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名も知らぬ貴方からの花について

 その日は雪が降った翌日で、車に乗り込もうとした時にどこからか石油ストーブのような香りがした気がした。そんなものが隣の家で例え焚かれていようがここまで香るはずがなく、きっと僕の頭の中の幻匂のようなものだったに違いない。

 姉の出産はそこそこに大変だったらしく、母曰く3日かかったらしい。実際に姉はやかましい口調で痛かっただの辛かっただの、ほんとにそんなに痛かったのだろうかと疑うくらいには大袈裟な文句を垂れていた。それでも、子を抱く母親の顔というのは弟の僕から見ても親族とは思えない新鮮さのようなものがあって、(そう、その感覚は新鮮さだと思うのだけれど、)それでいてどこか懐かしいような気分にさせる、幸せな顔をしていたのだった。

「この花、何?」
 姉の病室には出産当日にも関わらず、目を惹く大きな鉢植え入りの祝い花が置いてあった。ガーベラや薔薇や他にも名前の知らない花が、黄色、ピンク、オレンジと女性らしい彩色で、小綺麗な病室の中で我が物顔をして並んでいた。
「頂いたのよ。お婆ちゃんのお隣さん。飯田さんて人。」
 ああ、あの人ね、とはならなかった。祖母こそ帰省の折に訪ねることがあるものの、お隣さんの存在など知らなかった。
 そして、それは姉も同じようだった。
「この人、確か萌の時にもお花くれた人でしょう?あと、退院の日にケーキもくれた?」
「そう、その人。今回もケーキ用意するって言ってたわ。」

 萌は姉の一人目の子供だ。もう3年も前になるが、3年しか経ってない。花とケーキの心遣いを貰っておいて、その送り主を忘れてしまえるかというと微妙な年月だ。少なくとも姉はその苗字に聞き覚えがあったようだが、どんな人なのかはまでは分かっていないようだった。
「内祝いした方が良いよね。萌の時は何返したんだっけ…。」
 姉は果たして飯田さんの名前は知っているのだろうか。飯田さんの顔。飯田さんの背丈。飯田さんの好きな食べ物。飯田さんの家族構成。きっと一切が記憶からは抜けてしまっているだろう。そもそも飯田さんとは男性か?女性なのか?もともと記憶に無かった、ということもあり得るだろう。

「子どもはいるの、この人」
 僕が煙草でも吸おうと部屋を出る時には、背後でそんな声が聞こえた。
 姉が出産した病院は、最近建て直しがされて過疎が進む市内では綺麗な部類に入るようなものだった。そして当然院内は完全禁煙で、真っ白な壁は成る程、いつまでも真っ白なままだ。多分3年前と幾分変わらないような色のままだ。それでも時間が経過していることを示すように、屋外に設置された粗末な灰皿は、そこだけ寂れた田舎の様子に相応の雰囲気を醸し出していた。
 目の前には建て直しとともに整備された広い駐車場が見える。僕はポケットから煙草の箱(くそ、もう無くなりそうだ、)を取り出すと、わざとゆっくりとした動作で火を着けた。煙草を持つ右手の指先が、心なしか少し暖かい。誰もいない喫煙所は、やはり院内からは異物のように排斥されているような感じがして、僕の心地を良くさせていた。病室は、何となく僕にはむず痒いような、目の荒い毛糸のセーターをそのまま着せられたような、そういう違和感があった。肺は薬には決してならない煙で満たされる。鼻から喉を通る匂い、薬指と中指で挟んだそれが、生き物のように身体に入ってくるような感覚になる。煙草はため息のようだ。息を吐くと寒さで吐く色とは違う、目の前を漂うような靄が生まれてすぐ消えた。
「お前、今日くらいは禁煙しといた方がええんじゃないか」
 不意に声を掛けて来たのは、父方の祖母だった。
「いつ着いた?」
「今朝。おばあちゃんも来とったんか」
「ひ孫の顔は見たい思うのが普通だわ」
 祖母はそう言うと、呼吸をするような速さで煙草に火を着けて、燻らせ始めた。
「禁煙した方がいいんじゃないんか」
「私はええの」
 めちゃくちゃだ。この人はもう八十歳後半にでもなるだろう、それでも髪の毛はしっかりと黒く染めているせいもあってもっと若く見えた。胃がんをやって手術してから、めっきり食が細くなっていた祖母は女性にありがちな太り方をする訳でもなかった。土日は太極拳とパターゴルフをするくらいには健康で、だからこそ煙草はずっと止めていなかった。

「あんたも、もう結婚するんか」
「まだ、だと思う。仕事もどうするかわからんし」
「そうか」
 祖母は、二本目の煙草に火を着けようとしていた。この人は、僕が初めての男の孫だと、随分可愛がってくれたように思う。その祖母が口数が少ないことは珍しく、寒さに冷えてか少し色の悪い横顔を見た。
「何か、あったんか」
「いや。…何もない」
 何かあったような口ぶりだった。でも、何も言わない祖母が本当に珍しく、僕は声を掛けることも憚られる気持ちで、でもそこから逃げることも何となくできず、二本目の煙草(まずい、もうない、)に火を着けた。
 僕は、この人に随分と可愛がられていた。可愛がられていたが、あまりにもこの人のことを知らなかった。家族のことを能動的に知ろうとすることなど、あまり無いことではあると思うが、僕はただただ甘い愛情を受け取るだけで、その愛情をくれる人の中身を知らなかった。
 それに気付いて、恐い、と思った。道端に落ちていた、綺麗なケーキを、何の疑いもせず食べていたのではと、そういう感覚だ。
 思うに、きっとそういうことが世の中には蔓延しているのだ。
 僕の知らない量の感情や、歴史が人の中には溜まりに溜まっていて、溢れて出ていくことがたまにあって、でもそれは目に見えない砂や埃のようなもので。敵意や哀しみみたいに、自分に向けられた時にだけ目に入って痛むのだ。
 時折、思い出したように祈った両手の爪の先にそれが見えて、後悔する。全てはいつか終わるのに、どうしてそんな感情だけを露出してしまうのだろうかと。もっと伝えないと、(伝えてくれないと)いけないことは沢山あるはずなのに、もっと覚えていなといけないこともあるはずなのに、僕は忘れ、繰り返し、そして後悔した先から美味しいケーキを食べてしまう。

「男のあんたに言うのもどうかと思うけど」
「うん」
 ぼんやりとしていた時に話しかけられ、僕はそれを何となく隠したくて、まだ少し残っていた煙草の火を消した。
「心配だったんよ。お姉ちゃんの、今回の出産が。」
 ああ、と呟く。風が寒かった。
「色々あるんよ、こういう時には。」
 祖母も煙草の火を消した。その火と一緒に、山ほどある言葉も揉み消してしまったようだった。
「あんたも、お母さんに感謝せんといかんよ。」
 歳に似合わないような笑い方を、この人は時々する。その理由を僕は知らない。先に部屋に行ってるわ、と祖母は言って喫煙所を後にした。
 昨日降った雪が、晴れた空の下、駐車場の上では徐々に溶けていっていた。雪が溶ける時に、その白さはどこに行くのだろうか。その言葉が刻まれた指輪を無くしたのはいつだったか忘れたけれど、僕はその言葉が好きで堪らなかった。
 先程、祖母の口から出てこなかった沢山の言葉は、どこに行くのだろうか。日記にでも綴られるのだろうか。手紙だろうか。死んだ祖父の墓前だろうか。すでに、祖父が全部聴いていて、どこかこの世とは次元が違う部分まで、持っていってしまっているのだろうか。そんな無意味な夢想が続いた。人間機械論が正しいかどうかは知らないけれど、ほんとにそうだとして、そうだとするなら、僕の脳はきっと不良品で、いっそのこと人間に終わりがあることなんて気付かなければもっと優しく(当然、自分に、だ)生きてこられたんじゃないかと思ったのだ。

 中に戻ろう。手紙を、祖母に書こうと、そう決めた。昨日の仕事の愚痴をメールしてきていた彼女に、慰めの言葉をかけようと決めた。姉には、お疲れ様と言おうと思う。母には、ありがとうの変わりに、花を送ろう。そう考えが浮かんでは消えた。僕の中の雪解けはまだ先のようで、故郷の冷えた空気が、まるで頬を刺すようだった。


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