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「誰も気づかない物語」

小川洋子と谷崎純一郎と村上春樹を並行しながらちびちび読んでいる。これまで、「好きな作家は?」と聞かれてももごもごしてあまり答えられなかったけれど(あまり作家ごとに系統立てて読む方ではないのだ)、最近はこの三人かなあと思っている。好きな作家ができるのって嬉しい。

小川洋子は『琥珀のまたたき』を読んでいる。彼女の小説は文字通り“限定された状況”(物理的にも精神的にも)を生きる主人公の話が多く、この小説でも、母親によって館に閉じ込められた子どもたちが中心となっている。

子どもたちはひっそりとした声で話し、自分たちだけの遊びを生み出し見つけて過ごしている。その中のひとり、お姉ちゃんはお話をするのが上手で、こんな一説が出てくる。

「たとえ道端で踏みつけにされた、片方の手袋についてだって、礼儀正しく語れる。誰も気づかない物語を朗読できるんだ」

私はこの一説にはっとさせられたのだが、それは最初にこんなあとがきを読んでいたからかもしれない。

「誰かの話に静かに耳を傾けることは、それ自体がひとつの祈りなのだと思う」

以前、書くことは、ひいては生きることそのものが“祈り”なんだというエッセイを書いたけれど、それに通ずるなあと思ったのだ。そして、「誰も気づかない物語」を語ることこそ、私が最近気になっている、そしてこのあいだオープンさせたmono.coto Japanというストーリーマガジンでやっていきたい、「日常を記録する」ということなんだなと、なんだかばらばらしていたことがひとつの線でつながった気がした。

そこに確かにあるけれど、「誰も気づかない物語」こそ日常であり、そんな話に「耳を傾ける」、そして「記録する」ということが祈りなのだと。

ここでいう祈りとは、私は特定の神様に対する祈りというよりは、「なんだかよくわからないけれど自分または誰かが、この世界で生きている、生かされていることへの畏敬の念」だと思っている。

小川洋子や写真家のソール・ライター、富士日記の武田百合子の作品は、こうした祈りであふれていると思う。ささやかで一見目立たないけれど、だからこそ見えてくる、滲み出てくる何かがあるような。

そんな“祈り”を、自分も紡いでいけたらなと思う。

それでは、また。

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