限られた世界を生きている、という自覚
先週の土曜日にお手伝い&勉強のために市内のある会に出席した。
テーマは、昨年の7月に起こった西日本集中豪雨でのダム放流が正しかったのかどうか、もっと柔軟な対応はできなかったのかを、御用学者では無い先生たち(国土問題研究会)に解説してもらうというものだった。
解説についての詳しい内容については省略するけれど、心に残ったことが2つあったので忘れないように書き残しておきたい。
自分が生きている世界は、限られている
同じ市内でも、隣の町で開催されたということもあり、普段の生活でお会いしたことが無い人たちが沢山集まっていた。
多くは被災された方、そのご家族、問題に関心がある方。市外や県外から参加されている方もいた。
知らない方々が真剣に何かを聞き、怒っている様子をリアルで見て、自分が普段見えている景色・世界は本当に限られた世界の1部であることを再認識した。
twitterをはじめとしたSNSや、本などで他者の意見から何かを学ぶとは違う感覚だった。
日々、いろんな情報に触れていると、新聞・SNS・本・友人たちと話したことなどで、世界が構成されているような気がしてしまう。
だからこそ、常に枠をつくらずその外へ広大な世界が広がっていることを忘れないでおきたい。その上で、今の自分の居場所、やろうとしていることを理解していたい。
ルールは何のためにあるのか?
ダムは操作規則に従って、操作されている。今回の操作はその規則に従って操作されてはいたようだが、それが最適解では無かったようで、数名の命が奪われてしまった。
けれど、ダムを運用する側からすれば、規則を守っていることになる。
ルールは何のためにあるんだろう?
目的はルールを守ることではなくて、人の命を救うために作られたもののはずだ。
例外も起こるだろうし、ルールを守った上での最善策を考え続ける必要があると思う。
ルールができると、守るという目的以上の対応を考えずに思考停止してしまう可能性があること、ルールを運用する側(運用を監視する側)の姿勢が問われていることを改めて認識したのでした。
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