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水面下vol.8

キッチンからコーヒーを片手にして、彼女は戻ってきた。

リビングのいつもの椅子に座り、どこからともなく読みかけの本を出してきて、それを読んでいる。

あまりに深く潜っているので、僕はいつものことだと思いつつも、せっかく豆から挽いたコーヒーが冷めてしまうんじゃないかと、気になった。

やがて彼女が顔を上げた。水面に上がってきたみたいだ。僕は彼女の目と出会った。僕は口を開く。

「君はいつも本ばかり読んでるね」

「本じゃないわ。物語よ」

「ごめん。いつも物語ばかり読んでいる」

「そうねえ」と彼女は言葉を切った。

僕は彼女が言葉を切った後の、沈黙が好きだ。柔らかくて、暖かくて、そこには未来の予感が詰まっている。チョコレートボックスを開けるときの予感。

「どうしてかしら。でも、物心ついたときから、私は物語に囲まれていたのよ」

「小さいころは、いつも母が何かしら、毎晩読んでくれたわ。小さいサイズの、正方形の形をした、世界中の童話が詰まった本が、私は好きだった。私は下に二人もいたから、お母さんの隣で寝ることはできなかったの。お母さんっ子だったのにね。本もね、いつも弟が好きなものを読んでいた。私はたまに寂しくなって、しくしく泣くの。そうすると、その夜にはお母さんが隣で、私の好きな本を読んでくれるの」

「こっちの世界に戻ってこれないんじゃないかってくらい、夢中になった物語もたくさんあったわ。それにね、私は物語の中で遊ぶのも好きだった。お人形片手に、何時間も床に座って、延々と自分の物語の中で遊ぶの。腰が痛くなっても続けていたわ。どうしてあんなに楽しかったのかしら。私は外でみんなで遊ぶのも好きだったけれど、一人のときは、いつもそうして遊んでいたの」

「大人になって、時折、ふっと思うの。どうして物語を読むんだろうって。だって、読まなくたって生きていけるのよ。大きくなってから、思ったより世の中の人は物語を読まないっていうことに気付いて、特にそう思うようになった。でもね、しばらく読まないでいると、私は無性に自分の中に乾きを覚えるの。飲み物や食べ物を求めるように、身体が、物語を欲しているのがわかる。私は、物語をただ、物語として受け入れるの。勿論解釈や謎解きだって大事よ。でもね、そうする前に、物語をただ受け入れるの。自分の身体の中に通すのよ。それで、自分の中の渇きを癒すの」

「物語を読んでいるとね、いつも思い出すことがあるの。小学生のとき、体育の授業でね、私の学校は室内プールがあって、週一で水泳があったの。私は泳ぐのが苦手であんまり好きではなかったんだけれど、ある授業でね、素潜りみたいなことをやらされたの。ゴーグルをつけずに、水底に沈んだおはじきを拾ってくるのよ。ゴーグルをつけずに水中で目を開けないといけないから、よく見えないの。だから、潜る前にある程度検討をつけるのよ。ゆらゆら漂っているおはじきの在りかを。それでね、えいやって飛び込んで、指先に触れたおはじきを拾ってくるの。ゆらゆら揺れていて、キラキラ光るおはじきは、とても綺麗で、その授業は好きだった。」

「物語を読むって、それに似ているんじゃないかしら。広い海の底に沈んでいる言葉を、拾い集めてくるの。言葉拾い。沈んでいるのは確かなのよ、そこにあるのはわかっている。でも、自分で潜らなきゃならない。誰かが拾ってきた言葉だけを見ても、それは誰かが拾ってきた言葉でしかないのね。あなたは自分で、ひんやりとした海の中を、潜り抜けなきゃいけないの。そうして手にした言葉を少しずつ集めて、私は自分の世界を少しずつ、立体的にしていくのよ。そうすることで、私はこの世界で、ほんの少しだけ、楽に息をすることができるの」

「この世界も、一種のファンタジーだから?」

「そうね、そう。だから、この世界で、あなたが息苦しく感じるなら、あなたは自分で海に潜って、自分の言葉を見つけて、その言葉で自分の世界をこしらえるしかないのよ。それはね、この世界に対する、ささやかな試みであり、反抗であり、復讐なの」

「子どものころに読んだものって、大人になっても忘れないもの?」

「きっとね。きっとそれは、何も考えずに、今よりも深く潜れたからじゃないかしら。どんな言葉を拾ってきたのか、私はもう思い出せないけれど、それは生まれた時からかけている色付きのサングラスみたいに、私の目に張り付いていて、私はそのころの物語を通して、今も世界を見ている」

「僕は物語を読まない。何でかはわからないけれど」

「でも私の知らないところで、おはじきじゃなくてビー玉を拾っているのかもしれない。それともまた、拾う必要がないのかもしれない。わざわざ苦しんで、潜る必要なんてないんだから」

「あるいはまた、そうかもしれない」

「レゴや積み木で家を作ってみたいにね、少しずつ、立体的にしていくの」

「レゴでも遊んでいたの?」

「ええ。でも私はどうしてか、レゴでは上手く、家を立体的に描くことはできなかった」

「僕は、どうでもいい色の配色にこだわっていたな。赤の隣に青はだめで、黄色の隣に青が一番いいんだ」

「そう」と彼女は言って、ふっつりと言葉を切ってしまった。彼女の目は海の底の色をしていた。きっと水面下を見ているのだ。必死で目をこらしても、ゆらゆらとしてつかみどころのない、水面下を。

その夜、案の定僕は海の夢を見た。夕日と同じくらい大きな月が出ていた。僕はその引力に負けて落っこちないように、必死で地球の反対側に向かって泳いでいた。月が僕を引っ張って、宇宙に落っことそうとしていた。気がついたら僕は、地球の反対側ではなくて、水面下に向かって泳いでいた。月のかけらが一杯散らばっていて、僕はそれに取り囲まれていた。重力がどちらに向かって働いているのかよくわからない。月のかけらはにぶく光りはじめ、まぶしくて僕は何も見えなくなる。不思議なことに、僕は地上にいたときよりも、楽に息ができる。僕は必死で月を脇によけようと、手足を四方八方に蹴散らす。僕は探しているのだ。けれどもまぶしくてゆらゆらしていて、上手く見ることができない。失ったかどうかも思い出せない。言葉で名指せないものを、僕は探していた。いや、僕が探していたのは、言葉そのものだった。僕はそのまま海に飲み込まれて、宇宙に滑り落ちて行った。

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