青いボトルと9番ボール

「人間の五感のうち、嗅覚だけが脳に直接働きかける」というのを見た。例えば何かの匂いを嗅いだときに、それに結びつく記憶や人物が浮かぶらしい。つまりは好きだった人の香水を嗅ぐと心が勝手にキュンとなっちゃうんだろう。


ならば私の中でのそれはベルサーチの「ブルージーンズ」なのだ。あの青いボトル。ちょっとチャラい香り。



21歳の夏、突然とても好きな人ができてしまった。


ありきたりな表現なのだけど、本当に夏の夕立みたいに突然激しく降り出して、突然さっと止み、また何事もなかったかのように青空に戻る。その恋はそんなふうに突然始まってあっという間に終わってしまったのだけど、その時の感情の塊はいまだ私の心の片隅にホワホワとほのかな輝きを持ったまま、お姫様が座る椅子のような素敵な猫足のキラキラした椅子に鎮座しておられる。たった一瞬の恋だったのに、たぶん一生特別なのだ。短くて激しく輝いた分、残像もまた消えずに残っている、そんな感じ。

彼が乗っていた車高の低いガルウイングの車、助手席からいつも見ていた横顔のツンとした形の良い鼻、薄い唇、ちょっとくせ毛の前髪、イシシシシ!と変な笑い方。吸っていたタバコの銘柄だけは思い出せない。顔は正直全く好みではなかったのに、タバコを吸っている彼の横顔は死ぬほどカッコよく見えた。


彼はバイト先に入ってきた1つ年下の子だった。割と堅い部門のバイトだったので、見た目がチャラい彼は初見から浮いていた。でもある日、バイト仲間で当時流行っていたビリヤードに行ったのがきっかけで遊ぶようになった。ビリヤードにハマり始めていた私は、彼とバイトや講義の空き時間に良く行くようになり教えてもらった。
そのうちご飯やドライブに行くようになった。でも後輩だし、私は年下には全く興味がない。何よりとにかく顔が全く好みじゃなかった。私の中では完全なる遊び仲間のひとりだった。



彼は私の周りには居ない部類の人間だった。やる事がぶっ飛んでいた。

ある日は21時に突然「熊本から久留米まで30分で行けるかやってみよ!」と、ガルウイングで高速をぶっ飛ばし、本当に30分で久留米まで行った。助手席でギャー!となる私に「やった!30分で着いたよ!」イシシシシ!と笑っていた。


「一度バイクに乗ってみたい」と何気に言った翌日に「先輩からバイク借りてきたからツーリング行こう!」と家までやってきた。(そういえば心配して一緒に降りてきた母にも爽やかに挨拶をして、瞬時に母の心も掴んだ)

生まれて初めてのバイク。生身の体でスピードを感じる感覚、ジェットコースターみたいで終始キャアキャア笑っていた。乗り方がわからず、ギアチェンジのたびに重心が取れなくて彼と私のヘルメットはゴチゴチ当たった。「たのしかった?また明日ね!」と、先輩に借りたバイクでイシシシシ!と帰って行った。


「星がメチャクチャ綺麗に見えるところ見つけたから行こう!」と夜に突然迎えにきたこともあった。だいぶ長いことドライブして、最終的に離合できないような田舎の細い細い道を抜けた海沿いまで連れて行かれた。あ、もしかして殺されるのでは?と思った(笑)しかし見上げると、それはもう見たことのないような満点の星空で本当に感動した。とても綺麗だった。


その晩は出発が遅かったせいで、帰り道は日にちを跨いでおり、私はガルウイングの助手席でウトウトと目を閉じていた。その時に突然、彼に唇を奪われた。戸惑う私をよそに「だって可愛かったからキスしたくなった!」と無邪気に言われた。そしてニコッとしてもう一度チュッ!とキスをした。


帰り道に私の手を握りながらニコニコと運転をする彼を隣に、あれ?もしかして彼は私のことを好きなのかな?もしかして私は彼のことを好きなのかな?とグルグル考えていた。

それからも毎日のように会っていた。会うたびに彼の思いつきでいろんなところに行った。


「今日は長崎に行こう!」と何の準備もなく向かった日もあった。グラバー園で撮った写真が何故か今も2枚残っている。誰に撮ってもらったのか、なぜカメラを持っていたのか。とにかく暑くてとても天気のいい日だった。


そしてその時にはもう、私は彼のことを好きだった。


暑いけど手を繋いで歩いた。見つめれば見つめ返して抱きしめてくれたし、それはすごく幸せな気持ちでいっぱいになった。そうしていつしか一線を超えていた。

そんな関係が続いた1ヶ月、私は彼に思い切って言った。

「彼氏と別れるね」


そう、今さらえええ!?なのだけど、私には当時付き合っていた男が別にいたのだ。彼氏は実家住みのフリーターで車も持っていなかったのでそんなに頻繁に会うこともなかったのだけど、もはやこのまま両方と続けるわけにはいかない。
何よりもう気持ちは彼に全て持って行かれている。迷いはない。


しかし彼の言葉はそれよりなにより予想外だった。


「え、そんなつもりなかった。なんかゴメン」


雷に打たれたような、電撃的なこの一言で、私の夏の恋は終わった。


以来、彼に連絡しても「また今度ね!」的な返答ばかりになった。



ガルウイングの助手席に乗ることは無くなった。タバコの煙も浴びなくなったし,イシシシシ!の変な笑い方を聞くことも無くなった。



なんでかな、何が悪かったのかな。私は思い出すたび涙がポロポロ流れ出て、心が張り裂けそうだった。
気づけばこれが生まれて初めての失恋だったのだ。四六時中、楽しかった思い出ばかりが頭いっぱい埋め尽くされて、過ぎ去った輝かしい場面ばかりがよぎる。そう、もともとは全然好きじゃなかったのに。くやしい。くやしい。そうか、これは遊びの恋というやつか。本気になってはいけないやつだったのだ。

残された私はビリヤードだけ上手になっていた。彼が上手かったビリヤード。ブレイクショットの彼もかっこよかった。

ビリヤードには行かなくなった。


あれから数十年。こんなに歳を重ねても、やはりブルージーンズの香りを嗅ぐと思い出す。満点の星空と暑かった長崎の青い空、バイクのヘルメットが当たるゴチゴチ音、変な笑い方。まぼろしのような夏。
全然好きじゃなかったのに、いつのまにか9番ボールを決められていた。彼にとってはゲームだったのだ。


あのビリヤード場はもう無いし、ガルウイングも無い。でもブルージーンズがある限り、私の記憶に永遠に存在するものたち。ありありと思い出せるのに。私はいつのまにかもうこんなところまで来てしまった。人生はあっという間に過ぎてしまう。

もしいつかの夏に戻れるなら、私はたぶんガルウイングの助手席に乗る夏を選ぶ。もう一度あのツンとした形の良い鼻を見て、変な笑い方を聞きたいのだ。実らない恋だとわかっていても。

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