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競輪場の蕎麦じいちゃん

15年ほど前、友人が競輪選手をやっていたこともあり、ちょくちょく競輪場に足を運んでいた時期がある。あの殺伐として雰囲気は、ちょっと他では味わえない独特の趣がある。このレースを外したら終わりだ。そんな切羽詰まったおっちゃんたちが噛み締めた血の轍が、空気中の微粒子に重たい鉛をぶら下げている。

今思えばあの雰囲気に浸るために、足を運んでいたような気がする。その空気をつくっていたおっちゃんたちの動向に、俺はレースよりも熱い視線を泳がせていた。

とある年の冬。都内西にある某競輪場に俺はいた。冬の冷たい風が外れ車券を舞い上げて空中に散らし、一層の侘しさが辺りに降り注ぐ中、一人の老人の姿に釘付けになった。

明らかに、リズムが違う。老人の目はレースを追うことなく、辺りを睥睨するでもなく、ただひたすら彷徨っているのだ。まるで、空気中の微粒子にぶら下がった鉛に、ジャラジャラと身体をぶつけ合いながら歩みを進めているみたいだ。俺は、老人の後を引きづられるようについていくことにした。

いったいどこへ行くのか。ほどなくして老人は、場内の立ち食いスタンドに入った。そこは、蕎麦やおでんなどが売られている立ち食いスタンドである。店内の四隅にはテレビモニターが据えられており、レースが中継されていた。

やがて、レースは佳境に入った。ジャンが高らかに鳴り響き、逃げ選手の番手でマーク屋が激しくポジションを主張する。店内の客たちは、テレビモニターに熱視線を送ったまま、雄叫びをあげる。

「2−3、2−3、2−3!」そこに、ひと際激烈なる叫びをあげているサラリーマン風の男がいた。男は、蕎麦をすすりながらその目はモニターに吸い寄せられている。やがて、男は半身をモニターに向けますます激しい雄叫びをあげ始めた。目の前の蕎麦からは、おいてけぼりをくった哀しい湯気が立ち込めている。

そのときである。老人は、ポケットから薄汚れたマイ割り箸を取り出すと、サラリーマン風の男の前でおいてけぼりをくっている蕎麦を、やおらすすり出したのである。そのスピードたるや、今ままでの鈍い動きは何だったのだと言いたくなるほどの早業。

レースが終わり、落胆のため息とともに蕎麦に立ち戻るサラリーマン。しかし、蕎麦が食われて半分ほど減ったことなど一向に気づかない。つゆの表面には老人の唇から染み出した妙な油が浮いているのだが、車券を外した悔しさとともに飲みほすのであった。

ふと、辺りを見やると、老人はすでにいない。次の獲物を探して浮遊しているのだろうか。立ち食いスタンドは、何事もなかったように静まり返り、次のレースへの期待に空気が揺れ始まる。

人は、多様だ。何でもありだな。生きていくって素晴らしい。そんな感慨に胸を焦がした出来事であった。

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