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禅僧の「増一阿含経31-5」講話メモ書き2日目

今回は前回の続きから講話を始めました。

以下、今回の講話会で触れたところを、要点だけまとめてみました。

精進

まず前回の復習を兼ねて、精進についての説明をしました。

勤加精進者。與調戲蓋相應。設復懈怠與結相應。

SAT大正大蔵経テキストデータベース

精進というのは、ただ闇雲に頑張るという意味ではないということが読み取れます。これは私的には、このお経の前半部の中心になっているテーマだと考えています。

文章としてはこちらで既にまとめているので、よろしければご覧ください。

前回に続いて、「蓋」や「結」という煩悩について触れました。前回まとめていなかったので追記しておきます。

結に関して、私がイメージするのは、固結びになって、解けなくなってしまった状態が「結」というわけです。

コンセントなど適当にほったらかしにしておいて、知らない間に絡まっていたなんてことないでしょうか?

この話のそういう意味で捉えることができます。

訓読みすると、蓋ふたと読めることから、自分に蓋ふたをするイメージが思い浮かびます。

善くない精神状態によって、心が覆われてしまい、自分に蓋をして閉ざしてしまう。

この話の場合、心にふたをして周りの声が聞こえない状態になっていると考えればよいでしょう。

例えばgoogle翻訳のように、片方に日本語の言語を打つと同じ意味を持つ別の言語の単語がもう片方に表れます。この時、片方の言語ともう片方の言語が同じ意味、「○○=○○」といったように考えてしまいがちです。

しかし私はこのような言葉の解釈には限界があると考えています。本来その言葉が持っている幅広い意味を限定的にしてしまうと思うのです。

その為、できれば語源から考えて、色んな角度から言葉を見ていくことも大事だと考えます。

放逸

例えば放逸(ほういつ)という言葉は仏教用語です。これは辞書を開くと、「怠けること」という意味であると書かれています。

「放逸=怠けること」は間違いではありません。しかし私は同時に「放逸=頑張りすぎて無理すること」でもあると今回の話では解釈しました。

これは辞書を引いて翻訳するだけでは、そのようには読めません。

しかし私は、漢字の意味合いや語源からも「放っておいて逸脱してしまうこと」と解釈のしたほうがいいと考えています。

このような言葉の解釈による行き違いは何も過去の文献と向き合う時だけにおこるものではありません。

実際に私達が日常的する会話の中でも、解釈の行き違いで話があらぬ方向に進んでしまう事はよくあることです。

同じ言葉でも、違う意味になってしまうことは多々あります。

例えば、ヤバイという言葉が「危険だ!」という意味で使われる場合もあれば、「これは良い!」という意味で使われるように。

例えば、「大丈夫か?」と声をかけたとします。自分は心配するつもりで声をかけたのに、相手はプレッシャーに感じていたということはないでしょうか。

言葉と意味は必ずしも同じであるとは限りません。自分の意味こころのあじ(伝えたい事)と発せられた言葉(伝えた事)は違うのです。

伝えたことを聞くのは簡単ですが、伝えたい事を理解するのは難しい。また伝える事は簡単ですが、伝えたい事を言葉にするのは難しい。

伝えたい事を理解しようとする時、また伝えたい事を言葉にしようとする時は、言葉は|とても重要《気をつけて扱うもの》で、それ故にあまり言葉を重要視しない一つの見解に固執しないことも必要なことです。

以上、今回の講話会で読み進めた要点でした。


以上の話は以下、動画やブログ等でも掲載しています。

https://www.youtube.com/watch?v=F8eWQlEsUjk&t=8s

https://zenessay.kosonji.com/buddhist-talk-2

https://kosonji.com/buddhismepisode/bep2.html

https://kosonji.com/buddhismepisode/bep1.html


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