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こだわりを捨てる

年を取るにつれて、あまり物事にこだわらないようになった。

言い換えれば、どうでもよくなってきたのだ。

生きることは思うようにならないことの連続だ。あがけばあがくほど、どんどん負のスパイラルに陥り、物事が悪化するだけだ。

むしろ、思いのままにならない人生をまるごと受け入れる方が、棚ぼた式で欲しかったものが手に入ることができたりするのだから面白い。

そんなわけで、最近は、これまでの人生では絶対的なまでに受け入れ難かった物事を、今はあっさりと受け入れるられるようになった。

いや、受け入れるどころか、そのようなものを自ら選び取っていることすら増えてきた。

たとえばこんなこと。

自分なりに確たる意見や信条がある物事に関して、誰かが自分と相対する考えをもって反論したとしよう。
昔の自分なら、到底受け入難いその考えを、心の中で即座に撥ね付けていた。
しかし、今はその意見を受け入れるだけでなく、そちらの意見が自分のそれより良いと思えば、あっさりと翻意することもできるようになった。

こんなことを言うと、「自分がない人」と思われるかもしれないが、別に自分の意見がないわけではない。単に、自分の信条や意見などにこだわりを持つことに意味を感じなくなり、ぶっちゃけた話どうでもよくなっただけだ。

言い換えれば、物事の正誤などは人の心が勝手にジャッジしたものに過ぎず、ところ変われば、あるいは自分の置かれた状況が変われば、あっさり反転してしまうような、どうでもいいことなのだ。

だから、SNSなどでも、割とコロコロと意見を変え続けている感がある。自分で納得できればそれでいいのだから。

そのせいか、「自分の考えがない」「日和見主義」と思われるのか、直前まで懇意にしていたフォロワーさんにリムられることも多い。

でも、それはもうしょうがない。来るもの拒まず去る者追わずでさよならするしかない。

また、仕事においても、それは現れている。

先日書いた「お仕事紹介」には、自分ができることとできないことを明確に区別したが、それは自分の信条を反映したものではない。

あれは単に、

・手を出したら明らかにヤバいもの
・明らかに自分の能力や知見ではカバーしきれない範囲

を明示したに過ぎず、「それ以外ならクライアント様のどのような要望にも応じますよ」という意思表示のつもりで書いたものだ。

だから、自分が可能な範囲でなら未知の領域でも請け負うし、それで仕事した結果クライアント様の意に沿わなければ、黙って立ち去るのみ。最悪全ての発注が止まってその後も発注がなければ、まあ、休業や廃業もアリかな?とは思っている。(次の仕事が見つかるまでの間当面食べられる程度の蓄えはある)

たかが50年、されど50年。それだけ生きてくれば、なんのプランもなくいきなり新たなチャレンジなど絶対にしない。そのことにより考えうるあらゆるリスクも想定し、それを超えるリスクが起こった際の対処まで考えて当然だ。

物事へのこだわりをなくすのもそのひとつ。自ずとこだわりが薄らいだのを機にどんどんこだわりを手放し、これまで信じ続けていたことが一切通用しなかった際のダメージを事前に減らすのも処世術。年を経ていろんなことがどうでもよくなった今こそできる術だと思っている。

そんなわけで、私は今後どんどんこだわりを捨てていこうと思っている。どうでもいいと思えることを増やし続け、自分がないと言われてもそれを貫き、生きるストレスを減らしていきたい。

#コラム #エッセイ #私の仕事 #ライフスタイル

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