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#045【放射線治療終了後50日経過】CT検査再び。生と死を受け止めながら一歩一歩を踏み出すということ。

2019年7月4日

今日はCT検査の日。放射線治療が終了して、あらかた副作用も収まって、ようやく治療の効果測定を行えるようになったので、実際に検査を行うために病院から紹介された都内のクリニックに向かう。

こじんまりとしたクリニックだけど、決して狭っ苦しさは感じない。待合室もソファを中心とした視線を低めに抑えたレイアウトで、なんだかちょっとセレブな感じ?なかなかオシャレな印象だ。

しかし残念ながら、全てをぶち壊しているのが待合室の中に掲げられた大画面でエンドレスに熱唱し続けている徳永英明のライブビデオ。なんで徳永英明?院長の趣味なのか?いや別にいいんだけど。


20年ぶりくらいに耳にした「壊れかけのレディオ」のサビが頭の中でぐるぐるとリフレインするのに閉口しつつ、名前を呼ばれてCT撮影室に向かう。CT撮影は以前も経験したことがある。あれだ、あの馬の浣腸みたいな人外サイズの注射をブチ込まれながら撮影されるアレだ。あの時の禍々しい記憶が頭をよぎるが、2回目ともなればさほどの恐怖は感じない。俺も成長したもんだ。

思えばマスクをかぶって放射線やら、抗ガン剤の点滴をなんどもやり直しされたりやら、理不尽な目には散々遭ってきた。馬の浣腸サイズの注射の一本や二本に今更うろたえる俺ではないぜ、癌サバイバー舐めんな。これで真実が見渡せるというのであれば、いくらでも受けて立とうじゃないか。

相変わらず注射をブチ込まれた際に身体がカッと熱くなるのには慣れないけれど、そんなこんなでつつがなく撮影終了。検査結果はいつもの病院に伝えられて、来週の木曜日の定期検診でお披露目だそうだ。


3回の抗ガン剤と35回の放射線治療を終えて、果たして本当に俺の癌細胞は消滅しているのか?少なくとも現在においてそれは誰にもわからない。

かつてしこりがあった場所、左の首元を丹念に弄っては見るけれど、今の段階では全くしこりは感じられない。治療が終わったばかりの頃はまだアーモンド大のしこりが残っていて、それが一体なんなのか、ひょっとしたら死に絶えた癌細胞の残滓なのか、あるいは取りきれなかった芯のようなものなのか、若干の不安を感じていたこともある。しかしいつの間にやらそのしこりも無くなっていって、気がつけば触れても何も感じなくなっていた。

癌という病気には終わりがないそうだ。もし今回の検査で癌細胞が認められず、少なくとも現時点では完全に消失していたとしても、少なくとも5年間は再発の恐れありで検査を継続していかなくてはいけない。
「寛解」という言葉は使われるけど「完治」という言葉は使われない。その間にどれだけの深くて暗い河が流れているのか俺に走るよしもないけれど、安易に治った!とぬか喜びしてはいけないだけの重みはきっとあるのかもしれない。


中咽頭がんの生存率は比較的良好で、国立がん研究センターのデータによると、俺と同じステージ2での5年生存率は79%ということだ。

確率にしておよそ80%。決して低い数字ではない。学年テストに例えればまあまあ優等生クラス。Aランクの数字といってもいいかもしれない。
しかし80%の生存率ということは、裏を返せば20%は生き延びることができずに死亡しているということだ。100人のうち20人。50人のうちの10人。俺と同じステージの同じ癌患者のうち、5人に1人は命を落としているということになる。俺が小学校の時のクラスが40人学級だったから、人数だけでみればあの中の8人は5年以内に死んでいることになる。生き延びる側の集団32人の中に俺が残る保証はどこにもない。そう考えたら決して安全な数字とは言えない気がする。

こんなことを考えてもくだらないし、なんの意味もないのもわかっている。そもそも人間なんていつ死ぬか誰にもわからないのだ。ひょっとして俺はこの癌ではなく明日交通事故で死ぬのかもしれないし、なんなら5分後に東京で大地震が発生して家ごと地層に飲み込まれてしまう可能性だってゼロとは言えない。考え出したらきりがない。

頭ではわかっているのだけれど、しかし気持ちの奥の方のどこかでやはり恐怖心は残っている。少なくとも癌になる前に比べて、死というものを自分にとってずっと身近なものとして捉えて考えるようになった。

人間はいつか死ぬ。そんなの当たり前のことだ。人間というのは生まれたその日から、己の中に死を常に内包しながら日々を生きていると言える。それを遠い未来の可能性の一つとして忘却の彼方に押し流して日々を過ごしていくのか、その現実を常に受け止めながら二度と戻らない日々をかけがえのないものとして生きていくのか。今の俺は間違いなく後者だ。癌に罹ってから毎日の大切さを嫌という程噛み締めて踏みしめて生きるようになった。

「癌に罹って良かったこと」なんて間違えても答えたくはないけれど、でもあえていうなら自分の「生」をこれだけ実感できるようになったことは、癌に罹ったからこそと言えるのかもしれない。


そんなこんなで死を内包しながら、そしてその裏返しにある生を実感しながら、俺たちは日々を生きている。そしてその死がどれだけ近づくのか、遠ざかるのか。ひょっとしたら来週の検査結果で明らかになるのかもしれないし、ならないのかもしれない。それでも何かの答えが出ることを信じて、期待して、明日を迎え、一歩一歩を踏み出していく。願わくば望んだ結果が得られますように。

美味しい食べ物とか、子供達へのおみやげとか、少しでもハッピーな気持ちで治療を受ける足しにできれば嬉しいです。