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他者に苦労を強いる人の言葉は無視していい

日本には、「苦労は買ってでもしろ」といった根性論が好きな人が、非常に多い。

しかし私は、「しなくてもいい苦労をわざわざ選び取る必要はない」と、声を大にして言いたい。これまでの経験から、苦労が必ずしも報われるわけではないことを痛感しているからだ。

苦労は人の可能性を潰す危険がある

このテーマを語るにあたって、大変タイムリーな話題がネットに流れている。大船渡高校野球部監督の采配について喝を入れた張本勲氏の談話だ。

張本氏は「肘が壊れるかもしれない苦境を乗り越えてこそ、佐々木投手の成長があったのに、その機会を監督がつぶした。喝!」と言いたいらしい。

苦労に苦労を重ねた末に野球人としての地位を確立した張本氏なので、その言葉に賛同する人は多い。特に、戦中戦後の苦労を乗り越えてきた高度経済成長期世代や、「24時間働けますか」をキャッチフレーズに何百時間ものサービス残業にも耐えぬいてきた私たち世代には賛同者が多い。

しかし、苦労が必ずしも人を成長させるわけではない。それほど苦労をしなくても、才能があれば順調に人生を歩める人もいる。不条理だと思う人もいるかもしれないが、それこそが現実だ。

むしろ、苦労は人の可能性をつぶしかねない危険なものだ。自らの甘えへの戒めとして苦労を買って出るのはアリだが、決して自分以外の誰かにそれを強要してはいけない。

人には向き不向きがある。不向きな部分で無駄な努力を重ねるよりも、自分に向いたことにシフトチェンジした方が成長は早い。それに、そういう分野ほど苦労せずとも早くステップアップできる。

本当に苦労していれば、人の苦労を見るのは辛いもの

私がそのような考えを持つ理由は、これまで自分が歩んできた人生にある。

私の人生は今でこそ落ち着いたが、若いころは本当にろくなことがなかった。二度と思い出したくないほどの苦痛を伴う経験を何度もしてきた。それと同じ苦痛を自分以外の誰かが経験することを想像すらしたくないのだ。

私なら、他人に対して「苦労が足りない」と思っただけで、過去の忌まわしい記憶がフラッシュバックしてしまう。精神の均衡を保てそうにない。決して人に自分と同じ苦痛など味わわせたくはない。今こうやって書いていても涙が出るほど胸が痛くなってしまう。

だから、人に苦労を強いたがる人を見ると、「この人、口で言うほど苦労していないのでは?」と思ってしまう。本当に苦痛を伴う経験をしていれば、他人が同じ苦痛を味わうことを見ることすら辛いのが普通だろう。誤解を恐れずに言えば、人の苦労を見て心が痛まないのはたいした苦労をしていない証拠だ。

実際、本当に苦労した人ほど人に苦労を強いないものだ。少なくとも、私の周りにいる苦労人は「苦労などしなくていい」と口をそろえて言っている。私はその人たちほど苦労はしていないが、全く同じ考えだ。

人に苦労を強いる苦労人は極めて危険な人物

でも、自らが苦労していても人に苦労を強いる人が、一定数いるのも確かだ。

おそらくそのような人物は苦労で心がゆがみ、自分と同じ苦痛を味わわせることで快感を覚えるようになったのだろう。だとしたら非常に質が悪い。そのような人物は、なまじ苦労への耐性が強いだけに、周囲の人をダメにしかねない。それが部下クラッシャーと呼ばれる類の人なのだろう。(張本さんもその一人だと思う)

できればそのような人物は私の人生に関わってほしくない。人の苦労を見て楽しむような劣悪な趣味は私にはないので、ネットでもネット外でも決して関わりたくはない。

また、他の人にもそのような人物には決して近寄らないようにと警告したい。運悪く上司など逃げられない関係の場合は極力相手の言葉を真に受けず距離を置き、その人物のペースに巻き込まれないように注意してほしい。でないと、人生を台無しにされかねない。

それをふまえたうえで結論を言えば、他者に苦労を強いる人にろくなひとはいないということ。そのような変な根性論を振りかざす人は基本無視していい。変に耳を傾ければ人生がおかしなことになる。私もそのような声をまじめに受け止めてどれほどバカを見たかわからない。

しなくて済む苦労は避けていい

しなくて済む苦労は避けていい。人生で避けられない苦労は黙っていても必ず向こうから寄ってくる。その苦労を上手にかわすことができれば、それが成長の証となる。特に未来ある若い世代は私のようなバカを見ることなく、頭を働かせて極力苦労を避けてほしい。そして、周囲に潰されることなく生きてほしい。

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