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ジャック・ザレスキー氏 -試合結果を手書きからコンピューター化へ-

2018年5月初旬、2018 Skate Canada BC/YK Section Awards Eveningにて、7人が2018年度の殿堂入りをしたのですが、その内の一人であるジャック・ザレスキー氏(Jack Zaleski)はOfficial Categoryでの素晴らしい業績を称えられました。それはこれまで手書きであったリザルトのコンピューター化でした。
■7人の殿堂入りリスト一覧→Skate Canada BC/YK Section to Induct 7 Individuals to 2018 Class of Hall of Fame

テッド・バートンさんから「次の(殿堂入りへの)新入会員はフィギュアスケーターではなく、コーチでもなく、ジャッジでもありません。けれども、手際よいプロセスで、私達のスポーツを手書きのリザルトでの世代から、コンピューターによるリアルタイムの結果の時代へと動かし、大きな影響を与えました。」とジャックさんを紹介。トレイシー・ウィルソンさんからは「私達皆にリアルタイムの技術での大きな変革において、そのままの状態でいることにうんざりせずにはいられず、挑戦することを決断し、新しい技術とアイデアを使うことで改良を施すような人、そのような人物こそがジャック・ザレンスキーでした。」と紹介ののち、話を短くしましょうね、と、彼の時代考証を映像で撮ってあるとのことで、私達はジャックさんに、どのようなことが起こったのか、インタビューしましたという話が。続いて、テッドさんから「それがこの、私はどのように始めたか、です。」とそのインタビューのビデオの紹介が。

ジャック・ザレスキー氏「1971年、(カナダの)オンタリオ州ピーターボローにて、ピーターボロー・フィギュアスケーティング・クラブ主催で最後の北米フィギュアスケート選手権(*)が開催され、最終的に女子ではカレン・マグヌセン(カナダ)が、 ジャネット・リン(アメリカ)に勝ちました。
私の上司はこの大会の会長を務めており、彼はフィギュアスケートに興味がありました。当時、彼はフィギュアスケーティングクラブの会長もしており、彼はフィギュアスケートでの結果などの計算が手動であることも、加えて、観客とスケーターが、最終的に誰が優勝者であったか、を知るまでに結果(リザルト)が出るまで一般的に30分程かかっていたことも知っていました。
私達はコンピューター部門におり、総務部長がいて、彼がやって来ると「私達で、この大会の為にコンピューターでの結果のプログラムを作れないだろうか?」ともちかけてきました。
私は「もちろん!」と返事をしました。私達はすぐに幾人かの人達と会い、皆でコンピューターに遠隔からリモートでアクセスするようにし、私達はこれは出来る、と。
これをトロントのハネウェル・コンピューターを介して出来るように手筈を整えると、当時でいうところのダイヤル・アップ・モデムにて、ダイヤルアップ接続の電話で、モデムをプラグインし、コンピューターに接続(**)し、プログラムなど全てのデータは当時、紙のテープにありました。

興味深いことでしょうが、その当時は私達のプログラムのコピーをするのにしても、データを失うにしても、全て紙のテープでありました。コンピューターに入力するのにも、テレタイプ端末(***)でしていたのです。」

- 電光掲示板の応用へ -

「プログラムは長年に渡って改良されつづけ、1984、1985年頃から1990年代頃まで私達は多くのことを試みました。
それらの体験を通して分かったのは、一番には観客の為であるということでした。勿論、スケーター達の為でもあり、なにより大変重要であったのはメディアの為でもあったということです。

その時期、私達がメディアに対しては何が出来たかというと、実際にその場にいるように感じられるようにモニターを使用することでした。それと加えて別に、プリンターからのリザルトと、滑った最後のスケーターが実際に点数を貰う時点での簡易版のリザルトを彼らに提示することが出来たことです。

私達は失敗からの進捗を経て、私のキャリアの中でもハイライトであったのは、現在、多くのアイスアリーナでよく目にする、よくある電光掲示板に私達は実際にスケーターのリザルトを表示に入れて上げ、見えるように接続することを見いだしたことです。なので、リンクにいる観客全員が現在、大会の際に目にするような、滑走順や進捗、誰が最後に滑ったスケーターなのか、リザルトを見ることが出来るようになったことです。
それは大きな業績でありました。」

- 1984年世界選手権での思いがけない一件 -

「1984年のオタワで開催された世界選手権で覚えているのは、その年は(カナダの)ポール・マルティーニ&バーバラ・アンダーヒルが、その大会のペアで優勝したことです。
それは忘れられないのです、なぜなら、彼らが滑り終わった後、リンク内で観客全員が飛び上がって喜んでリンクの脇のウォーキングエリアにて歩き廻りました。その際、彼らが何をしてしまったかと言えば、そこにあった私達のコンピューターの電気のプラグを誤って抜いてしまったのです。
コンピューターとの接続が切れてしまい、私達はリザルトを生成することが出来ず、プラグを入れて電源を入れなければならず、システムを戻し、コンピューターにサインインし、リザルトを提示し大会の最終得点を出すのに再度採点を入力しなければなりませんでした。
思い出すのは、絶対に忘れることが出来ないのは、ポール・マルティーニが心配そうに上を向いているのを見ていて、CBCの解説が『さて、最終結果がどうだったか見てみましょう。』と言ってから、そこから継続して、彼ら、バーバラと彼が金メダルを取ったことを知るまでに、約5分ほどかかったことです。」
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【当時の参考動画】1984年世界選手権   ポール・マルティーニ/バーバラ・アンダーヒル組 LP
■その1 
・Barbara Underhill & Paul Martini - 1984 Worlds Pairs LP(UKTV)
https://www.youtube.com/watch?v=ReTmpfiimoc&feature=youtu.be&t=4m40s
■その2
・Underhill & Martini (CAN) - 1984 Worlds, Pairs' Long Program
https://www.youtube.com/watch?time_continue=292&v=6MKOyGh-Ws8
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表彰を受けるジャック・ザレスキー氏。(左からリアム・フィルス、ジャック・ザレスキー、ラーキン・オストマン、テッド・バートン)

スピーチをしようとしているジャック・ザレスキー氏。(右はトレイシー・ウィルソン)ジャック氏曰く、スピーチ冒頭で「私の妻も含め、多くの人に、私のスピーチはユーモア溢れたものであるか、又は『手短で』あるべきだ、と言われました。(※会場から笑いが)そして私は『短くする』ことを選びました。ここに居る傾聴して下さる皆様のために。」と言って笑いを誘っていました。その後、感謝の意とこのような素晴らしい機会を持てたことは名誉であることなどを述べられていました。
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【補足】
■補足1 (*)北米フィギュアスケート選手権(North American Figure Skating Championships)は1923年から1971年まで、2年に一度、米国とカナダから出場の選手にて開催されていた大会。開催地は米国/カナダにて交互に開催されていた。大会は1973年には米国ニューヨーク州ロチェスターで開催されるはずだったが、カナダ・スケート協会が突然、参加をキャンセルしたことから開催されることはなかった。(理由の幾つかとしては、ジャッジ内での国ごとのスケーターに対する偏りの懸念や、この大会が世界選手権の直前での開催だった為、両国共トップスケーター達が出場したがらなくなっていた背景があったそう。)事実上、カナダ・スケート協会はこの時、既に協会独自の国際大会を開催するプランを立てており、1973年の秋には最初のスケート・カナダ・インターナショナルが開催された。米国フィギュアスケート協会も同様に、協会独自の国際大会を設立、1979年秋にスケート・アメリカは開催された。
■補足2 (**) ※昔懐かしいダイヤルアップ接続音の「ピーヒョロロロ~ 」という音がインタビューの効果音にされている。
■補足3(***)テレタイプ端末(電動機械式タイプライター)は、印刷電信機、テレプリンタ、TTYともいい、今日ではほとんど使われなくなった電動機械式タイプライターで、簡単な有線・無線通信回線を通じて2地点間の印字電文による電信(電気通信)。電話会社から専用線を借り、そこに文字データを流す仕掛けであった。送信側はデータを紙テープに穿孔(せんこう)し、これをテープ・リーダに掛ける。受信側は受けたデータを紙テープに穿孔して出力して使用していた。
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【参考動画】
2018 Skate BCYK Awards Evening
http://www.dailymotion.com/video/x6iyne9
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