作家と私

   作家と私

 私は谷崎が好きだ。といっても「卍」は途中で放置している。読む情熱は湧かないが、「刺青」をはじめ、この短篇集におさめられている短篇は新たな表現の領域を私に知らしめ、氏の自伝的小説「異端者の悲しみ」は人間の業ともいえる本質が描かれている。私は綺麗ごとは嫌いだ。あたたかい、美しい。それを描くのもよかろ。ふとした時に滲む人間のあたたかさ、これを私はひとに語ってきた。しかし、私は人間の汚さ、業をも包括して描きたい。この「異端者の悲しみ」では主人公が友人に金を借りながらも踏み倒す。そしてその友人が死んだ時の自己正当化、偽善的なそして人間的な憐れみの心情が折り重なって描かれている。それをも偽らずに、人間の本質的さを描いた部分に私は感動した。作家は汚さをも眺め、自覚し、ある意味作家は正直ものともいえる。
 谷崎はどちらかというと「好き」というより「こうなりたい」と思わせるいちばんの作家である。もちろん、作家は独創性がなければやっていけないし、どの作家も誰もが書いていない作品を生み出したいものであるが、小川洋子が言っているように、そうおもいながらも、「こうなりたい」とおもう作家がいるものだと語っている。私も同様のおもいである。
 私の初の谷崎作品は「痴人の愛」で、これは個人的に好きではない。良さはわかるし、己の鍛錬のためにも二度ほどは読み返し、重宝している作品だが、好き嫌いをいうと嫌いである。重宝はしながらも、なにが嫌いなのか考えてみたら、それは“文体”であることがわかった。かの作品は大変わかりやすい。そして、あまい。砂糖たっぷりのあまさで、掌で女をなだめおだてるようなあまさがある。それは私の好きな作品「刺青」にも若干あるのだが、全体、すべてがあまい。その砂糖を山積みしたあまさが私は嫌いなのだ。何度読んでもいただけない。しかし、「刺青」を読んだとき、私の谷崎観は一気に覆された。文体が違う。そして美しい。この美しさを説明するのにだいぶ苦戦するのだが、官能に、感覚に訴えてくる。物語は無いが、言葉にしえぬ感覚を、読者の感覚の中に(というか私に)立体感と呼吸を持って膨らんでくる。読んでいくうちに私のなかで絵が描かれてゆくような、そんな感じ。それが起き上がって動き出す。だから私は「刺青」のような小説、いや私に「刺青」は書けない。「刺青」に匹敵する、超える作品を作りたい。立体感と吐息とを持って動き出す作品。実は構想はあり、もう半年以上前に試作を書いているのだが、失敗した。タイトルだけはそのまま持ってきて完全に一から築きなおすことにした。タイトルは「蔦とアメーバ」しかし、ちょいとこいつには寝といてもらおう。

 谷崎は目指す文学でありながら、好きな作家は吉行である。とはいえ、吉行は殆ど卒業し、触れあうモチベーションも失われているのだが、私にとっては必要な作家である。私が吉行を好きなのは、たぶん自分と通じる部分が多いという点である。深い地下水が同じ経路をたどる。そんなかんじ。まず、思考回路、着眼点が似ている。「原色の街」を読んだとき、私は吉行みたいな文章なら書けるだろうとおもった。逆に国木田独歩のような文章はまったく書けないとおもった。国木田独歩も私には感動を与えた作品だけれども、それとこれとは勿論別で、その世界観に浸ることはできても、私のなかから生み出される“形”とはまったく別であった。同じものを主格として作ることはあるだろうが、描き方や形はだいぶ異なるだろうとおもう。しかし、私には絶対に描けない形であるからこそ彼の文学は重宝している。
 


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