脚立に登ってりんごを取る【吃音の世界】

どうも~千夏です。今回は吃音の言い換えについて書きます。

私には幼い頃から吃音があります。6才で自覚し、通級に通い始めた8才の時、「吃音」という名前を知りました。通級に通うことで特に吃音が嫌なものではなくなっていきました。12才の時初めて困りごとに出会い、14の頃同級生に話し方がおかしいとからかわれましたがそこから18までほぼ何もなく過ごしました。治ってはいないし、特に改善したわけではありませんが気付けば吃音があることを忘れていました。高校を卒業してからの2年はたくさんの壁にぶつかりましたが、なんとか向き合うことにしています。

そんな私が今回書くのは吃音の言い換えについてのお話です。

皆さんは言葉の言い換えってしたことがありますか?

この言い方では伝わらなそうだな、こっちの表現の方がしっくりくるなぁと思ったら言い換えることがあるという人は多くいると思います。

相手の理解に合わせて言い換える、誤解を与えないように言い換える。
これらの言い換えは誰もがやる可能性があると思います。

でも吃音の言い換えは少し違います。

言えないから言い換える。
言い換えないと吃るから。
 そういう感覚を知らない人は多いでしょう。無理に理解しようとしなくていいのでそういう人もいることを頭の隅っこに入れてくれたら嬉しいです。(全部を理解するのは不可能なので、「知っているけれど理解はできていない」と自覚することも大切かもしれません。私も他の吃音当事者のことを完全には理解できませんし、当然他のことの当事者のこともなかなか理解できません。人間にはテレパシーがないので理解できないこと自体は悪くないと思うんです。ただ決めつけには注意してください。)


吃音の特集を母と見ていたときに「言い換えするの?」と聞かれ、「するよ」と返したところ驚かれたことがあります。
これは「吃音を恥ずかしいと思っていて隠すために言い換えをする」という思い込みが無意識のうちにあったからだと思います。自分も当事者じゃなかったらそうだったかもしれません。
母の様子を見ていると隠すことがいけないことのように思うことすらあります。
でも隠さない(というより隠すのは無理だと思い諦めました)ことが多い私でも言い換えを使うことはよくあります。吃音を打ち明けたとしても、どんなに相手に心を許したとしても言い換えを完全に捨てることはありません。


なぜならエネルギーが要るからです。

タイトルは吃ることの例えです。吃ることは相手を待たせる行為なので心も消耗するし、体に力が入るので吃りが終わったあと息が上がることもあります。
りんごの木が近くに植えてあったとして、おいしいりんごを食べるには脚立に登って取るということをするとします。これが吃るという状態です。
でも毎回そうするのは大変ですよね。
一度に全部収穫してもいいですが、それは会話に置き換えると「事前に用意してあったことを話す」ことに該当します。
吃音がない人は脚立なしでりんごを取れます。
でも吃音がある人には脚立が必要です。ここでいう脚立は随伴症状(言葉を発する前に顔や身体が動く)、力が入る感覚、時間です。

※なお人によっては筆談や文字入力を使用したり、相手に推測をしてもらったりすることが脚立になるかもしれませんがこの場合は時間はかかるけれど言いたいことは伝えられます。ただ感情を伝えるのは難しいし普通に発話するのとはやはり勝手が違います。
真夏に息苦しくなって最終手段として筆談を使ったことはありますが、これはこれで大変さがあります。

長くなってしまいました…。話を言い換えに戻します。

私には理解者がたくさんいますし、隠したい気持ちもないので常に言い換えは使っていません。でも言えない言葉に出会うたび毎回脚立に登ってりんご(言いたい言葉)を取るのは簡単ではないのです。そこで使うのが言い換えです。
脚立がなくても簡単に取れそうなりんごに変えたり、冷蔵庫に入っているバナナでいいと妥協したり、良いものがなけれはその辺に落ちているまつぼっくりでいいと拾ってしまうかもしれません。

りんごが食べたいのにまつぼっくりを拾ってもお腹を満たせません。それと同じように言い換えても言いたいこととは違う言葉を言ってしまったり、違うように伝わってしまうこともあります。これが言い換えです。
吃ることはない人ても言い換え自体は体験ができると思います。
例えば会話をか行禁止にしてケーキと言えないから、スイーツと言い換えるとか。
やらなくていいので想像してみてほしいです。
私の場合はあ行(母音)が言いにくいけれど、なぜか「トイレ」より「お手洗い」のほうが言いやすいのでその表現を使っています。(二文字目がイだからかもしれません)
「お手洗い」に言い換えて10年が経ちます。これで吃ることは減りましたが、治ってはいません。この表現を使い始めた頃最近吃らなくなったねーと言われましたが言い換える語彙を身に着けただけなのです。
10歳の頃にこの言葉を使い始めたので妹に「『お手洗い』って言うの不思議だね」と言われたことがあります。たしかに言い換えの世界を知らない人から見たら変ですよね。10歳の子どもがかしこまらないときでも絶対に言葉を変えず使い続けるのは無理があります…苦笑

言い換えないことにこだわっていた時期もありますが今は開き直って別に使い分ければいいんじゃないと思っています。

言い換えが便利ならそちらを使って、言い換えないほうが伝えられるなら言い換えないでエネルギーをつかってでも言ってみる。
こんな感じです。
たまに言い換えをやめてみたら数年ぶりに言えた!なんてこともあるし、逆に言えていた言葉が言えなくなって新しい言い換えを使うこともあります

もしも吃音の話が現実でもタブーではなくなったら友達や家族に気軽にこんな世界だよと伝えてみたいです。

かなり長く読みにくくなりましたが、言いたいことは言えたので終わりますね。

それではまた~。