プロフィール(1)

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はじめまして。千穂子です。
元ソーシャルワーカーで、子どもとの遊びの中で絵を描くことの楽しさに目覚め、アートセラピストとして活動を始めました。子育てを通しての気づき、自分らしく世界と共存していくことなども綴っていきたいと思います。

自己紹介って、目の前に誰かがいて共通点があったらそれを話したりもするけれど、特に誰に対してというのが定まっていない時、どんな人に向けて何をどこから話したら良いのか悩みます。
という訳でプロフィールを書くのに苦戦していた私ですが、あるプロジェクトに参加して自由に書いてみた自己紹介を採用することにしました。
自由に書き始めたら、自伝的小説風のすごく長文な自己紹介になってしまいました。ちょっと照れくさいですが…、お読みいただけたら嬉しいです。

☆☆☆☆☆☆☆

小さい頃の記憶は、どこからが親に聞いた記憶で、どこまでが自分で覚えていることなのか、あいまいなところもあるけど。覚えているのは、3歳になって幼稚園に入った頃、幼稚園でよく泣いていたこと。

3月生まれだったのもあって、幼稚園でお絵かきを描くのが遅くて、他のお友達が「代わりに描いてあげる!」といって私の画用紙にチャチャっとお絵かきして、「先生できたよー!」と代わりに提出してしまったこと。
それが嫌だったけど、先生にも親にもイヤだったと言えなかったこと。
幼稚園のオルガンのあるお部屋で遊んでいたら、帰りのバスに乗りそびれ、親が幼稚園に迎えに来たことが、何回かあったこと。そんなに怒られた記憶もないけど、自分がいないことに気づかれなかったことが悲しかった記憶がある。この時も、親にも先生にもイヤだったと言えなかった。
なんだかイヤな出来事ばかりだけど。苦笑

遠足や運動会や、お砂場で遊んだり、年長さんの頃かな?お勉強の時間もあったり、という記憶もあるんだけど、3月生まれに加えてマイペースな子だったので、いつも、お友達の動きについていかなきゃ、という感じで、あまり楽しかった記憶がない。

親になって思ったことは、私が通っていたのは大人数の幼稚園だったようで、私には合わなかったんだと思う。
余談だけど娘の幼稚園はアットホームで自然派で園の方針に共感できる幼稚園を選び、娘も楽しそうに通ってくれていて、私の中の子どもも癒されている気がする。

小学校、中学校も、あまり好きじゃなかった。最近、HSC(人いちばい繊細な子ども)という概念が出てきていて。私はそれに該当していると思うのだけど、それもあってか、子どもの頃は気が合う友達がいなかった。

小学校1年生の頃、たぶんまだ学校に通い始めて間もない頃、鉄棒で遊んでいたら、「この子面白いから」と何人かが私のことをからかいに来たことがあった。
私は(あまり反応しないでいたら、つまらなくなって去っていくはず)と思って、できるだけ何にも反応しないようにした。そうしたら思った通り、その子たちは私のことをからかいに来なくなった。

それから当時の小学校では、帰りの会で、先生がその日に良いことをした生徒にご褒美カードを渡すことになっており、「帰りの支度が早かった子」など何かをするのが早いことに対して褒められることが多かった。
私は何をするにも遅くて、ご褒美カードをもらえたことは一度もなかった。食べるのも遅くて、給食を食べ終わらず、昼休みも、ひどい時は掃除の時間まで、ひとりで給食を食べさせられることもあったくらいだ。
「早いこと」が毎日毎日繰り返し褒められ、いつも同じ子がご褒美カードをもらえることに疑問を感じるようになった。(もっといろんな子がご褒美カードをもらえるように、もっといろんなことを褒めてくれたら良いのに)と思っていた。

もっといろんなことを褒めてあげたら、という件については今もそう思っている。
運動会で順位をつけるのが良くないとか言ってないで、足が速くて一番になった子には「速かったね」と褒める、本当は運動会を休みたいくらい運動が苦手なのに休まず参加した子には参加したことを褒める、行動が遅い子には最後まで頑張ったことを褒める、協調性がある子や独創性がある子もそれを褒めるなど、いろんな子のいろんな部分に注目して褒めてあげたら良いのに、と思う。
多様性を認めるってそういうところから子どもたちに伝わっていくんじゃないだろうか、と思う。ちょっと脱線してしまったけど。

なんだかイヤな想い出ばかり続いてしまったので、良かったことも書こう。

小学生高学年の頃、シチュエーションは詳しく覚えていないのだが、そろばんの先生が「ちょっと変わった子の方が大きくなって社会で活躍したりするのよー」と言ってくれたことがあり、私のことをそのまま認めてくれていると感じて、嬉しかった記憶がある。

中学の頃は部活で仲の良い友人が何人かいたが、なぜか部活の友人とは同じクラスにならなかった。親が厳しくてお小遣いが少なかったり、お小遣いがもっと必要な時に親に相談できなかったり、私が受け身で自分から誰かを誘ったり積極的に話に入っていったりしなかったので、休日に友人と遊ぶことはあまりなかった。
周りの友人は夏休みに約束してお祭りに行ったりしていたけど、なんとなくそういう輪には入れずにいた。ちょっと寂しい気持ちもありつつ、ひとりで本を読んだり空想にふけったりするのも好きだったので、まぁいいか、という気持ちもあったように思う。

中学3年生の時、連絡帳を使ってクラスの全生徒と交換日記のようなことをしてくれていた先生がいた。社会の先生で、野球の阪神の大ファンで、阪神が勝つと元気で、阪神が負けると少し落ち込む、という、かわいいところのある男の先生で、私はその先生のことが好きだった。小学校、中学校を通して、好きだった先生はその先生ひとりではないかと思う。

中学生の頃はできるだけ目立ちたくなくて、目立たないように気をつけていたのだけど、中学3年生の音楽祭で合唱の指揮者に推薦され、指揮を担当することになった。
特に積極性を発揮する訳でもなく目の前のことに淡々と取り組むおとなしい私だったのに、なんで?と思った時に思い当たったのは、ピアノを習っていたからか、私の近くで歌うと歌いやすいと言われていたくらい。
でもそんな私のことをみんなが認めてくれたことは嬉しかった。
ただ、いきなり指揮って言われても何をどうしたら良いのかよく分からず、それを先生にも親にも同級生にも相談できず、テレビの音楽番組でオーケストラの指揮者を見て、そうかあんな風に指揮をすると良いのか、とひとりで練習していたのが、今思うと残念だった。
もしタイムマシンでその頃に戻れるなら、周りの人に相談して良いんだよ、と中学生の自分に行ってあげたい。
でも中には「指揮うまくなったね、練習したの?」と言ってくれる子もいて、ちゃんと見てくれる人がいるんだな、と嬉しく思ったのも覚えている。

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長くなってきたので、何回かに分けることにします。
長文にもかかわらず最後までお読みいただいた方、ありがとうございます。

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