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僕は11歳になるまで、「壁」というものを見たことがなかった。

というのも、家にある壁はすべて本棚で覆われていたからだ。天井までのびる本棚は、父と母の本でぎっしり埋め尽くされていた。窓はどこにもなく、天井までもが本棚に侵食されていた。逆さまになって今にも落ちてきそうな天井の本の背表紙を読み取ろうと、子どものころの僕はよく背伸びをしたものだ。

母はいつも、天井まである本棚のどこからか本を一冊取り出してきて、僕に与えてくれた。それはいつも、そのときの僕がまさに必要としている本だった。僕は母が与えてくれた本を、いつも卵を丸ごと飲み込むように、目の奥の方と、頭のてっぺんの方と、そして心の底の方にしまい込んでいった。

そうして読み終わると、今度は父がどこからともなく現れて本を持っていき、また天井まである本棚のどこかへとしまうのだった。

僕たち−−僕と母と父は、いつも3人揃ってごはんを食べていた。朝ごはんも、昼ごはんも、夜ごはんも、11時と3時のおやつでさえも。ごはんはいつもアルファベットでできていて、僕がとりわけ好きだったのはKが浮かんだオニオンスープと、Sの白パンと、Hの紅茶クッキーだった。UのオムライスとIのオレンジジュースが出てきたときは、僕はそっとそのアルファベットの一部分を、隣にいる飼い猫Yに渡してあげた。

ある日父と母が揃って僕の手を引き、トイレへと続く廊下の、突き当たりの少し手前のところにある本棚の前に連れて行ってくれた。その一番下の棚は空っぽだった。空っぽの本棚を見たことがなかった僕は戸惑い、思わず本棚の奥を覗き込んだ。そこには何もなかったけれど、ずっと見ていると木の目に吸い込まれて本棚の向こう側に落っこちそうな気がしたものだ。

父と母は口を揃えてこう言った。「今日からここがおまえの本棚だよ」と。

僕は口を開けたけれど、なんのアルファベットも出てこなかった。というのも、この家で僕が本棚をもつことは、かたくかたく禁じられていたからだ。

僕は泣いて喜び、お母さんに抱きついた−−なんてことはなく、はじめの数日間は半信半疑で、空っぽの本棚を見つめていた。本棚を手に入れた日を境にして、母が本を手渡してくれることもなくなったので、僕は数少ない、本棚には所属していない、つまり家のどこかに散らばっていた本を見つけては捕まえて読んでいた。

空っぽの本棚に散らばっていた本を入れると吸い込まれて消えてしまうのが怖かったので、しばらくは読み終わるとまた、本が落ちていた場所にまったく同じ方向、同じ角度に置いておいた。

空っぽの本棚を手に入れてから1週間が経ったころ、僕は初めてベッドの奥に落ちていた本を、僕の本棚に差し込んだ。次の日起きてすぐ僕の本棚を見に行ったら、本はそのままの状態で、1ミリも動くことなくそこにあった。

それからというもの、僕は家に散らばっていた本を片っ端から読んでは僕の本棚に入れていった。本は読んでからではないと本棚に入れられなかったので、1日に3冊入れるのが限界だった。それでも僕の本棚は、お風呂にお湯をはるのと同じくらい確実に埋まっていき、ついにあと4冊で「ぎっしり」になろうとしていた。でもあろうことかその前に、家に点在していた本の方がなくなってしまったのだ。

僕ができることは2つしかなかった。1つは父と母の本棚から本を抜き取り、僕の本棚にしまうこと。もちろん僕はそれを試みたけれど、本をぬきとろうとするとなぜかいつも、飼い猫Yに呼ばれるのだった。MYAAAと呼ばれて飼い猫YにJの餌をやったりOのおしりを拭いてやったりしているうちに、それが終わって本棚に戻るといつもその、ぬきとろうとしていた本は消えているのだった。

だから僕は僕のできることのもう1つ、つまり外へ出ることを決意したのだった。父と母に僕が外へ出たい旨を伝えると、2人は顔を見合わせて首を横に振った。僕のために天井まである本棚をつくったのだから、というのが理由だった。母はまた、僕のために本を選んであげると言い、父はまた、僕のために本をしまってあげると言った。でも僕は、もう本と僕の本棚のことで2人に、そして飼い猫Yに干渉されるのは嫌だったのだ。

あと4冊で「ぎっしり」になる僕の本棚の前で僕が寝起きするようになると、父と母は諦めたのか、僕が外へ出ることをついに許可してくれた。

初めて外へ出た日、僕は黄色のバスじゃなくて父と母が2人で運転する車に乗って、SCHOOLと書いてある建物へと向かった。SCHOOLの中に入って僕は初めてそのとき、壁というものを目にしたのだ。壁はどこまで行っても真っ白で、そこにはシミひとつさえなかった。CLASSROOMと書いてある部屋に入ると、そこにも真っ白な壁があったけれど、そこには大きな文字でMATHと書かれていた。360度見渡してみても、本棚なんてどこにもなかった。

今まで僕が聞いたこともないDrrrrriiiiiinnnggという音がしたかと思うと、僕のまわりにいた他の11歳たちは一斉に立ち上がって、壁の外へと向かった。

僕も壁の外へと出ていきたかったけれど、どこへ向かえばいいかわからなかったので、大人しく壁の中で父と母を待っていた。もう一度Drrrrriiiiiinnnggという音がして、父と母が現れた。2人が運転する車に乗って、僕はまた、天井まである本棚に囲まれた世界へと戻っていった。

でもそこにある本棚からは、今までに嗅いだことのないよそよそしい匂いがした。慌てて僕の本棚がある方へと向かって行くと、僕の本棚はどこにも見当たらない。もちろん、もう少しで僕の本棚を「ぎっしり」にしそうだった本だってだ。

父と母に泣きながら「僕の本棚はどこ?」と聞いても、2人は顔を見合わせるばかりだった。2人の顔から、父と母が僕の本棚を隠したわけではないことがわかった。2人も一緒になって探してくれたけれど、夜通し探したけれど、結局僕の本棚は見つからなかった。

次の日の夜、僕はアルファベットの波で溺れる夢を見た。僕の本棚がついに見つかって、嬉しさのあまり駆け寄って本を開くとそこからアルファベットが飛び出してきて、みるみる僕を飲み込むという夢だ。Wに頭突きされた僕は気を失い、次に目を覚ましたら僕はCLASSROOMの中にいた。

そのようにして僕は、僕の本棚を失った。僕が代わりに手に入れたのは、MATHと、RとFという友だちと、前より懐きの良くなった飼い猫Yと、つるつるとした真っ白い壁だけだった。







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