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お金の力で幸せになりたい

 いい買い物ができるようになりたい。年を重ねるごとに自分の欲しいもの、必要なものが正確にわかるようになったら良い。けれど、単純な経験のみで買い物上手になれるわけではない気がする。
 
 二十歳そこそこの頃。単行本を一冊出して、次作を出すぞー!と意気込んでいたものの、ほとんどニートだった時の話だ。貯金は二十万ちょっとで、梱包のアルバイトで得るわずかな資金で食い扶持を確保していた。三パック六十七円の納豆を主食にして、本を買うのを我慢して図書館に通ったり、喫茶店に行くのをやめたりして出費を抑えた。バイト先では陶器や掛け軸のような静物とだけ向き合っていたし、家ではパソコンや本ばかり開いていたから、このまま声を失っても支障ないくらい一人だった。寂しすぎる。でも、人に会うのにも交通費が気になる。「会いたいけど、往復で千円くらいかかるなぁ。それなら豚肉と玉ねぎ買った方が」みたいな理由で優しい友達からの誘いをなんども反故にした。段々とLINEすら届かなくなり、文字を通して人と交流する機会さえ減っていった。会えないし、話してない。お金がなくなると孤立する。一人になると心が折れる。これはどうにかしなきゃいけない。一刻も早く解決すべき難題だった。

 悲しい気分にならないように、と焦ったわたしは、とにかくお金をかけずに人と会える方法を見つけなければ、と思った。小さい頃なら、誰かと会いたい時には「公園であそぼう」だけで十分だったのに、高校生くらいから「カラオケ行こう」とか「ファミレス行こう」みたいに何をするか、どこに行くか具体的にしておかないと声をかけにくくなったし、大人になってからは「会って話したい」=「飲みに行こう、ご飯食べに行こう」になった。お財布無しで人に会いに行けない。

 金銭を持たずに人に会いたい、好かれたい、と思った私は、十七万のフルートを買った。
 銀色の高価な笛だ。わりと唐突に買った。フルートなんて一度も吹いたこともないし触ったこともない。フルートの音色が好きだったわけでも、強い憧れがあったわけでも、なんでもないのだけど、切羽詰まって買ってしまった。一人きりの自分を孤独から救い出してくれるのは音楽かも、と思ったからだ。もっと安いフルートもあったけれど、どうせはじめるなら最初からそこそこいいのを持っていた方が良いと思った。

 フルートを買った日は暑すぎず寒すぎない過ごしやすい一日だった。
 引きこもりにならないように散歩していた時、楽器屋さんで「無料体験レッスン」の文字を見かけ、無料で遊べるなんていいなぁ、と吸い込まれるように楽器屋さんに入った。特に何の目的もなく商品棚を見ていると、茶髪の店員さんが話しかけてくる。ごめんなさいただふらっと入っただけなんで、と正直に打ち明けることはできなくて「音楽っていいですよねぇ〜、わたしも何かできるようになりたいな〜」と調子よく受け答えしていたら、「お姉さんってフルートとかやってそうですよね」と言われた。
 フルートとかやってそう。
 確かに、その日のわたしは肩から袖にかけてが黒のレース、胸から下は黒いベロア地でできたワンピースを着ていたから、この格好でフルートを持っていたらなかなかしっくりくるかもしれない。
「あー、フルートとか吹けたらかっこいいですね」と話しかけると、店員さんは「練習したらすぐできるようになりますよ、お姉さんセンスよさそうですし」と言ってくれた。
 確かに。練習すればできるようになるだろう。当たり前だ。やればできる。フルート教室に通うとなると高いけれど、今はyoutubeがある。とりあえず楽器さえ手に入れれば、あとはどうにかなるだろう。
 リコーダーと違ってフルートを鳴らすのは難しいという。ただ息を吹き込んでも音は鳴らず、フルートらしい音色を出すには訓練が必要で、時間がかかると聞いた。顎の方に向かってふーっと息を細く吹くといいらしい、けれど、わたしはフルート未経験者なので、よくわからない。音階をマスターする以前に、そもそも音を鳴らせない。
 十七万の銀の棒を見つめながら、もしフルートが吹けるようになったら、と想像する。
 フルートが吹けるようになったら。
 きっと友達が会いに来てくれる。楽器ができる人間は愛されそうだ。バンドマンがモテるならフルートを吹く女もモテるはず。老若男女に囲まれて森の中にある切り株のステージに立ち、フルートを吹いている自分を想像すると俄然やる気が出た。
 上達すれば、優しい音色に癒されてきっと前向きな気持ちになれる。今のわたしはやっと自著を出したはいいものの、毎日黙々とパソコンに向かうだけで、誰と話すこともなく、使えない原稿を量産するだけの薄暗い日々を送っている。けれどフルートがあれば少しの間その闇から離れられるかもしれない。
 大体、趣味が読書しかないのもよくない。小説が売れればきっといろんな依頼がくるはずだ。もし、「エッセイお願いします」って依頼がきても、今のわたしじゃ読書感想文しか書けない。たいした引き出しもない人間だということがバレてしまう。でももしフルートが吹けるようになったら、フルートにまつわるエッセイを書ける。いつの日か講演会でも話に詰まった時にフルートを吹いて場を和ませられる(講演会の依頼がきたことはないけれど)。
 いいことづくめだ。フルートが吹けるようになればつらいことがあってもがんばれそうだし、小説が売れた時に良いネタにもなる。このフルートはわたしの人生を支えてくれる銀の棒だ。これは自己投資だ。我ながら悪くない計画だ。ただしフルートを習得するには時間がかかりそうだ。だから楽器を始めるなら今しかない。若いうちにやるべきことの一つだろう。二十歳そこそこで気づけたわたしは賢い。今だ、今!!と清水の舞台から飛び降りる気持ちで一括購入した。めまいがしたから、ずっと左手の人差し指の先をぎゅっぎゅと握りしめていた。
 
 家に帰って、ベッドの上で黒いフルートケースを開く。フルートはいくつかのパーツに分解され、薄いビニールに包まれた状態で横たわっていた。直接手を触れるのが怖くて、付属品の布越しにえいっと掴んだ。ぴかぴか輝くフルートはどこからどうみても素敵で、息を吹きかけわたしなんかの唾液で汚すのがもったいないくらいだった。音は出せないけれど、それっぽく構えてみて空気穴を指でぱこぱこ押さえるだけで幸せな気分になる。
 
 フルートが吹けるわたしは仕事もうまくいっており、小説だけでなくエッセイもばりばり書いて、ふと疲れた時には人知れずフルートで何かいい感じの曲を演奏したりして日々を過ごしていくに違いない。公私ともにうまくいく。わたしはこの笛で人生を変えて行くんだ。音楽はわたしを明るい未来に導いてくれる。 
 部屋の中でステージっぽい場所を探してうろうろしていると、姿見に映る自分と目があう。鏡はうっすらと汚れていた。鼻セレブに手を伸ばしたけれど、高いティッシュをそんな用途で使うのは忍びなくて、道端で配っていたポケットティッシュで拭う。
 ちょっとだけ眩しくなって目を細めた。外から差し込んだ明かりが鏡に反射して銀色に光る。すぐ外を走る電車の車内灯だ。ぶーん、ぶーん、と鈍い音が続く。二重窓の中まで侵入してくる車両の音。
 カーテンを掴んで膝立ちになり、線路の方を見つめた。もう帰宅ラッシュの時間は過ぎただろうか。社会で働いてるひとたちは、こうやって家に帰っていくんだな。目をこらすと部屋の中からでも電車の混雑具合がよくわかる。ところであの電車に乗っている人たちからは、この部屋で小さくなっているわたしの姿が見えたりするんだろうか。わたしの方からは、あの人たちの姿が結構よく見える。
 そんなことを考えていたら、我にかえった。
 鼻セレブをケチっている女が、なぜ十七万もするフルートを買っているのだろう。だいたい、吹けないし。フルートを買うのは悪いことじゃない。吹けるようになったら楽しいだろう。けど、買うのは今じゃないだろ。わたしに必要なのは仕事と衣食住だ。間違いなくそうだ。十七万もあれば、当分は孤独に悩まず友達にだって会いに行けるぞ。

 そのことに気づいた途端パニックになり、なんとかして銀の笛を返品した。返品するしかなかった、のに、悲しくて、体がどっと重たくて、フルートを吹いている動画をyoutubeで見ながらしばらくベッドから起き上がれなかった。家賃や光熱費や食費、生活を見失う自分の愚かさに嫌気がさしたし、必要なものの優先順位をつけられない自分は、何一つ素敵なものを手に入れられないまま終わっていくんだろうと思った。

 お金を使って幸せになりたいし、お金の力で素敵な自分になりたい。なのに、自分に必要なものがわからなくなる時がよくあるし、本当に買いたいもの、買うべきものが何かよくわからない。特に不安で目が曇っているときはそうだ。
 あれから歳を重ねて、食費に困っているのにフルートを買うほど我を見失うことはなくなったけれど、今でもたまに失敗はある。二万円以上のものを買うときは今でも怖い。けれど、臆して財布の紐を硬くするのは絶対に嫌だ。大枚を叩くことでしか得られない世界もあるはずだから、必要なところでばーんと勝負できるような心持ちでいたい。後悔しないお金の使い方ができるように、どうにか指針を持てたらな、と思っている。


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いつかまた本が出せたらいいな、と思いながら仕事の合間に書いています。応援していただけると励みになります。

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ちおる

『泡をたたき割る人魚は』とか『遅刻魔クロニクル』とか書いた

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