆が満足して、平和な状態ができるのかを考える。それが機能したとき、多くの人々の力が自ずと王の指示に従って動いていき、すんなりと大きなことが実現したりもする。だから、もし私たちがたった一人でも、世界全体に対して皆が満足するような調和の状態を作り出すことを望んだなら、私たちのクーはあらゆる次元に働きかけて、実現してしまうこともできるのかもしれない。クーは、意識の次元でテレパシー的なネットワークとも繋がっていて、多くの人の意識に呼びかけることもできるはずなのだから。私たちはただ、自分のクーを信頼して、まかせればいいだけなのだ。


グラヴォボイ数列で使う浄化のシンボルE=VSのマンダラ化したもの。



第6回 Mana 権限は誰にでもある

Posted by Chihiro Sato-Schuh on Monday, March 18, 2024

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【Pono ポノ ー 希望とは、神とともに生きるようなこと】


Pono ポノとは、フナの第7原則で、ハワイ語で「希望」という意味だ。フナでは、ポノとは「効果があるかどうかで真実かどうかが決まる」という意味だと言っている。

この「効果があるかどうかが真実かどうかを決める」というのは、ナザレのイエスが言った「良い木がどうかは、その実でわかる」という言葉と同じようなことだ。ナザレのイエスは、病人を健康にしたり、狂気に取り憑かれて暴れていた人を正気に戻したりしていた。それを、ユダヤ教会の人たちは、イエスが司祭でもなく、正式な修行をしたわけでもないのに、そんなことをしているのは、悪魔の技を使っているのだろうと文句を言いに来た。それでナザレのイエスは、「いい木がどうかは、いい実をつけるかどうかで決まる」と言った。イエスがどこから来たどういう人間だろうが、やり方が正式のものと違っていようが、それで病人が治っていて、人々が幸せになっているのだから、それこそがいい力である証拠ではないか、という意味だ。

当たり前といったら、これ以上当たり前のことはないくらいだけれど、私たちは、効果を見ないで、やり方が正しいとか間違っているとか言って、そこで止まってしまうことが実に多い。教科書にそう書いてないからとか、学校でそれはいけないやり方だと習ったとか、どこの師匠がそれはダメだと言っているとか、そういうことで、効果があるもの、あるかもしれないものを、それ以上試してみないでやめてしまうのだ。まるで、別なことを試してみるのが、犯罪か何かであるようにさえ思っていたりする。実際、そんな風に現代社会では、人々は学校やテレビやらで、条件づけられていて、決まった領域の外へは出ていかないようにされている。

ある方法でやってみて、うまくいかなかったら、別な方法でやってみればいいだけの話なのだ。宇宙には無限の可能性があって、どんなときでも、必ず道はある。ただ、私たちにそれが見えていないだけで、それが見えないのも、「そのやり方は正しくない」と私たちが思い込んでいるからだけだったりする。それまで知られていたやり方をすべてやってもできなかったら、それまで誰もやらなかったことをやってみればいい。実際、偉大な発見とか発明というのは、そうしてなされていったのだから。

インナーチャイルドを解放するセッションをやっていると、そのときそのときで実にさまざまなやり方をすることになる。インナーチャイルドが封じ込められるのは、多くは幼児期に虐待を受けたりしたことから来ているのだけれど、それで過去を書き換えて、虐待されなかったことにしてしまったりする。そんなことができるのかと思うけれど、実際それで、インナーチャイルドが解放されるのだ。オーラが変わって、おどおどした態度だったのがなくなってしまったりする。効果があったのなら、それでいい。もしそれでうまく変わらなかったら、別のやり方を考えればいい。

それで、親が変わりそうにない時は、ぜんぜん別の親に育てられたことにしてしまったりもした。これまたこんなことできるのかと思うけれど、それでとにかくインナーチャイルドが解放される。それでもダメなときは、歴史をまるごと変えて、たとえば戦争がなかったことにしてしまったりもした。それどころか、2000年くらいの歴史をすべて変えてしまって、縄文時代のように戦争や支配がない世界でずっと来ていたことにしてしまったことさえあった。うまく行くまで、いくらでもいろいろな方法を考え出してやってみている。そこに限界はない。

「次元移動の魔法」のセミナーでもやったけれど、私たちが「もうダメだ」と思うときでも、意識の次元を一つ上げると、道はいくらでもあることがわかる。鶏は一次元の意識で生きているのだそうで、だから目の前に見える現実しか存在していないように思えている。その場合、餌と鶏の間に金網を一枚置くと、鶏はもう餌に行き着けなくなってしまう。鶏にとっては、「金網があるから餌のところに行けない」という現実しかないのだ。向きを変えたら金網はないけれど、その代わり目の前には餌がない。だから、やっぱり餌のところへは行き着けない。

二次元の意識があると、目の前に金網があっても、上から見たら、右も左も空いているということがわかる。とつぜん、実は道はいくらでもあったことがわかるのだ。これが三次元になると、空間的に状況が見えるから、さらに多くの可能性があることがわかる。

私たちは、3−4次元の現実認識で生きているから、空間的に見ることができ、金網が目の前にあっても、そこから出ることは簡単にできる。だけど、目指していたことが、思ったようにいかないとなると、私たちはとたんに、鶏が金網一枚目の前に置かれたのと同じ状態になってしまうのだ。だけどそのとき、障害にぶつかった自分を空の上から見る視点があると、実は右も左も空いていて、道はいくらでもあることがわかる。

ところで、フナでは潜在意識であり身体意識であり、インナーチャイルドであるような意識をクー、あるいはウニヒピリと呼んでいるのだけれど、このクーは、潜在意識を通して高次の意識や宇宙意識、アカシックレコードのような記憶とも繋がっているので、ありとある可能性を知っている。だから、どうしようもないところへ追い詰められたと思ったら、考えるのをやめて、クーに道を探させればいいのだ。第6回のマナのときにもやったけれど、クーは万能な右腕の部下のような存在として、自分が社長のつもりで、指示を与えて、あとは信頼していればいい。私たちは頭で考えて解決法を探そうとすると、自分が知っていることからしか考えようとしない。だけど、クーはあらゆる可能性を知っている。だから、そういうときに、下手な考えで、クーに「それは違う」とか「それはダメだ」とか言わない方がいい。

私たちは、クーに対して、現場を知らないのに余計な口出しばかりする上司みたいに接していることが、実に多いのだと思う。常識とか思い込みとかで、それはダメだとクーを止めている。クーは、現場のこともよく知り抜いている有能な部下のようなものだ。あれこれ口出ししないで、目的だけはっきりとさせて、あとはクーの腕を信頼して、任せておいた方がいい。

クーとのつきあい方に慣れている人は、どうしようもないところに追い詰められたとき、頭で考えるのをやめて、身体が動くままに任せてしまうと、うまく切り抜けられるのを知っている。直感とか野生の勘みたいなもので、感じたままに動くのだ。すると、思ってもみないような行動に出ることもあるけれど、それで意外にも切り抜けてしまったりする。たとえば、火に取り巻かれたときに、火が燃えている方へ飛び込んでいくとかだ。頭で考えたら絶対行かないだろう方向へ、とっさに動いているのだけれど、実はそこが脱出口だったりする。まさかと思うような道なのだけれど、クーはちゃんとそれを知っている。

それで、それぞれ自分のクーとアクセスして、自分がもうダメだと思って諦めているようなことで、クーに道を見つけさせるというのを、皆でやってみた。クーは身体の中のどこかにいるかもしれないし、外かもしれない。あるいは、自分よりずっと大きい存在として見えるかもしれない。とにかくクーを呼んでみて、信頼できる有能な部下に指示を与えるように、道を見つけさせる。そのときに、「もしすべてが可能だとしたら?」「道は必ずある」「道は無数にある」とクーに言ってもらった。

実際にクーが思ってもみなかったような解決法を示してくれたという人もいたし、具体的にこれということはなかったけれど、クーは自信満々な風だったから、うまくやってくれるんだと思うと言った人もいた。パートナーと考えが合わなくて困っていた人は、クーが彼の夢の中に出て伝えるから大丈夫だと言ってくれたそうだ。ある玉を埋めてくる使命があるのだけれど、場所がわからなかったという人は、クーに聞いたら、地面に潜っていって、道を示してくれたそうだ。それで、あとで地図を見たら、本当にその通りに道があって、玉を埋めるのは確かにここだと思える場所がわかったと言っていた。

これをやったら、皆、何だか肚が据わって、しっかりと軸が通ったようなオーラを出していた。第3チャクラがしっかりとして、軸が通り、サードアイが開いたようだ。これこそは、フナの第7原則ポノ(希望)の力だ。どんなときでも、クーを信頼することさえ知っていれば、私たちはしっかりと前を向いて進んでいける。そして、しっかりと前を向いて進んでいさえすれば、何があろうと必ず切り抜けていけるだろう。

クーにアクセスできなかったという人は、かつて無意識に奴隷のように支配された経験があって、クーを信頼したらとんでもない目に遭うのではないかと恐れていたことがわかった。これは、クーが支配していたのではなくて、顕在意識であるロノが、何か大きなことを達成しなければ、みたいなことを、クーに命令していたからなのだと思う。それで、いろんなアイディアがどんどん湧いてきて、夜もゆっくり眠れないで疲労困憊の状態になっていたそうだ。

そういう場合は、第6原則Manaマナでやったみたいに、今まではそうだったけれど、これからは眠れるようにするようにと、クーに言えばいい。言われた仕事をちゃんとやらなければと緊張して眠れなくなるようなことはよくあるけれど、そういうときは、第3原則のMakiaマキアでやったみたいに、「私はストレスなしに仕事をうまく仕上げる」という風にクーと意識を合わせておけば、スケジュールなんか作らなくても、必要なときにはふと仕事がやりたくなって、それでちゃんと期日前に余裕で仕事が終わっていたりする。そういう経験を何度か積むと、もうあまり仕事を仕上げることに緊張しないで済むようになる。

それから、地球のサードアイチャクラであるモスクワのエネルギーに、モスクワの衛星画像からアクセスして、そのエネルギーを皆で受け取った。モスクワのエネルギーを受け取るのは、「多次元世界を意識で作る」というセミナーでもやったのだけれど、そのときよりも画像がはっきりと明るくなっているようだった。どうしてなのか知らないけれど、封印が解けてくると、画像まで違って見えてくるのだ。画像にも、土地のエネルギーの波動が出るらしい。前はもっと暗くて重い感じがしたのに、ずっと明るく見えていた。地面に無数の穴が開いていて、そこから白いきれいな光が出てきているかのように見えていた。

下の方から熱くなってくるような感覚がして、足から頭まで光の柱になったかのようだ。白い明るい光で、しかしとても柔らかく優しい光。このエネルギーがあるから、ロシアの人たちは、何があっても諦めないで進んでいけるのだということが、理屈ではなく体感としてわかった。それは、神とともに生きるというような感覚だ。神に従うのではなく、神に頼るのでもなく、神とともに生きている。軸をしっかりと立てて生きていく感覚。実際、こういう姿勢で生きていたら、何も恐れることはないし、神がついているとしか思えない力で、生きていくことができるだろう。

事実モスクワは、何度もさんざんな目に遭いながら、そのたびに復活してきたのだ。第二次世界大戦ではナチ化したドイツ軍がモスクワまで侵攻してきて、血みどろの市街戦が行われたのに、モスクワの人たちはものすごい勢いで戦って、ナチを撃退してしまった。ボルシェビキ革命でロシア帝国が滅ぼされたときも、ソ連崩壊で腐敗の街と化したときも、モスクワは必ずそこから復活して主権を取り返すのだ。その熱さ。それは、祖国愛というようなものを超えて、神とともに生きるというような、もっと大きなものとの信頼関係の中で生きるようなことだと言える。

このエネルギー、サードアイチャクラのエネルギーこそは、一人一人が自立して生きていく力、支配されないで生きていく力だ。もしこれが解放されたら、もはや世界からは支配のための戦争は起こらなくなるだろう。まさにこの力があるからこそ、ロシアは過去200年ほど、これほどまでに封じ込められてきたのだろう。それというのも、もしこの力が解放されてしまったら、支配して搾取することができなくなってしまうからだ。この力があれば、人をお金や所有や脅しのような、物質的なもので支配することはできなくなる。まさにそれが、過去200年間、金融資本が世界中を支配してきた力だったのだから。

それで最後に、このモスクワのエネルギーを、世界中の人々に送って、そうした力が本当は誰にでもあるということに気づけるようにすることにした。モスクワのエネルギーにまたアクセスして、そのエネルギーを光の玉に入れ、世界中の人たちに送る。すると、次々と人々が白い光の柱のようになって、それが巨人のような大きさになった。そうやって、世界中が白い光で満たされていった。

まるで、モスクワから風穴が開いて、白い光が湧き出してきて、それが世界中に穴を開けてしまったかのようだった。地球の中が、白い光で白熱しているようで、地殻に穴が開くと、そこからその光が地上に溢れてくる。この地殻のような殻のようなものが、これまでこの光を遮って、地上を暗くしていたようだ。本当は、地球上に生きるとは、ずっと豊かで楽しくて幸せなことだったのに、私たちはまるで奴隷のようにいつも外の基準に従わされて生きてきたのだ。

しかし、もうすでにこれだけ風穴が開いて光が外に湧き出してしまったのだから、この流れはもう止めることができないだろう。地の時代から風の時代に移行するとは、このことだったのだ。もはや物質的なものに支配されることなく、誰もが神とともに生きていくので、支配も戦争も争いもなく、大きな調和の中で生きていくようになり、それが実は私たち人間にとって当たり前の自然な状態だったことを、皆が思い出すようになるのだろう。


モスクワの衛星画像


カウアイ島のワイアレアレ山 ー グラウンディングに使った写真


第7回 Pono(希望) 可能性は無限にある

Posted by Chihiro Sato-Schuh on Monday, March 25, 2024



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