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ちょっと前から急に歌がうまくなった話

体がそわそわむずむずしてしまって仕方ないタイトルではあるのだけれど、実際のところ体感として「うまくなった」という実感があるからこう書く。あるいは、もしかすると別にうまくなどなっていないのかもしれない。でも実感として少なくとも「歌いやすくなった」ことはほぼ絶対に疑いえなくて、歌いやすくなったということは結果うまくもなっているだろうからこう書いて差し支えないとは思っている。

なんでそんなことになったのだろう。

2020年3月、僕はほとんど歌うことをやめてしまった。それまで4年間続けていたアカペラ、そしてそれにともなって取り組んでいたボイストレーニングをぷっつりとやめてしまい、またコロナ禍の始まりにともなって、カラオケなどに行く機会も激減した。もともと家で思いっきり歌える人間ではなかった(人目が気になると全然歌えなかった、今も割とそうだけど)うえ、当時住んでいたのがマンションだったので、日常の中で「歌う」ということが本当になくなってしまった。正直言ってその時点では割と「もう歌はいいかな」という気持ちが強くて、状況がそんなふうにガラリと変わってしまったことに対して特段思うところもなかった……と記憶している。

そして2022年8月末現在、なぜか僕は以前より歌がうまくなっている。実際のところどうか、という話は冒頭で済ませたからもう繰り返さないことにする。うまくなったし、そのぶん歌うのがとても楽しくなっている。おかしなことが起きたものだと思う。ここ2年半近く、まともな練習なんてほぼ一切してこなかったし、一見するとうまくなる理由なんて皆無に等しい。それなのに、昔よりずっと楽に高い声も出るし、ロングトーンもきれいに出せる。ピッチもいくぶんマシになった。フレーズ感のある歌い方もできるようになった、と個人的には思っている。

何がこんな奇妙な変化を引き起こしたのだろう。考えてみたとき、思い当たる節がいくつかないでもなかった。今回はちょっとそのことについて書いてみたい。「〇〇だけやってたって〇〇はうまくならない」みたいな話はちょくちょく聞くと思うのだけれど、我が身で体験してこれはなるほどと思ったところが結構あるのだ。

欲望を見つめ、身体感覚を養う

直接的にはこれが一番でかかったんじゃないかと思っている。ほかにも作用している要因はあると思っているけれど、多分これがあまりにも大きかった。歌は体で歌うものだから、結局のところどれだけ自分の体について解像度高い感覚を持てているかが大切だったのだと思う。

今年の6月くらいに、僕はさる人から「自分の身体の声にひたすら耳を傾け、本当の欲求が何であるかを徹底して探るべし」という「課題」を賜った。この方と直接会ってお話をするにあたって、その事前課題として以下の3つを課されたのだ。

1)
スマートフォンなどの電子機器をいっさい持たずに1時間以上外を散歩し、そのとき自分がどんなことを身体で感じるかをじっくり観察すること。

2)
デパートの地下食料品売り場や高級スーパーなどに実際に足を運んで、「そのとき自分が一番食べたいもの」を徹底的に考え、実際に食べてみること。また、食べてみて身体がどんなふうに反応するかをじっくり観察すること。

3) 
なるべく大きな書店に実際に足を運んで、そのときの興味関心の赴くままに本を手に取ったり立ち読みしたりしてみること。どんな本を手に取り、どんなふうにそれらと向き合うか、じっくり丁寧に観察すること。

※これらは「十分な睡眠がとれた状態」で実践しなくてはならない。

そもそもこの方に僕が連絡を取ったのは、当時収入も一応安定してきて生活に不自由や不足がなくなりつつあったなか、「せっかく余力があるのに何をしていいのかわからない」「俺はこれからどうやって生きていけばいいんだ……!」といった迷いの渦に巻き込まれていたからだった。自分が何をしたらいいのかわからない。キーワードが「欲望」になりそうなことは、この方以外にも数名の知人・友人等々とのやりとりの中でなんとなく認識しつつあったものの、かといって具体的に自分がそこから何をしていったらいいのかはまるで見えていなかった。

藁をもすがる思いだった僕は、与えられた課題にできる限りの真摯さで臨んだ。なるべくよく寝て、スマホを持たずに散歩して、デパ地下を1時間以上かけて徘徊して、最寄りのジュンク堂に半日籠った。人生のどこかで絶対に一度はやっているはずのことばかりだったけれど、視座がそれまでとは決定的に違っていた。スーパーや本屋に行くときに、「身体の声に耳を傾ける」なんてことを意識したことは、思えばそれまで一度もなかった。

僕にとってこれは決定的な経験だった。もちろん、この事前課題を経て、件の方と交わしたおしゃべり自体も、大いに収穫の多いものだった。ただぶっちゃけた話、僕にとってより大きかったのは事前課題のほう、「身体の声に耳を傾ける」という経験を持てたことだった。この経験によって、僕はいかにそれまで自分が自分の身体の声や欲求みたいなものをいい加減に扱っていたかを、まさに身をもって知ることができたからだ。

結構これはインパクトのある話だと思うのだけれど、僕は6月上旬から8月上旬までの約2ヶ月でだいたい体重を3kg減らした。その間いわゆる「ダイエット」を意識して行ったということはない。徹底していたのはただ一つ、「その日その瞬間に、自分が本当に食べたいものを厳選して食べる」ということだけだ。牛が食いたきゃ牛を食う、トマトを食いたきゃトマトを食う。そしてこの「食べたい」は、頭で漠と思った「食べたい」ではない。実際にスーパーなどに足を運び、食材とじかに向き合い、そこで身体の奥底から「これが食べたい」「これが必要だ」という感覚が得られたとき、それを「食べたいもの」として選び取る。だから、当初頭で考えていた「食べたい」と、実際に種々の食材に向き合った結果としての「食べたい」は、往々にしてズレることもある。そして、後者の「食べたい」に従って食べる食事というのは、信じられないかもしれないけれど、驚くほどうまい。

そんな食事を日々繰り返しているうちに、僕は3kgほど痩せた。別にこれといって新しい運動を始めたり、食事のとり方に注意したりといったこともしていない。強いていえば、「胃に食べ物が落ちた感覚が得られないうちに次のものを飲み込むとお腹が苦しいから、そうならないように食べるペースを調整しよう」と心がけるようになっていたくらいだと思う。ただこれも「よく噛んでゆっくり食べるのが健康的とされているから、そうした」というよりは、そうしたほうが自分の身体が楽で心地よいという実感が強くあったからそうするようになった、という話ではある。

明らかに、自分の身体の声、ないし感覚、ないし欲求に従ったほうが「いい」。体型が無理なくすっきりとし、体調も心なしか良くなっていくなかで、僕はひたすら自分の身体と意識的に向き合うことを徹底するようになった。今は何がしたいのか、何を欲しているのか。ひたすら目を凝らし耳を傾けていると、捉えられるものの解像度も高まってくる。自分にとって心地よい状態とそうでない状態の差にも敏感になってくる。そうするとだんだん、自分がそれまでいかに自らの欲求を雑に扱い、心地よくない状態をデフォルトとして暮らしていたかも、文字どおり体感として実感されるようになってくる。

歌に変化が起こったのも、そんなことがあってからだった。

具体的な変わり目として認識しているそれは、地元駅前のカラオケ店で一人カラオケをしていたときに起こった。それより少し前に、久々に友人とカラオケに行く機会があり、それがいたく楽しくて「あ、やっぱり歌うのっていいな」と思ったのに味を占めて、ちょっと久々に練習してみようかと思ってのヒトカラだった。いつもどおり、自分が歌いたい曲を適当にリクエストしながら歌っていたとき、ふと天啓のように、自分の歌に足りていなかったもの、そしてそれをいかに穴埋めするかについてのアイデアが浮かんだ。なんでこんなことを思いつかなかったんだろう、と思いながら練習を重ねながら、明らかに声のコントロールが以前より自在になっていることにも気がつく。コントロールが自在というよりは、「声の出し方をこうすると、こうなる」というフィードバックの精度みたいなものが、明らかに高まっている感覚があった、というほうが正しいかもしれない。喉の使い方、身体の動かし方、出力された声の拾い方、すべてにおいて「感覚が働いている」実感があった。理屈や図式をただなぞるのではなく、それを実感をともなう身体の動きとしてアウトプットできた経験というのは、過去十数年を振り返ってもほとんどなかったものだったように思う。

きちんと比較するようなかたちで検証できていないから実際のところはわからないけれど、この経験のあとの上達の仕方には、わりと著しいものがあったと自分では感じている。以前であれば確実に歌いきれなかったような曲がポンポン歌いきれてしまったり、「こういう歌い方をしたい」と思ったときにそれが以前と比べてかなり思いどおりにできるようになったり、明らかに何かは変わったと思う。ついでに言えば、「歌いたくないときに無理に歌わない」こともできるようになった。過去の自分は練習ジャンキーと言ってもいいくらい四六時中ボイストレーニングや歌の練習に独りしこしこと明け暮れていたわけだけど(しかもそれで別に大してうまくならなかった)、今はしたくもない練習をしたり喉に負担をかける歌い方をしたりすることはほとんどなくなった。身体がやりたいと望むことを丁寧にやるのが一番いい、と思ってそうしている。その結果、僕はかつてと比べてずいぶん歌がうまくなっている、と思う。

たくさん人と話したこと、自分の輪郭が定まってきたこと

あまり長々してもしょうがないので多くは書かないが、ここまでに述べてきた「身体感覚の高まり」みたいなものだけが歌の上達を促した要因だとは思っていない、ということは付け加えておきたいので、少しそのことについて書いておく。

そもそも自分の歌のうまくなさはどこから来ていたか、ということを振り返ってみると、そこには確実に「自意識に由来する抑圧」みたいなものがあったと思える。もともと僕は「歌うことが許されている」と感じられる環境(それこそカラオケだったり公な練習の場だったり舞台の上だったり)でしか思いきり歌うことができない人間で、家でだってほとんど歌わなければ、他人の前だと鼻歌さえもろくに歌えなかった。歌うことを求められているわけでもないところで歌うのは、迷惑だったり恥ずかしいことだったり、なんにせよ人によく思われることではない。ましてや人に聴かせられるレベルの歌を歌えない自分みたいな人間は……。おそらくそんな自意識がつねに働いていたから、僕はどこに行っても思いきりのびのびと歌うことがほとんどできなかった(もちろん場面によって程度に差はある)。

こういう自意識が少しずつ氷解して、あらゆる面において多少自分に自信がついてきたのがここ2年ほどだったと思う。会社を辞め、ふらふらしながら自分を見つめなおし、あれこれ試行錯誤しながら生き延びていくなかで(そこまで大げさなものでもないけれど)、等身大の自分が少しずつ掴めてきて、虚栄心や「こうあるべき」みたいなものとは違った自信みたいなものが養われてきた。学生時代や会社員時代とは比べ物にならないくらい、たくさんの人と出会って関わるようにもなった。自分の中で漠然とした恐怖の対象になっていた「他者」が、少しずつ現実味を帯びた存在として捉えられだして、何を恐れるべきで何を恐れる必要がないのかという分別もつくようになってきたんだと思う。そうやって少しずつ自意識が小さくなるにつれて、声を上げることへの過剰な遠慮や恐怖心みたいなものも薄れていったんだろう。

心の持ちようが歌にも影響を与える……みたいなことをどこまで言っていいのかわからないけれど、少なくとも僕の場合、精神の安定が歌の上達を後押ししたと言える部分は大いにあるように思う。過剰に人目を恐れることなく、自分のやりたいことを素直にやれるようになったことが与えた影響は、たぶん大きい。

おわりに

もしかしたら、別にうまくなんてなっていないのかもしれない。ここまで書いてきたことは全部自分の思い込みにすぎなくて、たとえば音源で比較してみたら大した変化は認められない、といったこともあるかもしれない。

でも、正直それでも全然いいと思っている。僕にとってむしろ大事なのは、昔に比べて今ずっと楽しくかつ満足に歌が歌えていること、歌をめぐってネガティブな気持ちにならずにすんでいることだからだ。「もっと早くこういう気持ちで歌に向き合えていたら……」と悔やむ気持ちさえなくはない。でも、それだけ前向きな気持ちでいま歌えていることが、やっぱり僕はたまらなく嬉しいし、過去の頑張りが多少は報われたようでもあって、救われたような気持ちにもなるのだ。

今後も楽しく歌えたらいいなってことで、カラオケなりなんなりラフにお歌をたしなむお誘い、こっそりお待ちしております。

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