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夢占いで心の安定を図る

体調が悪くなると必ず怖い夢を見る。
怖い夢を見るから体調が悪くなるのかもしれないが。


先日見た夢は、
食べていたハンバーグがカブトムシに変わる夢。
確かに自分で作ったはずなのに。
気づいたら脚が生えていた。


父親が
「そっちの方が美味しそうだから頂戴」
と言ってくる。
私は冷蔵庫に残ったカブトムシハンバーグを
父親に差し出す。
彼は美味しそうに食べている。


今度は父親から
「作り方を教えてほしい」
と頼まれる。
冷蔵庫から肉を取り出すと、
なぜか肉からエビの尻尾が生えていて、
隣にいた父親が母親に変わっていた。


そこで気持ち悪くなって目が覚めた。
すぐに「夢 虫を食べる」とか「夢 カブトムシ」
を検索する。
どうやら今回は吉夢らしい。


吉夢に越したことはないのだが、それが良くない意味であったとしてもかまわない。
怖い夢を見てしまう私は夢占いで心の安定を図っている。


なんというか、「定義」が欲しいのだ。
いきなり自分の食べていたハンバーグがカブトムシに変わって、それを父親が美味しそうに食べていて、途中から母親に変わって、エビの尻尾が生えた肉を調理する、なんて夢を私は抱えきれない。


せめて
虫を食べる→ストレスが乗り越えられるかも
カブトムシ→吉報の予兆
ぐらいの「定義」や意味合いが欲しい。


「抽象的なもの」「曖昧なもの」
が私は怖いのだと思う。
不確かなものを、そんなこともあるさー、と
受け入れられない。


たかが占いかもしれないけれど、
当たらないかもしれないけれど、
意味があると言ってもらえるだけで心がだいぶ楽になる。


でも世の中は「抽象的」なもので溢れている。
それを具体化する必要があるものもあるけれど、
曖昧なままで存在させていても良いかもしれないし、時にはグレーと呼ばれる必要がある場面だってたくさんある。


人の心や気持ちは、
これだからコレ、それだからソレ、
というような定義や決まりはない。
私が怖がる「抽象的」なものの1つかもしれない。


だから怖い、だけど面白い。
私も「抽象的」な存在の一人。
私自身も怖い存在であり、面白い存在。


「私が存在するのに、絶対的な意味は必要?」
こんな抽象的な疑問を考えることを、新年の抱負にしてもいいですか?

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