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社会人としてゴミだった話・後編

モヤモヤを抱えつつ仕事を続けることにした私は、その胸の内を夫に愚痴っていた。
そんな話をたびたび私から聞かされていた夫は、ある日あっさりこう言った。
「そんな仕事なんか辞めれば?」

えっ、いいの?
夫の口からそんなセリフが出てくるとは思わなかった。
なぜなら、彼は独身時代から一人暮らし歴が長く家のことは何でも出来たので、私は主婦としての役割はさほど求められていなかったため、直接的に家計に貢献することを望まれていると思っていたからだった。
現状、家計は逼迫しているわけではなかったが、いざというときに夫を支えるつもりがあるのか、私が信頼に足るべき人物なのか、結婚してからでないと分からない部分を見定められているように思い、私も夫から信頼されたかったため、目に見える形でそれを証明したかった。
私の愚痴の内容は、今日こんな嫌なことがあったとか、どこへ行ってもぶつかる日本の労働環境への軽い批判程度に留まっていたため、かえってそんなことで辞めたのでは頼りにならない証明になってしまうので、あっさり辞めなよと言われるとは予想していなかったのだ。
…もしかしたら私は盛大な勘違いをしていたかもしれない。
しかし夫にそれを打ち明けるのは気恥ずかしかった、何か月も一人相撲でジタバタしていたのだ、しなくてもいい苦労をした挙句に夫に気を遣わせてしまった、あぁ恥ずかしい。
結局言わずじまいだった。
(最近になってあのときはこうだったと言いました)

夫の一言で私の気持ちは退職する方向に大きく傾いていたが、契約更新したばかりだったので、すぐ辞めるのもどうかと思ったのと、「いつでも辞めてやるカード」が手に入ったので、強いと話に聞くこのカードの威力は実際のところどうなのか試してみたくなった。
それで上司に労働契約の内容の一部変更を申し立てた。
先日の契約時とは状況が急に変わったので、あの契約内容での就労が難しくなりました。
つきましてはそれに合わせて契約内容を変更していただくか、難しいようでしたら退職も考えております、と。
私の提示した要望は受け入れられたが(カードの威力は本当だった)、交渉相手の上司はこのような状況に不慣れだったのかもしれない。
普段は温厚で気さくな上司が腹を立てながら、もう契約は結ばれて手続きに入っているんだ、あなたは社会の仕組みというものを分かっていないと教えてくれた。

ほぉーでは何でその社会の仕組みを無視した要求が通ったの?
私が曖昧な笑みを浮かべたまま黙っていたため、さらに激高したのだろう、彼はパワハラとも受け取れる発言をした。
「あなた、そんなんだとどこでもやっていけないよ」とも言われたが、「どこでも」とはあなたが知っている狭い範囲の世間のどこでものことだろう、本当にどこでもやっていけないのだったら私はとっくに死んでいて今あなたの目の前にいないという反論の言葉は飲み込んだ。
ほかにも人格否定めいたセリフを言われている最中だったので、一方的にやられている雰囲気を出さないと、せっかくのこの有利な状況を台無しにしてしまうかもしれない。
ここは職場、相手のテリトリーで私は下準備なしで挑んでいる、向こうは私の申し出を、いったん持ち帰って関係各所に通達、連携してから私を呼び出していたからだ。
申し出てから呼び出されるまでの間、最初の採用時の面接に関わった関係者たちが入れ代わり立ち代わり私のところへ来ていた。
相手の準備はすでに済んでいると考えたほうがいい、用心に越したことはなかった。
私の表情がだんだん曇っていくのを見て、彼は私が弱気になったと感じ、この交渉で有利になったと思ったかもしれない。
彼は、会社は、私に辞めて欲しくなかったので身勝手な要望を飲んだ、これだけのことをしたのだから、私は辞めにくくなり職場に尽くすようになるはずだと思ったかもしれない。
私は本当に弱気にはなっていた、カードの威力を試すという最低限の目的を達成できただけで、この交渉の結果次第では退職の意を翻してもいいかもという淡い期待は叶わなかった。
上司の言葉は少しは当たっていて、彼の知っている範囲での世間で私はやっていくのは相当難しいのかもしれない。
上手くやっていけると思ってたのに。
私は自分自身に落胆していた。
意気消沈している様子の私を見て、上司はいつもの穏やかな笑顔に戻り、「職場のこと、考えてくれるよね?」と言った。
私は力ない笑みを浮かべ、「はい、考えてみます」と答え、彼はそれを聞いて満足そうにしていた。
もちろん言葉通り考えることに同意しただけで、あなたの都合のいいように考えますとは言っていない。
私の手には「パワハラされたカード」と使うまいと思っていた「契約内容が法的にグレーなカード」が握られていた。

後日、正式に退職の意思を表明したときに、今までの経緯から事態がスムーズにいかない場合に備えて、パワハラによる精神的苦痛を受けたが事を荒立てるつもりはないこと、労働基準法に従うことを言い添えておいた。

特に問題なく退職届は受理された。
私は自分の居場所に戻っていった。

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