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17歳でテニスの道を選んだ背景(1)幼少期

無謀とも言える過酷な道を選んだ僕のストーリー

第2回の記載です。まずは自分のことを知ってらもらうために、自分のストーリーを伝えたいと思います。どういう経緯でテニスの道を選んだのかを知ってもらいたいです。最初の投稿を読んでいない方はぜひそっちも読んでください!

1996年3月11日、東京生まれ。双子の兄がいます。

幼稚園はご存知の方もいると思いますが、バディスポーツ幼稚園というスポーツに特化した幼稚園に通っていました。
体操、サッカー、バスケットボール、スキーなど色んなスポーツをしていました。
その中でも特に僕は体操とスキーを多くやっていました。サッカーも好きでやっていました。
スキーは冬になると毎週末、冬休みは1週間の合宿。小学生になるとオフシーズンはインラインスケートなどの練習もしました。

体操は特に得意でした。

幼稚園からバク転などをしており、全国のバディ幼稚園の大会などでは種目によっては常に一位から3位をキープしてました。床が得意で床は一位に何回もなった覚えがあります。もう一人のライバルと、自分の双子の兄といつも順位争いという感じでした。体操でオリンピアンになれる可能性は十分あったと思います。


どのスポーツもそうですが、オリンピックに将来出るために練習となると、小さい頃からほぼ毎日の練習が必要となってきます。

僕は体操は週に数回しかやっていませんでした。当時の幼稚園のコーチにも週に5回体操の練習に来い、と言われましたが家族は反対しました。 僕も体操に縛られた幼少期は送りたくなかったんだと思います。もう一つ理由は、身長が小さい大人になってしまうからでした。体操は体に負担を、かけるため成長を抑制します。
小学生からはセントラルスポーツという体操教室に週一で通い、体操選手になるというゴールは持たずに、続けました。
全国のセントラルスポーツの大会では床競技で5位入賞しました。

体操選手になりたいと思ったことはありましたがそこまで強くは思っていませんでした。
中学生まではサッカー選手かスキー選手、または両選手になりたいと言うのが強い夢でした。

サッカーも週に二回ほどしかやっていませんでしたが、サッカー選手になりたいと言う思いでやっていました。幼稚園から小学校四年生まではバディサッカーチームで練習していましたが、途中から地元のチームに変更しました。
入った直後にフットサルみたいな試合があり、5点くらい得点したのを覚えてます。バディでは周りと比べて練習量も足りず、活躍はできませんでしたが、地元のチームに移ってからは活躍もしてサッカーが楽しくなりました。
バディのサッカーチームのをやめる少し前に、サッカーの監督でもあり、バディ幼稚園の創設者、園長先生が親にこう言っていたのを未だに覚えています。
“あの子たちはバディ幼稚園始まって以来の運動神経の持ち主だ”
そのとき、サッカーチームをやめないで、週に一回でも多く練習にきてほしいと言われて、そのあと一年間、小4までチームに残って練習しました。
サッカーは大好きでしたがサッカーだけを毎日やることはできませんでした。

習い事は他にも沢山していたので何か一つに特化することはできませんでした。小学生、中学生の頃は、サッカー、スキー、体操、以外では、空手、水泳、そろばん、バイオリン、ピアノ、英語、と沢山の習い事をしていました。両親は、自分と双子の兄の教育に、お金もちではないのに色々やらしてくれました。親には本当に感謝しきれないほど感謝しています。習い事や将来の留学のために全てのお金を使ってくれたため、小さい家に住み、日常生活は決して豊かではありませんでした。

バイオリンとピアノはずっと3歳から高校3年まで習っていました。
空手は黒帯、英語は中学3年生の初めには二級をとりました。ほかの習い事でもかなりうえのレベルまでいきました。

今とは違って本当に成功するためには一つに絞って毎日やらないといけないという現実の実感が自分にはありませんでした。

なんでもやればできてしまう、ひとの半分以下の練習量でも同じかそれ以上できてしまうという所があったので、一つに絞って本気でやらないと夢はかなわないという概念があまりなかったのです。


中学生になってからはスポーツも習い事も辞めずに続けました。勉強もテストの2週間前となるとものすごい頑張り、テストの結果、成績も学年上位をキープしていました。
部活はサッカー部に入って、文武両道の中学校生活を送っていました。

冬になるとスキーのシーズンなので、サッカー部の練習の参加があまりできなくなり、その理由で試合にも出させてもらえなくなりました。自分がベンチで、初心者が試合に出たりするようになり、悔しかったです。もともとチームプレーがそんなに好きではなかったのですが、中学生になってからチームメイトも自我が強くなり、試合に出させてもらえないのに加えてあまりサッカーが楽しめなくなりました。
チームプレーは自分に向いてないのかもとも感じ始めました

自分にはスポーツだけではなく学業の道もあったため、アスリートになるという道から次第に遠ざかってしまいました

親は自分がいい大学を卒業することを期待してると感じ始め、自然に夢はアスリートになることではなく、東大、アメリカやイギリスの名門大学を卒業することかわっていきました。世界のトップの大学をでて、親孝行したいという気持ちがうまれました。


この後、イギリスの学校に寮生活することを決意します。まだ肝心なテニスの話が出てきていませんが、いつどのようにして初めて、どうしてテニスプレーヤーになることを決意したか、イギリスの学校に通い始めた話から、パート2でお伝えしたいと思います。

ここまで読んでくださりありがとうございます!未だ僕の最初のノートを読んでいない方々、是非僕のプロフィールに訪れて読んでみてください!

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