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2つのいいこと/言葉の感度:「言葉にすると純度を失う」という考え方について

(2023/11/28)

13時ちょっと前。
今日は、昼過ぎまでに、すでに2つのいいことがあったので紹介する。

①両親:カルボナーラを箸で食べる

今日のお昼ご飯は、母がカルボナーラを作ってくれた。
母が盛り付けている間に、「じゃあフォーク取るね〜」と、私は食器棚の引き出しを開けた。
カトラリーがぐしゃっと入っているスペースに手を入れて、フォークを1本取った。「ガチャガチャガチャ」あー、いつもより音が大きく響くな、今日は。
2本目を取る。「カチャッ」
3本目を取る。「キーン」
ああこれは、今日は食事の音もきついぞ、と思って、父と母に「今日ちょっと音が響くかも。きついときは別の部屋で食べるね。私は箸で食べよーっと」と伝える。
そうしたら、母が「じゃ、協力するよ、ママも箸で食べる。」と言ってくれた。父も「あーそれもいいかも、箸にしよう。」と。
「えっ、ありがとう。」瞬間的に口に出た。
反射で「ありがとう」が出る瞬間って、なんかとても素敵だ。反射で「すみません」は時々やっちゃうけど、あれはなんとなく嫌な習慣だ。

ともかくそれで、今日は3人で、カルボナーラを箸で食べた。笹と竹の違いについて会話をしながら。
そういえば、食器の音は全く響かなかったな。

②転職エージェントのAさん

今日は午前中に、転職エージェントのAさん(仮名)とお話をした。

私はいま、結構な確度で転職をしようと考えていて、週3〜週4(週3が理想)で勤務できるところを探している。
よくCMが流れるような転職サイトに登録すると、転職エージェントや企業から(主にエージェントから)「ぜひ一度面談を」みたいなメッセージがいくつも来た。
最初の2回は、その中で、なんとなく印象がいい人と話してみたけれど、やっぱり週3〜週4の勤務となると、(法律職の)求人はほとんどないようで、私の希望に沿った求人は紹介してもらえなかった。

それで、じゃあこっちから絞りをかけよう、と思い、「こんな条件で考えていますが、探していただけそうでしょうか?」と6社くらいに返信した。そうしたら、3社くらいが返信をくれて、その中でAさんは「週5採用の依頼がある企業でも、もしかするとその条件での採用を検討してもらえるケースがあるかも」みたいなメッセージをくれた。
なんかとても嬉しくなって、「ぜひお願いします!」となったわけです。(ちなみに、返信をくれた残りの2社は、「一度面談しましょう」しか言ってくれなくて、ああこれは会話ではないよ、と、大変がっくりした。)

それで、話は戻って、今日の午前中、Aさんから電話をもらって、色々話したけど、その話し方とか話す内容は、文章から感じた印象とやっぱり一致した。
軽快で、信頼できる感じ?ちゃんと私の話を聞いてくれてるなーと、そんな感じ。
テキストでの会話が「あーなんか心地いいな、噛み合うな」と感じる人は、喋っても会っても、しっくりくる/合うことが多い。というか、合わせられる/合わせてくれる。だから、このへんの感覚は信じた方がいい。ほんとうに。
私は結構、自分の「人を見る目」を信用していて、でもそれはきっと、自分の「心地いいなー」とか「なんか、いずいなあ(方言)」みたいな感覚に従って行動しているのがいいんだと思う。

Aさんは、私が、大学生になってからここまでしてきた選択の理由について、よく聞いてくれて、現状もわりと正確に把握してくれたと思う。

それで、私の条件も感覚的に妥当だと思うと言ってくれて、「じゃあこんな感じで企業に説明して、こんな風に進めるのはどうですか?」って十分すぎるほど確認してくれた。

ふわ〜なんか、やっと、動いてくれそうな人ができて嬉しいな。

多分私の条件だと、やっぱり週5勤務の人に比べて年収も下がるし、うまみが少ない案件だと思うのだけど、
私の周りに転職を検討している人がいたら、ぜひAさんを紹介しよう〜って思える人だった。

転職日記、続く。

・言葉の感度:「言葉にすると純度を失う」という考え方について

私が大学2年生か3年生くらいのとき、仲の良い友達が、「言葉にすると純度を失う」という言葉をストーリーに載せていた。
たしか、この言葉が書かれた本のページを載せて、「それな〜」みたいな文字が書かれていたと思う。
私は、この言葉を見て、一回少し考えて、それからひどく共感した。

高校生の頃、本当にたくさんの「言葉にすると純度を失う」経験をしてきた。
特にそれは、何かの感想であるとか、誰かについて話すとか、夢を語るとか、そういう時に起こった。

ひどく感動して、ぜひみんなに観てもらいたいと思った映画を「こういうストーリーでね、ほんと面白かった/泣けた」と表現してしまったとき。大好きな友達を「可愛くて明るい/面白い」と表現してしまったとき。
あーもう全然伝わらない。1ミリも伝わらない。でも、あの映画を見た時のとっても素敵なあの感情を、大好きな友達といる時のあの高揚を、なんて表現したら良いんだろう。

将来について「こうしたい/こうなりたい」と語ったときも同じような感じだ。
自分ではとっても良いと思っているのに、求めている反応がないと/伝わらないと/ハテナ、という顔をされると、納得感のない言葉選びしかできない自分が本当に嫌になった。
なんだか自分のアイディアがひどく貧しいものに思えて、さっきまでクルクル回転していたモチベーションが、ずっしりと重くなっていくのを感じた。

なんの具体性もない、ありきたりな、想像を促さない評価/言葉に、モヤモヤとして、体に蝋でも塗ったくられたような/体がひどくむくんでいるときのような、動きづらさを感じた。それで、自分の発した的を射ない発言に、自分の中に濃くあった感情が薄まってしまう気がして/自分の流動的な感情が逃げていくのが怖くて、「的確に表現ができないのなら、自分の中の感情が薄まってしまうのなら、もう語ることをやめよう」と決めてしまった。
そんな風にして、いくつもの言葉に鎖を巻いて、高校を卒業するまで、決して口は出さなかった。

今思うと、言葉が(硬直的に)行動をしばること、言葉の広さ/曖昧さ/伝わらなさ、言葉が持つ経験/不正確さ/違う印象を与えてしまうことが、嫌だったんだろうと思う。

心惹かれた経験も、志望校も、好きな人も、まだモヤモヤしているうちは、安心できるまで/固定化されるまでは、決して誰にも言わなかった。
ちなみに、高校に入学するときに、高校3年間は友達の悪口を決して言わないと決めて、しっかりその約束を守ったのだが、それも同じようなルーツを持つのかもしれない。

今は当時に比べて、色んなものを感じるようになった。
言葉の鋭さ・重さ・強さ・やわらかさ・ゆるさ・あたたかさ、みたいな。
きっと、そんなニュアンスがあることを、使い分けられることを、知らなくて/言語化できていなくて、それで、会話の中で自分の言葉になんとなく違和感があったり、友達の言葉に(きっとその人が意識しているのとは)違ったニュアンスを感じたりして、それで辛くなってしまっていたんだろう。

他の要因もたくさんあるのだろうけど、高校時代は本当にきつかった。
主に、人間関係がかなり辛かった。会話にたくさんの問題を抱えているのだから、またそうだよな、と今は思う。とても仲のいい数名の友人を除いては、基本的に、できれば会いたくなかったし、喋りたくなかった。

でも私は「明るくて楽しい子」みたいな印象を持たれたがるので(これは今も変わらない)「楽しいね〜」なんて、わざわざガチャガチャ振る舞うこともあった。

当時、それでも頑張って人付き合いをしてよかったな、と思うのは、数人(ほんとうに数人)、自分の内面をさらけ出せる友達が出来たことかなー。
他人に否定された話だとか、自分の中でまとまっていない悩みも話せるし、目の前で泣ける、みたいな友達。

大学の後半か、大学を卒業したあたりで、彼女たちに、ポツポツと「高校生のころ、人間関係で悩み散らかしていて、実はこんなに辛かった。」と話したことがある。
みんな驚いて、「全然分かんなかった、ふつうに楽しんでると思っていたし、なんなら一番楽しんでるくらいに思っていた」なんてことも言われた。
なんか、色々、考えるところがある、これは。

歳を重ねるごとに、かなりはっきりと、楽になっている実感がある。
それは、頻繁に、自分の特性、得意・苦手、好き・嫌いを言語化して、色んな概念・ルールの再構成をして、それで、できるだけ自分に負担をかけないように生きる方向を目指しているからなんだと思う。
知識のない/自分を知らないというのは、本当に怖いことだ。まあ、10年後は、また「あの頃は本当に分かっていなかった」とか言んだろうけど。
それでも、過去の自分を思うと「ああほんとに、よく生きてきたな、大きく間違わなくてよかったな、死ななくて良かったな」なんて思う。

それで、きっと未来の自分はもっと楽になる。
私は今が、けっこう楽しいというか、今までの中だったら一番楽しいなあって思える。

それで、今日思いついたのは、色んな言葉が嫌で、飲み込んで、鎖をかけて、決して自分の外に出さないようにしていたのは、もしかしたら、言葉の感覚が人よりも敏感だったからなのかもしれない、ということだ。

なんとなく、わあ自分は随分こだわりがあるなあって思うし、曖昧な/ポイントをつかない言葉は、気持ち悪いなあって思うから。(これは、私の読み取る力も必要なんだろうけど。)
自分の深い部分を知ること、物事の本質を見ること、そのためにはどうしても言葉が必要で、きっと、言葉の感度がいい人は、より自分を他人を世界を、正しく深く見ることができると思う。

まあそんな感じで、結局何が言いたいのか分からなくなってきたけど、最近、言葉を再構成すると試みをしていて、そういうことができるようになってくると、言葉にすることで、自分の精神は癒やされるんだなあと思っている。

最初に戻ると、「言葉にすると純度を失う」原因の一つは、言葉の感度に言葉の正確さが伴っていない/釣り合っていないことなんじゃないかと。今は、それが前よりもマシになったなあと、そう感じるというお話です。

はあ、なんだか今日の文章は独りよがりというか、自意識の高い文章になってしまった気がする。。。

まあでも、今日もしっかり4000字分癒やされた(はず)なので、今日はここまで〜!また明日〜!

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