見出し画像

「自己犠牲の払い方」を間違える私たち。仕事編

とにかく今一番言いたいのは、
仕事において「自分の代わり」は間違いなく存在するからこそ
「自分さえ頑張れば/我慢すれば」は、いずれ誰かにそっくりそのまま引き継がなければならなくなるということ。
一番言いたいことなので先に書いておく。

私には同じチームで働く後輩の女の子が1人と、さらにその後輩の男の子がいる。

ある日、女の子の方に任せている仕事で、うまく他部署と連携できなかったことがあり、それは自分では回避できないことだった。(つまり仕事仲間に改善策をお願いしなければならない)
けれどその子は、無理やり自分が犠牲(確実性が低く時間的コストが高い)を払うことで今後の策を立てようとしたのだ。

とっさにこれはまずいにおいがするぞと思って、それをやめさせ、
他部署のリーダーと私もいれて3人で状況の整理と、それぞれがやるべきことについて話し合う場を設けることにした。

こういう、「私がやり方を変えれば」的な行動をとる人って案外いるんではないかと、その日から考えている。
残念ながらこれって全く機能しないか、過ちになる確率が高すぎる。

どうしてそのような行動をとるのか、ポイントは「自己犠牲感」にあると思う。
「私が」頑張れば。誰にも迷惑はかからない。
相手にお願い事をするのも気が引けるし、「私が」やり方を工夫すれば…。

その場では最小限の摩擦で解決できたように思えるこれが、いずれ大きな落とし穴に化ける。

仕事は「私」の代わりが間違いなく存在して
その女の子も最近は仕事の一部をもう一人の男の子の後輩に引き渡し始めたところだし
「このやり方でやってね」と言われたら後輩はとても素直に真似をする。

会社にいて、いずれ誰かに渡す仕事しかない私たちに「自己犠牲」といって「自己」だけで完結できるものはとても少ない。
だからいつかは「私が」という犠牲も含めて、丸ごと後輩に渡すことになってしまう。

たちまち、尊いはずだった「犠牲」は「未来へのしわ寄せ」に姿を変える。

それって本当にしたかったことか?と問えば、そうじゃない!と答える子がほとんどで
優しさや、気遣いや、心の負担・衝突を避けたかったがためのこの場に
残念な結果を連れてきそうなにおいがした。すごく馴染みのあるにおいだった。


どんな仕事も「後輩のためになるか」を考え選択するのが、間違いを減らす方法じゃないでしょうか。まだ見ぬ後輩でもいいし、別に後輩じゃなくてもいいんですが。
要は主語を「私」にしないということです。

誰か「自分以外の人が苦労する」ことと
今、「自分が誰かに何かを要求する」こと

どちらの方が心の負担が少ないと感じるか。自分も後輩も、両方救える策を今取る方がよっぽど良いですよね。芽が小さいうちに。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?