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どうして私たちは人を信じることができるのだろう


ある映画を観て、人は何をもってはなから人のことを信じるのかなと考えさせられた。人が信じているものは、案外脆くて確証などなくて間違いだらけなのではないか、と。

そして「怒り」というものは、「信じる」ということ、信じたうえで「期待する」ということがあるからこそ成り立つ感情なのかもしれないとも思う。
分かり合えなかった時に怒るのは、あの人ならきっと分かってくれると信じていたからだったりするし。

じゃあ「信じるために必要な要素」には、どのようなものがあるのかなと考えてみた。
1つ思い浮かんだのは、その人の「成り立ち」ということ。

漢字や熟語の成り立ち、地名の由来、自分が口にする食材がどのように育まれたものか、自分が身に付けるものがどのようにして生み出されたものか。それが気になる度合いも気になる要素も人によって様々だけれど、信じるベースになる部分は「成り立ち」にあるのではないかと私は思う。
肩書、所属場所、出身大学、経歴、、、指し示す言葉は違えど、みんなその人の「成り立ち」を知りたがっている気がする。それはその人を信じたいからなのかもしれない。

でも本人の口から語られる「成り立ち」はまるっきりウソの可能性もある。それなのに、なぜ私たちは基本として「その人はウソをついていない」という前提のもと、人と接し、会話をすることができるのだろう?その基本的に人を信じる姿勢はどのようにして育まれるのか、いや、育まれるわけじゃなくて遺伝子レベルで組み込まれているとかそういう話なのか、、?

「その人が自分が信じた通りの人間だった」と思える人に出会った数?自分が人から信じてもらった経験の積み重ね?

他者のことなど誰にもわからない、わからない中で何かをただ漠然と信じるその力はどのようにして形成されるものなのだろう?そしてその信じる力が崩れ去るには、どのくらい徹底的に裏切られる必要があるのだろう?



自分が歩いていれば、人は基本的に自分のことをよけて歩いてくれるだろう

赤信号になっていれば自動車は止まるだろう

電車は電光掲示板に表示された行き先に必ず向かうだろう

私たちは意識せずとも何かを必ず信じて、信じたうえでの想定に基づいて生きているのだと思う。いちいち信じようとか信じなきゃとか意識するまでもなく信じている。

でも、これって当たり前なのかな。

歩いてくる人はみんな自分にぶつかってくるかもしれない

赤信号でも止まらない自動車がいるかもしれない

電車は電光掲示板とは違う行き先に向かうかもしれない


こんな「かもしれない」ばっかり考えてたら生きていけないよ。そうだよね、生きていけない。そんなこと考えもせずに生きている、私。
でも、じゃあ考えるようにならずに済んでいるのはなぜなのか。それが逆に不思議なんだ。裏切られることがあっても、自分の中の信じる作用が生き続けて、こうして私が生き続けることを可能にしている。それがすごく不思議なんだ。

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