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#006 F1サーキットにて(3)サンマリノGP

 ミラノの駅に着いて、外に出ると、綿雪のような白いものが一面に舞っていた。

 駅まで迎えに来てくれていた知人のUさんに聞くと、ポプラの木々から飛んでくる花粉だという。

 車で、スザーラというマントヴァ近郊の町に向かう間も、その綿雪は舞い続けていた。


 スザーラの街からUさんが運転する車で約1時間半をかけて、毎日、サンマリノGPが開かれるイモラ・サーキットまで通った。

 4年後にアイルトン・セナが事故死するイモラ・サーキットを歩くと、その白い綿雪のようなものが風で飛ばされて固まり、鞠かなにかのように大きくなって、路面を転がっていく。

 マシンが吸い込んだりしても大丈夫なのだろうか?

 心配になったことを覚えている。

 このサーキットでは、前年の1989年に、ベルガーがタンブレロ・コーナーで壁に激突して炎上していたので、そのときも、こんな固まりを吸い込んだのではないかと思ったりしたものだ。

 タンブレロから有名なトサ・コーナーを回り、ピラテラ、アクアミネラリ、リヴァッツァへとコース上を歩いていくと、見上げる丘の上は予選前日の木曜日というのに、フェラーリの赤い旗で飾られた無数のテントが林立し、泊まり込みでやってきているファンで埋まっていた。(レース中、プレスルームで、テレビ画面の映像を見ただけで位置確認ができるように、まだマシンがコース上に出ることがない木曜日に、必ずコースを歩いて一周することにしていた。ドライバーたちも全員ではないが、三々午後、自転車にまたがったり、チームスタッグの運転するバイクに乗せてもらったりして、コースを下見していた)


 イモラは人口6万のイタリアの小都市。F1グランプリは1国1開催が決まりなので、既にモンツァ(イタリアGP)があるイタリアではF1は開催できない。そのため、近くにあるサンマリノ共和国の大会として開かれているのが、このサンマリノGPだった。

 それでは、そのサンマリノとはどういう国なのか? 見てみようということになって、車で行ってみることにした。

 イモラから、古代ローマの時代は軍用道路だったエミリア街道を東に向かうとアドリア海に面したリゾート地であるリミニの町に出る。”ヨーロッパのマイアミ”と呼ばれるまだ人気ないビーチで遊んでから、サンマリノに向かう。20分もしたころだろうか、平原の中にひとつぽつんと小高い山(ティターノ山)が現れた。それがサンマリノ共和国だった。

 どんどん向かっていくと、「古き自由の地へようこそ」と書かれた垂れ幕が道路上に高く架けられている。その下を通過すると、そこからがサンマリノ共和国の領土というわけだが、別に車が止められることはない。道は急な上り坂になり、海抜750mの山頂を目指して登っていくと、そこがサンマリノ市。人口は5,000人。なにしろ、国民の数が2万5,000人という世界でも5番目に小さな国の首都なのだ。


 フェラーリのテストコースがあるフィオラノにも行った。イモラからエミリア街道をサンマリノ方向とは逆に、ミラノを目指して走って約1時間でモデナの町に着く。そこから南西方向に15分ばかり行くと、緑に囲まれたフィオラノのテストコースが見えてくる。このときは、残念ながらF1マシンは走っておらず、赤いテスタロッサが1台、甲高い爆音をとどろかせているだけだった。

 すぐ隣(隣だが、地名上はマラネッロ)に、フェラーリのF1工場があったが、さすがに玄関のガラスドアを押して入っていく勇気は出なかった。向かいのフェラーリ博物館を見学して帰ってきた。いちばん記憶に残ったのは、赤いフェラーリではなく、黄色の288GOという車だった。赤いほうでは、24歳と言う若さで逝去したフェラーリの創業者エンツォ・フェラーリの一人息子アルフレッド・フェラーリ(愛称:ディーノ)が病床でアイデアを出したとされるフェラーリ初のV6エンジンを搭載したディーノ246GTS。名前にフェラーリが付かず、跳ね馬のエンブレムもない赤いその車にも、いつか乗ってみたい、いつか乗れる日が来るだろうか、と思ったものだ(結局、そんな日は来なかった)。このときは、翌年の1月に再びここに戻ってきて、チェザー・フィオリオ監督(その年の秋にはもう辞めてしまったけど)からお話をうかがい、ファクトリーの中を見せていただくことになるとは思っていなかった。