見出し画像

「念持仏を持つ」ということ



1.念持仏とは



「念持仏」というものをご存知だろうか。
様々な定義があるが、「ある個人が自分の守護神として、あるいは願掛けのために私的に祀り、持ち歩く仏像」といったところである。

有名なところでは徳川家康の「黒本尊」や豊臣秀吉の「三面大黒天」などがある。

また、武将の念持仏は戦場にも持っていかれることがあり、その所以から家康の「黒本尊」は阿弥陀如来なのに戦勝のご利益もあるとされる(現在は増上寺に祀られている)。

ちなみに、この念持仏を祀る習慣から派生して各家庭で仏壇を祀る習慣ができたともいわれる。

2.念持仏を持った経緯

念持仏を持つ。
これは、特に今の大半の方には仏教=葬式くらいのイメージしかないだろうからピンとこないと思うが(僕も家の仏事に関わるまでそうだった)、近代以前まで自分の守護神を持つことは生死を分けるくらい重要なことだった。

僕は念持仏として自室に二尊をお祀りしている。日蓮宗寺院にて法華勧請していただいた「三面大黒尊天」と、大先祖様の建てたお寺(こちらも日蓮宗)で「帝釈天王」として勧請していただいた二尊である。
(なぜ三面様をお祀りすることになったかは以下の記事に記してあるため、そちらをご覧いただきたい)

もっとも、帝釈天については元々お祀りするつもりはなく、「大先祖様の守護札を作ってほしい」と当該寺院に相談したところ、「うちは帝釈天のお寺だから(大先祖様)のお札は用意できない」と頑なにいわれ、次善の策として造形師集団の海洋堂が作成した東寺公式レプリカの「帝釈天像」を入手し、かつ正式な開眼ではなくそのお寺の帝釈天像の前で祈っていただく形を取った。

祈りの間はひたすら「大先祖様降りてきてください」とだけ祈って、以後は帝釈天王としてではなく、大先祖様の依代としてお祀りしている。

なお、不思議なことにいざそのお寺に伺ったら「○○上人云々守護札」というものが見本で置いてあり、(これを作ってくれれば良かったんだけど…)と思った。
こういうことは本当に導き、ご縁なので、きっと帝釈天の姿で垂迹されることが流れだったのだろうと受け止めている。

大先祖様をお祀りしたのは、失われていた当家の仏事を再興した際、「近代の先祖よりも成仏している大先祖様と直接繋がるほうが良い」と当時仏事の建て直しに協力していただいた日蓮宗の方に言われたことが大きい。

また、建て直しから10年を経てようやく大先祖様がどなたかわかったというのもある。本当のところ、僕は当時からこのお寺を開基した方がそうだろうと思っていたのだが、その話になるとなぜか有耶無耶になり、別の家柄が出てくるなどしてなかなか繋がれなかった。理由はわからないが、まだ繋がれない何かがあったのだろう。

3.念持仏を持つ意義

さて、本論の念持仏を持つ意義だが、仏像とは現代では仏壇に一家一門の守護としてお祀りするもので、個人の持仏として祀ることはあまり無い。ではなぜ念持仏なのか。端的にいえば「役割やカバーする範囲が違う」ということだ。仏壇に祀る仏像は自身のみならずその家全体の守護を役目として来てくださったものなのに対して、
念持仏はその仏像や象徴するご神仏を何らか感得した個人が自分のために祀るもの。つまりその人個人の守護神である。

そこには1.で記したような自分自身の思いが込められている。また、仏壇の前では晒せないような自分の弱さ、辛さ、駄目な部分も受け止めてもらえる安心感を持って身近に接することができる。何でも話せる親友のようなものだ。実際、僕は仏壇に向かう際はある程度自分を整えて、宗派の作法に則り先祖供養なども含めて祈るが、念持仏にそんなことは祈らない。

自分は今人生のこういう局面にいてこんなことで悩んでいるとか、極端な場合「三面様〜もう駄目です〜😂」など弱音も吐いたりしている。あくまで僕の受け止め方であり異論もあるだろうが、自分を安心して曝け出し、色々ぶっちゃけられる気のおけない存在という点が念持仏の最大の効用だと思っている。
また、「仏像は人の心を映す鏡」ともいわれ、念持仏と向き合って悲しげな印象を受けるなら自分は今悲しいんだなとか、怒っているように見えるなら心が険しくなっているなどと気づくこともできる。これは念持仏ではなく仏壇のご神仏でも同様のため、念持仏特有のことではないことを付言する。お祀りしてみるとわかるが、仏像は自身の心に応じて表情を変えるのである。

では、念持仏に何を祈っているかといえば実は何も祈っていなかったりする。そのため、回向は宗派の定型文ではなく「自分も含めた生きとし生けるもの全ての幸せ」を『慈悲の瞑想』というものを使って祈っている。むしろ敢えて願掛けするなら仏壇や神社仏閣のほうが多いくらいだ。念持仏は身近にいてくださるからこそ、こちらの思いに感応して来てくださったからこそわざわざ言葉にしなくてもわかってくれている、という思いもあるのかもしれない。とにかく、何かを願おうという気が起きず、いてくださるだけで安心するのである。

少々踏み込めば、例えば家の宗派が浄土系で仏壇に阿弥陀様しかいなかったとしても、個人的にご縁を感じるなら自室で大黒天を祀ったって良い。あなたが浄土系の仏教宗派の家に生まれたからといって、パーソナルなご縁があるのは宗派としては祀らないご神仏である可能性は十分ある。それが念持仏だ。

ここで大事なことは「信仰」と「宗教」は違う、ということだ。「信仰」とはその人が親近感を感じるご神仏やご先祖様等に直接祈りや感謝を向けることであり、「宗教」とはあくまでその入り口、仲立ちをする代理店のようなもの。例えば日蓮宗の家系に生まれても氏神様が須佐男命だったとして、あなたが家の宗派より氏神様に親近感を抱くならひたすら須佐男様に向けて祈る。これが「信仰」である。そこから念持仏を決めてもいい。

須佐男様なら仏教では牛頭天王や本地の薬師如来だが、牛頭天王はともかく薬師如来は日蓮宗では原則として祀らない。それでもあなたが須佐男様を通して薬師如来を感じるならそれが感得したということになるため、個人的に須佐男様の応現としてお薬師様を祈ればいいのである。

以上が念持仏を持つ意義だが、説明し切れたかは少々自信がない。だが、そもそも信仰とは理屈ではないため、この記事を読んで少しでもイメージを持っていただけたならこの上ない行幸である。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?