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左手にソーサー、右手にカップ(あるいは、マガジン一服)

祖父は喫煙家だった。

その飯台の上にはいつも、安っぽく光る銀色の灰皿が置いてあった。

タバコのニオイはあかんねん、と祖父の娘だった母は言うけれど、子どものころの私はけっこう好きだった。タバコのニオイ=おじいちゃんのにおい、だったのだ。

テレビに向かって一番手前の左側の椅子が祖父の定位置だった。NHKをつけながら、焼酎をコップ一杯つぎながら、タバコの煙が天井へと舞っていたことをぼんやりと覚えている。

いつ、役所の仕事へは行かなくなったんだろう。畑仕事はあっても朝出勤することのなくなった祖父は、毎朝食後に必ず縁側でコーヒーを飲んでいた。

よれっと少し黄ばんだステテコと腹巻。子どもの目から見てもいけてない格好だったけれど、ぼんやりと庭を見つめながら、ソーサーを左手に、取っ手を右手にかけてコーヒーを飲む姿に、まだ小学生にもなっていない私はぼんやりと憧れていた。

コーヒーとタバコ。祖父が何の気なしに手にしているそのふたつは、大人の象徴、みたいなものだったのだ。

祖父のコーヒーは、その見かけに反して甘かったと思う。たぶんお砂糖とミルクがたっぷり入れられていたのか、祖母だか母だか叔母だかが入れたコーヒーを、祖父のところに持っていくのが役目だった(小さいころのお手伝いってどうしてあんなにわくわくしたんだろう)私に、「飲むこー?」と聞いて一口飲ませてくれたその味は、今でもコーヒーよりコーヒー牛乳が好きな私を形づくっている、気がする。

その後別々に住むようになって、高校生になり、大学生になり、大人になって、ひとりで帰ったり、話し相手としていろいろ身の上話を聞ける歳になるころには、祖父は癌を患って寝たきりになり、やがて亡くなった。だからこうして改めて振り返ってみると、祖父がどういう人生を歩んできたのか、コーヒーとタバコと焼酎以外に何が好きだったのか、どんな物腰で仕事してたのか、そういうのなんにも知らないままだった、と思い知らされる。

コーヒーとタバコ。私のなかの、永遠のおじいちゃん。

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なんでおじいちゃんなんだっけ。

そうそう。このあいだ発売になった、でもふりでご一緒したmao nakazawaさんのZINE、『マガジン一服』を読んでいたら、祖父のことをぼんやりと思い出したんだった。『一服』のなかにも出てくるけど、一服するといえばまずタバコ、次にコーヒーだと思う。

この両方が好きだった祖父が大人に見えたのは、一服するっていうのは大人の特権だからなんじゃないかと、今になって思う。仕事とか家事とか農作業とか子育ての、合間に一服。

大人になってからは、コーヒーもタバコも何ら憧れでもなんでもなくなったけれど(むしろカフェインとニコチンで敬遠する対象でもあるくらいだけれど)、代わりにコーヒーとタバコは一服の対象になった。右手で、左手で、タバコやカップの取っ手を挟んでもう片方の手にスマホ。

とはいえ、スマホじゃなんか物足りない。ちょっと普段より良い感じの一服がしたい。みたいなときがある。そんなときに、この『一服』はぴったりなんだと思う。

フォトエッセイ、「私の一服」エッセイ、座談会の記録。順番に読むというよりは、ぱらっとめくって目についた写真や文字を、目に焼き付ける。「真央、『一服』行ってきていいぞ」っていうバイト先の店長とか、タバコの煙でもやがかったポートレートとか。とびきりクレージーなコーヒー飲んだりとか、中学の授業サボって用務員さんにギター教えてもらってミュージシャンになったりとか。

そういう、一服を。

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そんな『一服』はポストカード付きで500円。注文は一服DM(@magazine_ippuku)まで、また都内の本屋やカフェにも置いているそうです。

私は「私の一服」にエッセイを寄稿しました。忙しい都心のそのまた忙しい駅の、最後の一服オアシス(であろう)牛乳スタンドについて。

それでは、また。




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