「身体くん」が教えてくれたこと

私は、がんばった分(意識的にしろ無意識的にしろ)が身体に素直に表れるとこがあって(みんな誰しも大なり小なりあるよね)、最近知らず知らずのうちにその「身体くん」(外在化!!)が悲鳴を上げていたようで・・・

子どもの頃から、その「身体くん」とは付き合ってきたつもりだったけれど、ずっとどこかで否定してた。

痛くならないでよ、今はおとなしくしててよって。

そして、その痛みの背後には、自分に過剰に課している禁止令の縛りがたくさんあったのだ。

それらには、色々な傷つき体験と、自己葛藤と、その度の洞察と、カウンセリングや心理学などの学びと、そして果てない自己探求の旅を通して、少しずつ折り合いをつけていき・・・

そうやって20代までなんとか生き延びてきて、気がつけば馬力が付き、あまりその「身体くん」の声を聴くこともせず、大人しくしてくれていたことを好都合に、自分と「身体くん」との付き合い方も心に留めることが減っていった。

そして、最近ついにその「身体くん」が「お~~い!!」と少しずつ声を出し始め、先日は身体の違和感など自覚もないまま、突如状態が悪化した。

悪化して初めて気付くことがある。

あ~私はまだまだ自分をないがしろにしてきたな。鞭を打てば走れるだろうって、まだまだだから走りなっせって。自分の身体のことは二の次にしてしまっていたんだな。失って初めて気付く。

悪化した自分の「身体くん」が教えてくれた。

自分の身体って、確かにここにあったんだな。

食べ物、自分をいたわっていたかな。量は?食べ方は?食材は?食事も、睡眠も、運動も、自分のためにいたわりながらできていたかな。

それよりも、なんだかずっと求めてきたんだなって。もしかしたら、自分の声に耳を澄ませることよりも、やらなきゃならないことに追われていたのかなって。私は、ちゃんと「私」を見てあげられていたかな。私の身体を気遣ってあげられていたかな。このいつも頑張ってくれている「身体くん」をちゃんといたわってあげられていただろうか。

「自分」を大事にしてあげられるのは、「自分」なのに。「自分」の声を聴いてあげられるのも、「自分」なのに。その大事さを痛いほど実感しているつもりだったのに、私はまだまだ「自分」のことになると、鈍感だった。

「身体くん」の声を聴いてあげること

この「身体くん」の声を心底聴いてあげると、気付いたことがあった。

あ~自分を大事にする感覚って、こんなに優しいんだ~。

食べることも、「身体くん」に負担をかけないように身体に優しいものを優しく調理して、優しく食べること。

ずっと大好きなヨガも、もっと大事にしたい。自分の内の声、身体の状態に目を向けて、「そうなんだね」って自分で自分を受け入れてあげるように、それを日常にしていきたい。そして、健康で自然体な身体を作っていきたい。

私は、ナチュラルに生きていきたい。

服もコスメもメイクの仕方も、自分の身体に取り入れるものも、自分の身体が心地よいと感じるものを選んでいきたい。

そこにあるのは、あ、なんだか優しいな~って、そんな感覚だった。自分に優しくあろうとすると、自分が好きなものやこと、自分がなりたいイメージや大事にしたいもの、心地よいと感じるものがだんだん見えてくる。そんな感じが優しいし、心地いい。これでいいんだな。気付けて、よかったね。

歳を重ねること

ちょっと余談かもしれないが、私は大人になったら、歳を重ねたら、どんどん強くなれると思ってた。

でも実際は、強くなるどころか、自分の弱いところとか癖みたいなところがより顕著になる。

自分というものに向き合うことになる。

がむしゃらに外に求めてきた時代から、今度は自分の内へ。

自分の身体と心に向き合う。

そうやって、歳を重ねていくんだと思う。

人間の成長は、発達とは、決して漸次強くなることではない。

弱さも欠点も苦手なことも、それも自分だと、そこと向き合って、認めて、自分を確立して、統合していく過程なんだと今改めて感じる。

私は、今回、自分の色々な面が弱くなって、失ったものもあって、また、自分の存在感や輪郭が見えてきた。

「自分」と付き合っていくこと、また違うステージから意識できた。

本当はどうなりたいのか、どうありたいのか、そんなことも考える。

それは自分で自分を大事にするってこと。

何かを手放したり、諦めることもある。それもひとつひとつ認めながら。でもなんだかね、優しい感じ。痛みと向き合うこともあるけど。それも大事。意味のないことはない。

弱くたっていい

弱くたっていい。弱くても、それすら味になる。生かせばいい。

その分、人の痛みがわかるだろう。優しくなれるだろう。そんなマインドで過ごせたほうが幸せじゃないかな。

強いスーパーマンのような人になって、何がしたいんだ?そうなりたいのかな、本当に?

人の個性にいいも悪いもない。本当は、強いも弱いもない。

いいんだった、ありのままで。私の大好きな言葉。救われる言葉。

私は縁あって、カウンセラーという天職をさせていただいているけれど、いつもその場に全力で向き合っているけれど、いつも胸の中にあるのは、どんなカウンセラーでいたいかということ、もっと前提にどんな人でありたいか、ということ。

カウンセラーといっても、人それぞれ、理論も違えば技法も違う。十人十色。

でも、私が大事にしたいのは、人間性という根幹なんだ。人は人に癒されると思っている。私がそうであったように。私は自分の体験や経験を通して、人とのふれあいやかかわりを通して、自分が感じたこと、大事だなって信じていることを信念に、このお仕事を大事にしている。(あ、話がそれてきたな。)

要は、弱くたっていいってこと。それだけ人の痛みがわかるから。そこから生まれることも、ちゃんとあるから。

今日、内視鏡検査を待つ間、検査室で読んだ心理臨床の雑誌の巻頭特集にもそんなことが書いてあって、すごく自分とリンクした。自分の体験が生きるってこと、共感する要素が増えるってこと、わかる・わかっていくってこと。

(でも、カウンセラーは、ちゃんと訓練やトレーニングを積んでいるので、境界など心配されるようなことはありません。また、感情論だけではなく、しっかりと技法や理論を駆使しています。)

ケアすることとされること

そして、痛くて弱くなったときに、ケアされる時のあの感じ。

じ~ん。弱った自分に、ただ目を向けてくれる、助けてもらえる、和らげてもらえる、何が起きているのかわかろうとしてくれる、あの空間。本当にありがたかった。自分がここに、いたわってもらえる存在として存在していいんだって、自分の存在感があたたかく感じられました。

ケアされることを通して、ケアされるということのありがたさを改めて感じて。そして、自分がケアする側に回った時、私は、「私がどうケアされたいか」を軸に、ケアされるだけで関心を寄せてもらえるだけで癒されたり、大丈夫と思える、そんなかかわりを大事にしていきたいと思いました。

ケアは循環的なものだと思っています。

してもらったこと、感じたことを基盤に、私は、私にできることを。

循環していくはずだから。

「身体くん」と付き合っていくこと

またここから、新たな付き合い方で「身体くん」と向き合っていくことになります。

でもなんだか嫌じゃない。昔のような、「自分なのに敵」って感じはない。

あ~私はこうなのね~、こうなるのね~、じゃあこうしてあげたいね~って感覚で、自分をケアしたいと思えてる。

こうやって、弱さや痛みを通して、新たな自分に出会える。弱さや痛みと共にあるからこそ、見えてくるもの。なりたい自分。感じられること。

自分らしく紡いでいきたいと思います。

(仕事は、マイペースに継続していきます!ご心配なく~(*^^*))


読んで下さってありがとうございました。

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