恋の陶酔 (2008年3月)

   恋の陶酔

 私は恋の陶酔に負ける女では無い。と自負している。もし誘惑と陶酔に負ける女であったなら、私の経験人数はもっと多いはずである。私は、陶酔状態をも冷静に客観的位置で見る、という姿勢でいる。
 とは云え、私もその陶酔力の偉大さを知った出来事が幾つかある。陶酔とは異性に対するどきどき感である。私はあまりそれを高鳴らせるような性質は持っていないのだが、幾度か陶酔状態に陥ったことがある。私の今の記憶状態からいくと私をその状態にし得た男はふたり。ふたりして共通するのは、目線、である。熱い、色気のあるまなざしを私に執拗に絡ませてくる。私の軀はその視線に絡め取られ、感覚が熱く高鳴り、顔が恥じらいとともにとろんとしてくる。とは云え、私はそのような誘惑に嵌る女ではない。ただの陶酔で軀は開かない。どきどき感に絡めとられても、そこには毅然と冷静さが健在している。男がどのような意図でそのような振舞いをするのかもきちんと見ながら。ひとりの男は、軀と軀のスキンシップで攻めてきた。といってもお触りではいけない。コミュニケーションのひとつとして、肌のぬくもりを伝えあう程度の触れ合いである。そして彼は言った。「ほら、こう触れ合うとどきどきするだろう?だけど、離れると夢は覚めるんだ」そう説明を施しながらも、その説明もひとつの口説き文句とするだけの陶酔力を生みだす力を彼は備えている。しかし、私が陶酔したとしても、それは所詮一時的であり、それにより溺れるような人間では無いのだ。私は彼から軀を離したら冷静な、彼の陶酔力から解放させられた私に戻っていた。
 ふたりめはスペイン人であった。しかも、彼は日本語が話せない。そして私も当然ながらスペイン語は話せない。この状態で女を落とそうと試み、成功はしないでも、対象を陶酔状態に持っていった事は凄いことである。私は彼以上に男性的魅力を持ち、しかもその魅力を最大限に人に見せる事ができる男を未だ知らない。さて、私は彼の男性的色気を、そして魅力を、どう言葉を駆使すれば伝わるか悩む。簡潔に云ってしまえば、彼は俳優みたいなものだ。己の魅力を把握し、それを人に魅せられる。そして、色気がある。私は彼の顔をあまり憶えていないのだが、彼の醸し出す雰囲気は今にも空気によって伝わってくる程の記憶力を起こす力を持っている。そもそも三か月経った今でもこうやって書けるという事は凄いことである。それにより彼の存在感の強さが窺える。
 彼は周囲に比べると口数が少なかった。しかし、彼の眼は他の誰よりもものを語っていた。私は言葉がなくても、スキンシップとジェスチャーと表情と笑顔でものが語れる人間であった。むしろ会話を苦手とするためか、言語以外の空気などから語る方が能力を発揮できた。そんな私なので、一気に五人六人に対して会話をしていた。そこで私が一番目立つのも無理はない。その会話のなかに彼はいなかったのだが、彼は絶え間なく私に視線を落としていた。そしてその視線は他人の視線とは甚だ違ったオーラを持っていた為、私の意識を捕らえた。そして、目線と雰囲気と、ほんの少しの会話で私を自分のところに引きつけた。そして、彼はあるパフォーマンスをはじめた。腰になめらかな曲線を讃え、ゆっくりと立ち上がってゆく。そして掌を己の腹、胸へと這わせゆく。這わせた掌により、シャツは艶めかしい皺を刻む。その指先は次第にボタンへと掛かってゆき、焦らしを込めながら、しかしいやらしくなくゆっくりとした手つきで外していく。肌蹴た胸からは引き締まった肉体が、乳首が露わになった。そして、唾液でしたたった指先で乳の輪を描きながら突起へと向かってゆく。そのパフォーマンス、いや、それはひとつの舞台であった。その舞台は官能的であった。まさにその光景は、劇場のスクリーンに映し出されるに値する美しいものであった。そして、彼自身、スクリーンに相応しい雰囲気と空気を持ち合わせていた。彼は帰る際に私に抱擁を与えた。そして姿が見えなくなるまで彼の視線は始終私を捕えていた。彼はこの陶酔の効果が自分の希望に沿うものだと信じていたのだろう。私にナンバーを告げた。ナンバーとは、彼の泊まるホテルのナンバーである。さて、私は行ったか。残念ながら彼は私に感動と一時的な陶酔は与えたが心は掴めなかった。なぜ私が彼との逢瀬を選ばなかったか。それは感覚的なものである。私は見抜いていた。彼の思いが一時的な気紛れであることを。そして、これ以上進んでしまったら私が負けることは容易に察せられた。この状態、今の状態で彼との縁を拭い切るからこそ、私は勝つのである。いや、しかし私は彼ともしもセックスしたとしても、彼には惚れなかった。彼と繋がる情熱が湧きあがらなかったからである。よって、この別れに私は何の後悔も、そして悲しみも抱かなかった。私は彼との別れを笑いを持って終えた。

 ここで私について語る事とする。私はいわば、これまでに書いたふたりの男の立場と同等にある人間である。同等、と云うのは私は彼らと同じ“陶酔を起こす立場”にあるという事だ。私はどちらかと云うと自身が陶酔に浸るより、己が相手に陶酔を起こし、その過程や結果を眺めるのが好きである。あの、男性の私を見て、とろんとする視線を生み出すのが楽しい。しかし、実際のところその結果自体には嫌悪を抱くのであるが、この話はこの文章の主体ではないので省く。
 私の傾向として、雰囲気で陶酔を起こすことが多い。もともと私は話すことが苦手な人間であるので黙っているのだが、黙っていたら結構気に入られる。それに適当な時期に適当な微笑みを添えれば充分である。とはいっても勿論すべての人間に通用するわけではない。やはり人間にはフィーリングがある。しかし、そのフィーリングはある程度時を重ねれば見えてくる。そして、ヒットするとおもった人に、その相手の心を掴む私のなかにある魅力を拡げて差し出すのである。だから、そのフィーリングとは相手の感ずる魅力と云うのが己の中にあるのかという問題も孕んでいる。それが無ければ潔く諦めるのが賢明であろう。


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