吃音に関する体験と発信について思うこと~うまく付き合いたいしただ知ってほしい~

どうも~千夏です。
今回は吃音について発信して思うことを書きます。



発信する中で気づくのは常に何かに葛藤しながら生きているということ。
他にも葛藤しながらつきあっている特性はあるけれど多分吃音が一番長くつきあっていると思う。

ただ特性=生きづらさというわけではない。
特性がありながらも生きづらいと感じてこなかった期間もある。
これは自分がポジティブだからではない。
苦しい体験より先に楽しいことがあったから。これにつきる。

吃音で苦しむ経験より前に通級で吃音仲間に出会った。
そしてうまく吃音と付き合っている少し年上の人にたくさん会った。みんな楽しそうだった。

この経験から吃音はあっても悪いものじゃないという前提が常にある。

そして吃音が社会や友人間でのハンデになったことがあまりなかった。(昨年吃音によるハンデを感じたし、友人間のトラブルは尽きなかったけれど
それは吃音のせいではない。)これも大きい。

吃音についての発信をしている人はたくさんいる。その中で思ったこと。
経験によってその苦しみは変わる。

例えば、家族に知られたくなくて隠している苦しみ。
擬態して生きるからこそ苦しみを知られない、理解されない苦しみ。
親や友だちにからかわれたり、その話し方をやめろと言われる苦しみ。
どれが一番苦しいのか、本人にとって深刻なのかは分からない。
分からない以上その苦しみに自分は寄り添うことはできない。
寄り添いたい気持ちはあっても共感はできないものもある。

ネットである発信者さんに出会った。
彼は「親に自分は治ったのだからあなたもなおるかもよ」と安易に言われた。
そんな中で障害だと割り切ってうまく誤魔化して生きている、らしい。
バイトの面接で上手に隠して接客業をしているそうだ。
社会にうまく擬態している。

その人のことはすごいと思うけれど自分には無理だ。

だって誤魔化さないで生きてきた経験が長すぎる。あまりに吃音があることも吃音自体も肯定されてきたから社会に壁があることに気付けなかった。
偏見も差別もあまりにも何も知らなかった。
だから隠して生きる人の方が多いし、大きなハンデだったのだと知ったことは相当なショックだった。


吃音の葛藤に悩むようになって半年が経つ。
その間たくさんの吃音のあるキャラクターが出てくる作品を読んだがそこに気づきがあった。
自分は小説に出てくる吃音のキャラクターのイメージに驚いた。あまりに設定が固定化されているのだ。


どのキャラクターも大抵内気で、姿勢が猫背で、自信がなくて、心を閉ざしていたり、上手く人との関係が築けなかったり話すことに自信がなかったりする。
(西加奈子さんの「円卓」のぽっさんは違うかもしれないけど。)


自分以外で吃音のある身近な人のほとんどは通級の友だちだ。

だからなのか通級の友達をキャラクターと比較してしまうことがある。
通級にいた子のほとんどはおしゃべりで明るくて吃音があること以外他のクラスメイトと何も変わりやしなかった。
一人だけ必要最低限のことだけ話す、という子もいた。
単語一つ一つにつっかえていたから、それが理由なのかもしれないと当時なんとなくぼんやりと思っていた。
吃音のグループ学習で出会った子なのでその時周りにからかう子はもちろんいなかったし、いくらでも待っていたけれどそれでも話したいかは別だよなぁと思う。
ほんの少しでもつっかえるというのは体力を奪う。それが重なるとやはり気軽に話せる状態ではなくなる。支える頻度が上がると話したくても疲れるのでおしゃべりにはなりにくい。
内気なのか、暗いのかそういうことまではよく分からなかったので彼も小説のキャラクターと重なることはない。
いじめを経験した子はもちろんいた。良いことばかりではないし、グループ学習でいじめのことが出たときには自分にも起きうることだと思って構えていた。
しかし、結果的に小学生の間はいじめが起きなかった。(吃音に関するものは、だけど。吃音以外にもいじめられる要因多すぎたからでいじめに遭っても吃音だけが理由だとは思ったことがない。)
ここでマイナスな体験をしていたら今の自分はいない。

通級には吃音を恥ずかしいと話してくれた下級生がいた。その気持ちが分からなくて安易に変な励ましをしてしまったことがある。そして今もそれをかなり悔いている。

これは吃音がある人ならみんな同じではないことがよく分かるエピソードだと思う。
どんな当事者にも言えることを書いておく。


吃音によって体が動いても、うまく話せなくてもその人は不審者ではないということ、
吃音があるのはその人のせいではないこと。
この2点だけは間違いないと思う。


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自分が吃音の発信をするのは自分のためだ。
葛藤する気持ちを自分の中におさめるのは辛いからだ。
理解してほしいとか、自分も頑張るから他の当事者の人もがんばれとかそんなことは思っていない。
そもそも自分は誰かに勇気を与えられるというほどに挫折はしていないし、努力も足りないと思う。

読者に読んでもらう意味は知ってもらうこと。
それ以上に求めるものなんてなくてただ知ってほしい、だけだ。


こういう人間もいるよ、と。
理解を求めすぎるとどんどん他人が見えなくなる。
ともだちや家族にならある程度吃音に対するスタンスや思いをわかってほしいとは思うけれど、
それはごく一部の話だ。
この記事で誰かが救われたらもちろんうれしい。でもあくまでそれは副産物。一番の目的は葛藤とうまくつきあうこと。これはそのツールだ。
二番目の目的は吃音の表面では分からない心理的症状を知ってもらうこと。

        ☆☆☆☆☆

何度も書いていることかもしれないけれど自分は吃音で大きな挫折はしていない。
(前には大きな挫折したって書いたかもしれないけど今はそう思ってない)
苦しいのは日々の葛藤だ。

話せたり話せなくなったりするから社会に出る頃には気づかれないほどに良くなっていると思いこんでいた。
通級ではある程度大人になれば吃音が軽くなると聞いていた。あまり悲観してこなかったのはその影響が大きい。少しだけ発表準備が大変になる、それだけのものだったのだ。

挨拶ができない、自分の名前が言えない、頼みたい商品名が言えない。
その問題にぶつかったのは今年になってからだ。

これまでは軽度だからなのか吃音を理由に日常的にできないことにぶつかった試しがなかった。
できたことができなくなったから葛藤している。しかも波があるし言えるときもある。喋れるときもしゃべりすぎてしまって吃音があって良かったと思う時もあるから「話せなくてつらい」とも言い難い。今でも自分は「当事者」の枠すらギリギリに居る気がしている。


だからまだ完全に「なんとか割り切って生きている」とは言えない。
「苦しみを乗り越えていこう」というほど悲観してもいない。乗り越えるって言い方が昔から好きになれない。付き合っていって気づいたら通り越しているものが苦しみなんだと思う。

今のところ吃音の発信で「あなたの苦しみなんかたいしたことない」と言ってくる人に出会っていない。このことが救い。ありがたい限りだ。


自分にとって一番の敵は無知でも差別でもない。

他人の知ったかぶりと「でも」「大丈夫」「たいしたことない」の3ワード。

この言葉は呪いだ。
小学生時代からの呪いの言葉。一見良い言葉に聞こえるっていうのが余計に自分を苦しめた。


この葛藤との付き合い方は自己流なので「誰かにこう考えてほしい」とは思わないし、思ってほしくない。ある意味では「同じ苦しみ」なんて存在しない。苦しい部分は人それぞれで、できることもできないこともスタンスも違う。

自分の中でも付き合い方は変わる。この思いだって今の捉え方にすぎない。

もし今年吃音による葛藤がなかったら多分この記事も存在しないだろう。

葛藤はつらいけどだからといって解決したいという種類のものでもない。なんとか気持ちを整理して付き合うしかない。
じわじわと違和感を感じ苦しんできたものはこうすればうまくいくというのが見つけづらい。
軽度だし「たいしたことない」から「大丈夫」の呪いを解くにはどうすればいいのだろうか。

この思いをつぶさないで、消さないで、否定しないで話を聞いてほしい、それだけなのだけれど友達に言えば重い話に聞こえてしまいそうなので言えない。家族に言うのもなんか違う気がする。
のでnoteに書いておく。
もっと明るくて日常が垣間見えるものを書いてみたいけれどそれより吃音の葛藤の方が自分にとっては日常なのだから仕方無い。

それではまた~。