見出し画像

ドナルド・ジャクソン伝記(その1)パットとジョージ

[1962年世界選手権にて3Lzを初めて跳んだドナルド・ジャクソン氏について書かれた本より抜粋]  

父親の名はジョージ・ジャクソン。母親の名はパット・ジャクソン。
1935年当時、結婚した二人であったが収入をどこから得るかに苦慮していた。ジョージはオシャワ【※Oshawa、カナダのオンタリオ州の都市】にあるロブソン・レザーで40セントより少ない時給で働き、パットはそれにまして少ない額で、弁護士のために働いており、気落ちする日々であった。
経済的な気がかりは家族を養うにあたっての危惧へと直結していった。

1年後、パットは数か月の妊娠後に、初めての子供を亡くした。
医者は二人はゆくゆくは子供を持つことが出来るだろうが、再度試みるには少なくとも3年の月日を待たないといけないだろう、と告げた。

彼らは待った。

1939年、医者はパットにGOサインを出した。今度は、まだ問題を抱えてはいたが深刻なものでは無かった。
1940年の4月2日、早産にてドナルド・ジョージ・ジャクソンは生まれた。
ほんの約1.8Kg(4pound)の重さだったので、産後の特別な処置を必要とした。
6週間後、母親のパッドは大いに心配しはじめた。ドン【※ドナルドの愛称】の鼠蹊部に「こぶ」ができていたのだ。医者は二重のヘルニアと診断し、パットとジョージにヘルニアはそれ自体で治るだろうが、ドンには動きを制限する特別な固定するきつい服を着せて、完治する経過の機会を与えた。
それは良い意見ではあったが、上手くはいかなかった。
固定され、動きを邪魔されていた為、ドンは15ヶ月まで初めて歩くことが出来なかった。

しかしながら、一旦歩き始め出すと彼は活発なつむじ風のようになった。
痛ましいことであったが、彼は2歳半まできつく固定した服を着た。
けれど、その後、他の病院の診察にて明らかになったのは、ヘルニアは完治していなかった、ということであった。

医者達は状態を正しくするのに、手術が必要だと勧めた。
だが、医者達はドンが二度と激しい運動を伴うスポーツをすることが出来なくなることも加えて示唆したのだった。

この知らせは、両親である二人の心を打ちのめした。

現在、2人目(ビルと名付けられる)を妊娠し数か月目であるパットはスポーツ好きであった。
以前、競技に参加していた類いまれなランナーであるジョージも父親として、最初に生まれた息子が同様にスポーツを楽しむ未来図を描いていた。
しかし、彼らはもしかしたら医者達も間違えることがあるのだ、と学んでいたのだった。

母親のパットは2人の息子(弟であるビルは生後2ヶ月)の面倒を見る為、仕事を辞めた。
加えて、ドンの手術の成功した6月28日以降、彼女はてんてこ舞いだった。
ドンは動きを固定した発電機のようだったが、今や「スーパー」発電機となり、木に登るのがお気に入りで、ベッドやソファをトランポリン代わりにおもちゃと遊んでいた。

一度は、彼はもう二度と運動選手らしい人生は送れないことを心配したが、今では彼らは、彼を懸命に落ち着かせるのに躍起になっていた。
しかしながら、彼らが彼の勢いよく燃え盛る活力を制限することは出来ないのは明白であった。

唯一、彼らがドンを座らせることができたのは、食事の時だけだった。
食卓のテーブルですら、彼は十分足りてない、といつも一番多い量の食事と一番大きいケーキの分け前を欲した。

彼のテーブルでの滑稽な仕草は、母親であるパットに『僕が一番先(Me First)』という目に入るものを何から何まで、何百とある腕でいつも掴んでしまう漫画のキャラクターになぞらえさせた。

彼が4歳になる前に、しょう紅熱はドンを少々落ち着かせたのではあったが。
オシャワにあるシムコ通りユナイテッド教会の日曜学校では、世界チャンピオン級に落ち着かずにそわそわ、ぴくぴくと動く子で、セントラル通り公立学校でも同様であった。

グレード1【※Grade1、日本の小学校1年生にあたる】でメアリー通り校へと転校し、『僕が一番先』といわしめた彼のランナーとしての脚の速さをクラスメイト達に対して証明し、彼の父親を大いに喜ばせた。しかしながら、その彼の初の栄誉は、彼の母親に針仕事をもたらしたのであったのだが。

          □       □       □

1948年3月、ちょうど8歳の誕生日の前、『僕が一番先』なドンは息を切らせながら学校から帰宅し、母親にメアリー通りで冬のお祭りがあることを知らせた。お祭りの一つに、仮装大会が催されるのだ。

けれどそこにはきっかけがあった。一人ひとり子供はスケートを履いて現れることを期待されていた―――その頃、学年がグレード3【※Grade3、日本の小学校3年生にあたる】で8歳のほとんどのカナディアンの子供達は各自、自分のスケートを持っているのを踏まえてのお決まりのリクエストであった。
まだその時点では、『僕が一番先』な彼はスケートを履いたことすらなく、まして自分のスケート靴も持っていなかった。

母親のパットは近所に尋ねて回った。
彼女はホッケー靴を借りられることが出来、ドンはお祭りで彼女が縫ったスノーマンの衣裳で現れることができたのだった。
真っすぐに立つこともままならなかったのだが、ドンは仮装大会が始まると『ベスト・漫画の衣裳』の部で賞を獲得した。その後にめいめいのクラスはスケートの競争をした―――そしてドンのブレードでの不器用さは勝負にならなかった。それはきちんと座り、『僕が一番先!』といったものではなかった。

お祭りから帰宅すると、ドンは母親にスケートを習って、来年はレースで勝つのだ、と言った。その要求はすぐにもっと真剣味を含むようになった。

1ヶ月経たないうちに、父親のジョージはバーバラ・アン・スコットのスケーティング・ショーを観に、家族をトロントへと連れて行った。

【バーバラ・アン・スコット(1948年サンモリッツオリンピック女子シングル金メダリスト)
参考動画:BARBARA ANN SCOTT IN TORONTO - NO SOUND
https://www.youtube.com/watch?v=ZQYFUBNgB7Y

スタンドに座り、ショーを堪能していると、『僕が一番先』なドンは突然、座席のへりに座った。彼の口は、ショーの男性スターであるドン・トービンによる俊敏でありながらも優美なフリースケーティングの出し物を目にし、畏敬の念で即座に開いた。トービンが拍手を受け、リンクを後にするとすぐに、『僕が一番先』なドンは彼の両親へと振り返り、
「僕、ただスケートを習うだけじゃなくて、あんな風に滑りたい!」
と言った。
どんな問題があっても、彼の熱望しがちな傾向に気付き、夏が近づいていたのを考慮し、両親であるパットとジョージはただ同意するようにうなづくと、意図的にそれを心の外へと押しやった。
けれど、『僕が一番先』なドンにとって、スケーティングは夏が終わるまで忘れ去られることは無かったのだった。

熱風にうだる夏の真ん中で、ドンは家の近くの小川沿いを歩いていると、ご近所で数歳年上のデイビット・ロウリーという少年と偶然出くわした。
二人はスポーツについて話し始め、デイビットは彼にオシャワ・スケーティング・クラブのメンバーであると話で触れたのだった。ドンはピンと聞き耳を立てるようになると、怒涛のように矢継ぎ早にクラブやスケートを学ぶにあたっての懸念について質問を浴びせたのだった。
熱心な質問の集中砲火をひとしきり聞いた後に、デイビット(彼は後にカナダのジュニアのペアチャンピオンになるのだが)は、ドンの両親にドンをクラブへと入れるようにしつこく言うように勧めた。なぜなら、そこが地元ではどんな種類の真摯さであれ、スケーティングを突き詰めることが出来る唯一の場所であったからであった。
ドンは聞いたことを家へと持ち帰った。
日々が経ったが、ほとんど彼はスケーティング・クラブに入ることを尋ねることは無かった。
デイビットと話しをした後に、パットとジョージはドンを1948年の冬の講座に入学させようと決心した。

彼らはドンに、一足の女子用のフィギュアスケート靴を購入した。
『僕が一番先』なドンにとって、スケートの経歴はほとんど始まっていなかった。ドンは『女子のスケート靴』を一瞥すると、彼は絶対にとにかくこのような靴では滑らない、と宣言したのだった。
父のジョージによる素早い塗装は、スケート靴のイメージをがらりと変え【※注1:黒へと塗り替えたものと思われる】、その結果、9月にはドンは準備が整い、彼の最初の夢の実現に向けて、長い間かかったスタートをようやく切る運びとなったのだった。

彼の初めての数回での氷との体験は、非常に臆病でおどおどしたものであった。滑りやすい氷上では自信のないドンは、ボードにしがみつき、足を引きずってリンクを滑り回り、正しいバランス感覚を養おうとしていた。それには長らく時間はかからなかった。

母親のパットはスタンドから辛抱強く見守り、『僕が一番先』っ子はある日、彼女の注意を引くために呼ぶと、彼自身をボードからぐいっ、と押して離れてのけたのだった。
「ママ!見て!僕、滑れるよ!」
彼はそう呼んだ。
パットは誇らしげに微笑むと、ドンは前方によろけてすごい勢いで少しつんのめった。彼女はまた、その日に彼が選手である間ドンの顔から決して消えることの無かった満面の笑みに気が付いていた。折りしも、パットを最も心打ったのは笑顔の裏に描かれた固い意志を見たことであった。

2ヶ月が経たない内に、クラブは毎年恒例のクリスマスのスケーティング・パーティを開催した。とりわけ、年上のグループが若者たちと競争するものがあった。8歳半であるとドンは「8歳から11歳」の部門で滑るはめになり、彼の年代層の歳が上な少年達には、体格、強靭さ、経験も随分と負けていた。
それでも、彼はレースに呼ばれると、最初にスタートラインに立ち、決して希望を捨てること無く、1番手へと飛び出した。
観客席で座っていたパットとジョージは、彼らの激しい有り様に動揺した為、普段のように親らしい誇りに浸ることなど無かったのだった。

その後、彼らはドンにクラブのプロであるナン・アンスワースに当時15分75セントの料金で付き、一週間に1回のフィギュアスケーティングのレッスンを取ることを決断した。

さらにドンは、アレックス・フルトンの元でグループレッスンも継続して取った。そのレッスンは主にゲームを通して滑り、アレックスは巨大なグループレッスンにかり出されており、そこでドンはどう滑るかを学んだ。
グループレッスンは唯一、オシャワのクラブの大きさでの多くの子供達を一斉に教えることが実行可能な意義があった。
トロントとオタワの間で唯一の大きいスケーティング・クラブであったことから、クラブはそのプログラムには350人より多くのメンバーを保持していた。

グループレッスンでは、アレックスは(早々とドンが最も名人と成るのだが)障害物のコースのシリーズに雇われていた。
ドンもまた、後ろ向きに滑るのを素早く学んだ。これと、彼の障害物コースでの才能は、彼をクラブの毎年恒例の冬のお祭りでの勝利へと導いた―――楽勝であった。

この名誉はドンにどこでも彼が見つけられると、余計に滑走時間を探す原動力となった。

冬の週末には、パットとジョージはしばしばドンと弟のビルを叔母のもとにある凍った池へと滑りに連れていった。
パットはまた、ドンを様々な学校のリンクへと巡って連れていった。

ある日、彼女はドンがクラブで習ってきた両足でのスピン(※クロスフットスピン)の練習を目にしたのだった。
彼の容易で巧みに操る姿に、他の子供達が皆、見るために滑るのを止めてしまう有り様であった―――パットの中に奥深く誇らしい気持ちが沸き上がったのも事実である。

ドンはお祭りのアイスショーで演技するその大事な日の為に、コツコツと自分の役の練習を積んでいた。
しかしながら、病気が再び彼を遅らせた。
2月にドンは肺炎にかかったのちに入院し、それは彼が初めて得た役とお祭りを見送らせることとなった。
それは他の方面でも酷い冬であった。
パットとジョージ、ビルの三人全員がその後2~3ヶ月間に違ったタイプの肺の伝染病にかかり、病院で寝込むこととなったのである。
当初、入院の予定など考慮していなかったジョージは経済的な補助の為、4人の引き続いてやってくる病後の健康回復期の厄介な費用にあてがう為に、ヴェテランズ・ランド・アクト【※Veterans' Land Act、元軍人が兵役から帰還した際に生活の基盤を立てるのに農場を買う為のローンの補助などを助成するもので、主に第一次世界大戦の帰還兵などに利用された。しかしそれに伴う多額の借金と農場の状態が思わしくなく、戦争続きで購入した土地を捨てざる得ない者も多数いた】にて購入し所有していた幾つかの土地を売るはめになった。
家族全員へ感染が起きたことを危惧し、リンクが家族皆が唯一、定期的に一緒に過ごす所だったことから、何かがそこに在るのでは、と彼は考えた。
担当の医者はジョージのリンクについての不安を察知し、その影響と手早くそのような仮説でドンのスケートをやめさせないように促した。
夏は近かった。休養と暖かい気候が彼ら全員を救うことになるのであった。

          □       □       □

1949年の夏の間、ドンの注意は競技場トラックとカブスカウト【※ボーイスカウトの下で8歳から11歳】に向いていた。彼は『僕が一番先』な肩書きは大きくなったが、それによっての野心ある気構えが大きくなることはなかった。
彼は安定して参加した徒競走で勝利しはじめていた。
それはドンにとって早すぎることではなかった。けれども、秋が近づき、クラブではまた他のスケートのシーズンの始まりを告げた。

経済的な心配とドンの才能と真剣さの慎重な熟考の末、パットとジョージは彼のプライベートのフィギュアのレッスンを一つ増やし、各週あるプライベートのフリースケーティングのレッスンも追加することを決めた。
このニュースは、ますます上達する機会が増えたことを意味し、ドンを至福の状態にした。

前年、ドンはなぜ氷上をあちこちへと自由に滑ることをせずに、小さい区域で15分間、円形を回らなければならないのか、とコンパルソリーを理解するのが難しかった。
一つのフリースケーティングのレッスンで、彼は現在機会を得た。けれど、フィギュアスケーティングのレッスン【※コンパルソリー】はすぐに際限なく終わりがないよう見えてならなかった。
彼は頻繁に壁時計を盗み見し、レッスンの終了時の合図とフリーのスケートレッスンの開始を心待ちにした。

冬の初めまでに、彼は再びクラブの理事たちに認められ、クラブのアイス・フローリック【Ice Frolics、氷上の戯れ】ショーの引率を任された。以前のように厳しい練習をし、彼は再び病気でショーに出れないことになるまい、と誓った。けれど、少年達は遊ぶのが好きである。役を任命された後、一か月経たないうちに、ドンは追いかけっこをしていた。リンク外で女子を追いかけ、彼は出口の向う側に置いてあった横木へと初めてぶつかったのだった。
茫然として彼は泣いてしわくちゃになり、額には血がしたたり落ちた。
彼が追いかけていた女の子の怖がる悲鳴に、プロの一人がアクシデントに注意を喚起した。彼は傷の手当てをするよりもむしろ、ドンの足を引っ張ると外に出て、滑るように試みた。それはしばしば氷でのアクシデントのあとでの沿ったお決まりであった―――すぐに立ち上がり、再び動くための。
頭を打ったことで、ドンはスケートするべきでないかどうか彼が感じるかでは、ありそうで無かった。
ともかく翌日、彼はまるで何事も無かったかのように氷上へと戻った。

アクシデントのすぐ後、ドンは10歳の誕生日を迎え、初のフィギュアスケートの大会の参加に向けて準備をしていた。
これはノービスのイベントで、オシャワのスケーティング・クラブが開催した。一年前のレースの際には、彼は大会の日が近づくのに緊張し不安な面持ちはなかった。大会では、めいめいのスケーターは氷上へと出て、2分間の用意された音楽で滑走する。

ドンの番になり、始まった曲は『Red Bean Polka』で、規定されている2分後に止まる代わりに彼はただ曲が終わるまで滑り続けた。
彼の即興の出し物に、彼は冬の間、学校のリンクで上手に出来た簡単な両足でのスピンを試みた。
けれども、彼がスピンのためのポジションへと移行した時に、彼の足は交差した姿勢で固定されるように見えるまでに氷に沿ってつるりと滑った。
一度は不本意な形で止まったが、再度始めると彼の本来のバランス感覚を要すると、ドンはゆっくりとクルクル回る足の位置を保持した。

年上のスケーター達はそれを見て驚いた。
彼らは、彼が難しいクロスフットスピンをやっていることに気付くと、彼にそのまま続けるよう叫んだ。

彼が自然に成し遂げたことに気付いておらず、喜ばしいアドバイスと勇気づけられたことから彼は出来る限りスピンの勢いを保ち、続けて見せた。
彼は満面にすっかり楽しんだ、あの特徴のある笑顔で―――彼がクラブの象徴的なノービス最高位のトーキン(Tonkin)トロフィーで優勝すると分かるとすぐに戻って来るだが―――滑り終えた。

          □       □       □

勝利はまもなく脇役を務める3月のアイス・フローリック・ショーの準備をもたらした。ドンは彼の役を初めて観客達の前でそらで、良く演技できると分かっていた。観客には普段通りに両親であるパット、ジョージと弟のビルも含まれていた。
ドンはサーカスの座長の衣裳を着て、氷上を陽気に疾走し回った。
ショーは興奮のるつぼの中でお開きとなり、ドンは度を越した熱で身体全体が火照っていることを忘れてしまった。

翌日、ドンは大量の汗をかき、眠りから目を覚ましたので母親のパットは大変うろたえ、医者を呼ばないといけなかった。
ドンは昨夜、高熱で滑っていたという事実が再度確認・診断された。
彼はおたふくかぜにかかっており、少なくとも一週間は寝込むだろうとのことだった。
この知らせはドンを病気にかかったことそのものよりも、それだとこれからクラブであるスケーティングのテストまでも不参加になってしまう、ということに腹を立てた。

いったん治ると、ドンはなおも一層、全てのレッスンに熱心になり、ひと月後にある彼にとって初のコンパルソリーのレベルのテストの挑戦に向けて、彼のプロに付き、研鑽を積んだ。
これは国内と国際大会出場の為の資格へと辿り着く、初のステップアップであった。
その時は誰も分からなかったが、そうなるには当初、長い間多大な努力がかかったのだった。

ドンはとても小さく、華奢な体型で氷上にて図形をトレースすることから強い印象を与えるには到底難しかった。
その日、テストには3人のジャッジのうちの2人が携わっており、その2人はディックとパッツィ・マクローリンであった。2人はスケーティングと試合の審判では、かなりの経験を持っていた。
ディックはクラブの理事長で、のちにカナダのスケート連盟の会長となる。
他にも負けず、彼はパッツィがシニアの大会で2位の時に、カナダ国内のジュニアの大会にて優勝している。
ディックとパッツィの二人は、ドンの素晴らしいスケーティングの才能にすぐに気付き、氷上を真っすぐに滑って行く彼の身体の流れるような動きを観察していた。

しかしながら、彼らには基礎のコンパルソリーフィギュアはスケーティングでは最大に重要であった。
その結果、彼らはドンをテストで落第させた―――この事実は彼をあまり落胆させなかったように見えたが、彼の両親をがっかりさせたのだった。

彼らの失望した時間がドンのスケートでのキャリアを心配し、いかなる決定にも余波する前に、ナン・アンスワースはパットとジョージに、あなた方の息子はカナダのチャンピオンになる素質がある、と説得した。
彼女はドンを追加の練習と指導に夏のスケーティングのサマースクールへと送るか真剣に検討してみる、と言った。

コーバーグ【※Coboug、オンタリオ州にある】はその頃、夏のスケーティングスクールが開かれていた。ナンはプロのインストラクターの一人として居た。
パットはしかしながら、どこかコーバーグでドンが4週間の間、滞在できるかもしれない場所を尋ね始めた―――その時には彼女と父親のジョージはサマースクールを受けさせることを決断していたのだった。

彼らはデイブ・カーとその妻のところに部屋を見つけたが、オシャワへの帰路の途中に父親のジョージは4週間の滞在費と部屋代、加えてレッスン料の家族への経済的負担を踏まえ、考え直すように苦言した。
しかし、母親のパットは彼にこの犠牲には価値があるのだ、と彼を説得しようとした。彼らは彼らの家に戻ってもまだ話し合いをしていた。

電話が鳴った。

それはコーバーグの電話交換手からで、ジョージ・ジャクソン夫人宛てであった。パットは受話器に返答した。デイブ・カーが電話に出ていた。
彼女は当初、車に便乗するつもりだった件だと思った―――カー夫妻は考えを変えたのだが。
それは正反対の件で、彼らの経済的な問題を解決する手だてであった。

デイブは、もしパットがコーバーグへ来て夏の間、スケーター達の料理や家事全般を手伝ってもらえるなら、彼女とドンの二人の滞在費は無料に出来るという提案であった。
もはや、経済的な苦慮は去った!ドンは当初の予定であった4週間から、今や8週間滞在することができるようになったのだった!
「私、行きます!」彼女は返事をした。

その夏の間じゅう、ドンがスケートを滑るために彼女は床を磨き、皿を洗い、料理を作った。夏の間、ドンは第一レベルのコンパルソリーテストに2度の挑戦をした。2回共、彼は落第した。
この時に、パットとジョージ(いつでも可能な限り、弟のビルを連れてコーバーグへとドライブして赴いた)は絶望しはじめていた。
もし、ドンが第一のテストに受からなければ、カナダのチャンピオンは言うまでもなく、一体どうやってキチンとしたフィギュアスケーターにすらなれる望みを持てるというのだろうか?と。
けれども、母親のパットは息子を信じ、疑念を受けつけなかった。
彼女は、ジャッジ達に彼は競技について真剣である、と話した、とドンに伝え、ドンの自信を支えるように努めた。
彼女とジョージはジャッジ達がただ「寛大に気前良く与える」目的だけで彼を合格させてしまうのを望まなかった。

その時、ディック・マクローリンは世界のトップスケーターの一人がカナダに来て、オシャワ・スケーティング・クラブのプロのチーフになる交渉で忙しかった。
契約がついに終結すると、ディックはクラブのメンバーへ知らせを送った。
その通知には、新しく入ったプロからレッスンを教わるためには、生徒たちは特別な名簿リストに仮予約するように、とあり、その名簿リストが一杯になり次第、申し込みは締め切らせてもらいます、とのことであった。
パットはすぐさま、ドンの名前をリストに記入した。
その時、彼女は知る由もなかった―――新しいプロが一流で、おそらくスケーティングのスタイルに素晴らしい影響や心構えを与えるだけでなく、ドンのキャリア全部に渡って影響することを―――。(その2に続く→)

□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
【※注1補足:年代は後になるが、現在とは違い、男性用のフィギュアスケート靴を容易に手に入れられなかった為、トーラー・クランストンの本の中にも最初の頃、同様に父親の手で白い靴を黒に塗り替えた話がある】
参考一覧
・"Donald Jackson : king of blades" by George Gross
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□
←ドナルド・ジャクソン目次一覧へ戻る
□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□