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親は自分の常識を疑え

先日、こんな内容のツイートが流れてきた。それを要約したものがこちら。

・小学生の娘が担任?から箸の持ち方について注意された
・「そんな箸の持ち方だとお嫁に行けないよ」と言われた
・娘からそれを聞いたママ怒りのツイート
・我が家は箸の持ち方にそれほどこだわりはない
・箸の持ち方よりも大事なことがあるだろう

今回はこの件について個人的に思ったことを書きたい。

箸の使い方を知らなくても問題なく生きていけるが…

まず、誤解のないように言えば、「お嫁に行けないよ」とはずいぶん時代錯誤な……とは思った。もしかすると定年間際か、定年後嘱託で仕事している年配の先生なのかもしれない。50代の私でも、「え?今どきその言葉を言う?」と思ったぐらいだから、アラフォーとおぼしきツイ主ママが「はあ?」と思うのも無理はない。

それに、箸が上手に持てなくても生きていけるのは確か。多少不便かもしれないが、特に生活に支障はないだろう。事実、私のママ友にもあえてお箸の使い方を教えず、「上手に箸を使えないならスプーンやフォークで補えばいい」という考えを実践している人がいた。その子どもが外で勝手にお箸の使い方を習得したこともあり、特に口出しする立場にない私は「ほう。そういう家庭もあるんだな」と思っただけだ。

しかしながら、ツイ主の考えにはやはり大きな違和感を覚えた。箸の使い方うんぬんではない。子どもが外で指摘されたことを「おかしい」ときめつけ、ガンとして受け入れない親の姿勢にだ。

他者の意見を受け入れない姿勢に違和感

その人にとっては箸の使い方や靴のそろえ方、挨拶の仕方などのマナーよりも大事なことがあるのだという。私は必要最低限のマナーは非常に大事なことだと思っているので全く同意できないが、所詮他人事だから私もそれを否定はしない。顔見知りですらない赤の他人の私が否定する資格もない。

しかし、「我こそ正義」といわんばかりのかたくなさで自分に都合の悪いことを全て排除する考え方はまずい。子どもが社会の中で生きていく際、そんな姿勢ではどこに行っても、誰と生きてもうまくやっていけないのではないか?と思ったのだ。

そのような考えが主流になれば法も秩序も意味をなさなくなり、社会を崩壊させる恐れもある。

「我こそ正義」の行きつく先は「無法地帯」

近年は、個人が自分の考えを自由に言い、自分のスタイルで生きていける良い時代になったという面がある。特に働き方や女性の生き方、子育てに関する場面では、私が若かった時代より言論の自由や行動の自由が許されるようになり、かなり生きやすい世の中になったと思う。(昔は社会規範にガチガチに固められており、それに対する疑問を口にするのもはばかられた)

その一方で、老若男女を問わず自由の意味をはき違えている人も激増している。

迷惑行為の数々がネットに次々と流れてくる。また、自分の意見が通らないとブチ切れ、他人に危害を加えて最悪殺してしまう人すらいる。その根底には「我こそ正義」という考えがあり、他者の諫言を受け入れないまま突っ走ったあげく、狼藉や犯罪を犯してしまう。

そんな社会の悪しき変化を見ながら私はいつも危惧している。自由と身勝手をはき違える今の風潮に。「我こそ正義」とかたくなに他者の意見を拒み、我が道を暴走する人が増えていることを。

自由と身勝手をはき違えた「我こそ正義」の行きつく先は「無法地帯」。秩序が消えて誰もが傍若無人にふるまう「無法地帯」は、文字通り略奪、殺戮なんでもありの地獄だ。「我こそ正義」の人は日本を無法地帯にしたいのではないか?そうなったら「自分さえよければ」な人間があふれて収拾がつかなくなると思うのだが。

「我こそ正義」の親の子は反社会的な子どもになる恐れがある

その根っこにあるのが「我こそ正義」と信じて疑わず、その正義を子どもに押し付ける親の存在だ。

私も親の一人なので、すべてが親の責任とは言わないし言いたくはない。しかし、少なくとも他者が諫言、つまり子どものためになる(かもしれない)指摘をした場合、それが自分の考えにそぐわなくても「自分の常識は間違っている可能性がある」と考え、いったんはその言葉を受け入れる余地を持つことが重要ではないか?そうすることで子どもが「世の中には親とは違う考え方がある」と知り、自分なりの正解を見つけることができるのだ。

自分の正義を子どもに押し付け、都合の悪いことは聞かない親は、子どもが家庭の外で貴重な学びをする場をことごとく奪っている。そんな親の姿を見て、子どもは何を学ぶだろう?自分も親と同じように「我こそ正義」が社会で通ると勘違いし、親と同じように身勝手な正義をふりかざし、ひいては反社会的な人間になる可能性が極めて高くなるだろう。

親は自分の常識を疑い社会の声に耳を傾ける必要がある

子どもがそうならないためにも、親は自分の常識をいったん疑い、他者、つまり社会がどうしてその言葉を自分や子どもに言ったのか、自分にどこか訂正すべきところはないかを考えることが必要ではないだろうか。それがひいては子どものためになると思う。

子どもを育てるのは親だけではない。社会もまた子どもを育てる役割を担っており、親が子どもを間違った方向に導いていればそれを正す権利があるのだ。そのことを、わたしたち親は決して忘れてはならない。

おわりに

「我こそ正義」の親に育てられた子どもがどのように育とうがどうでもいい。周囲に迷惑や被害さえ及ぼさなければ。

しかし、残念ながら「我こそ正義」で育ってしまった人間の多くはこちらに損害を与えることが多いのだ。私も幾度となくそれで被害に遭ってきた。本当に迷惑でしかない。

箸の使い方が間違っていても大きな問題はないが、それを指摘されて逆切れする人間は一事が万事そんな調子で、他人に迷惑や被害を及ぼすことに罪悪感すら持たない場合が多いのだ。

何度も言うが、自由と身勝手は違う。人がそこに住む社会の秩序を守ってこそ自由で生きやすい環境が初めて生まれる。それがわからないなら子どもを持つな。子どもを持っても自分で育てるな。と言ったら言い過ぎだろうか。

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