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【掌編小説】物語ができる頃には

「あー書けない」
さっきから同じポーズで何時間固まっていたのかわからない。私は6畳ほどの狭い部室の片隅で、ノートパソコンと終わることのないにらめっこを続けていた。まだ7月上旬だというのにとても暑い。部室にはクーラーがなく、扇風機が音を立てながら首を振っている。喉が乾いて紙コップの中のアイスコーヒーばかりが減っていく。
「もう80円投資か……」
そう思った矢先、ドアのノック音が聞こえた。

「はーい」
やる気のない返事が聞こえたのかどうかはわからない。ドアが開くとそこには同級生でもあり、部員でもある雪成が立っていた。
「ありさだけ?」
そう問いかけながら雪成はゆっくりとリュックサックを肩からおろす。
「うん、ここ暑いからねー。誰も来ないよ。私は人が少ないからここが好きだけど」
「それはわかる。ってかありさ、授業サボりすぎでしょ。毎週この時間ここにいるじゃん」
「うるさいなぁ。別にサボって遊んでた訳じゃないし。ただ……今日は生産性がゼロだったけど」
「……書いてたの?」
机の上の置かれたパソコンを一瞥し、雪成が言った。

雪成は私が趣味で小説を書いていることを知っている唯一の人だ。
ある時、好きな本の話をしていたところ、思っていた以上に雪成が読書家であることを知った。そこから会う度に雪成と本の話をするようになり、次第に距離が縮まっていった。
そして何かの飲みの席で雪成と隣になったとき、アルコールのせいか、私が文章を書いていることをうっかり話してしまった。そのときの雪成の食いつきは今でも覚えている。「読みたい! 読ませて!」と今まで見たことのない勢いで言ってくれて嬉しかった。自分が書いたものを人に読んでもらうのは初めてで照れくさかったけれど何故かそのときは、雪成には読んでほしいと思ったのだ。

「正確に言うと、書こうとした、かな」
両手を挙げて伸びをしながら私は答えた。
「今日のテーマは?」
雪成がこう聞いてくるのは私がいつも書くときにテーマを決めていると以前に話したことがあるからだ。テーマは名詞のときもあるし、短文のときもある。例えば『月』、『シンデレラ』、『切ない物語』などといったように。方向性が決まっている方が書きながら頭の整理ができるため、書き始める前にどんな話を書こうか決めてから開始することにしている。そして今日のテーマは、
「……キュンとする物語」
それを聞いた雪成がにやっと笑う。
「で、それがなかなか進まない、と」
「笑うなんて失礼でしょ! 仕方ないじゃない。キュンとするエピソード、浮かばないんだもん。それに毎日そんな都合よくキュンとする出来事が起きるわけじゃないんだから」
「でもまだ書くんだろ?」
顔に笑みを残しながら雪成が言う。
「……もうちょっと粘る。とりあえずコーヒー買ってくる」
私はそう言い残して財布を片手に部室を出た。

部室棟の端に備え付けられた自販機に100円を入れる。アイスコーヒーのボタンを押すとコトリという紙コップの音と液体が注ぎ込まれる音が静かに聞こえる。コップに入れられたアイスコーヒーを取り出した私はまた、自販機に100円を入れた。次に押したボタンはカルピス。これは雪成の分だ。

財布を脇に挟み、両手に飲み物を持って部室へと戻る。
「はい。まだここにいるんでしょ?」
「おう、サンキュ」
だけど残念なことに80円の投資は水の泡になった。30分経ってもいいお話は浮かんでこなかった。やはりキュンという感情と程遠い生活をしているからダメなのだろうか。途中までは妄想でカバーできても、なんとなくリアルが……足りない。
大きなため息が一つ漏れた。

「やっぱりだめ?」
斜め前に座り、中国語のゆく題をしていた雪成は私のため息を皮切りに口を開いた。
「うん。なんか、リアルが足りない」
「そっか」
そう言って雪成は立ち上がり、私が座っている右側にやってきた。どうしたんだろうと私は雪成を見上げる。雪成は何を言うわけでもなく私のことをただじっと見つめていた。その目は普段よりもずっと透き通っているのに情熱的で私の目を捕らえて離さなかった。次第に雪成との距離が縮まっていく。だけど目をそらせない。

2人の顔が15センチ程まで縮まったとき、雪成の手が私の右耳のあたりに伸びてきた。細い指が私の髪に触れたと思いきやそのまま私の髪を耳にかけ、その手が頬で止まった。
「……綺麗」
雪成が放ったその一言が私の心臓をぐっと掴む。
「……なピアス」
そう言って照れくさそうに笑いながら頬に触れていた手をぽんと私の頭の上に置いた。

「ありさ、顔真っ赤」
顔だけではなく全身が暑かった。これは部室の温度が高いからではないことくらい私が一番よくわかっていた。
「え、そう、かな? 疲れてるのかも。……っていうかこのピアス綺麗でしょ! お気に入りで価格もこなれててついこればっかりつけちゃうんだよね。ゆ、雪成も気づいてた?」
そう返しながらも今の雪成の行動が頭から離れなかった。まだ心臓が早鐘を打っている。

だけど雪成は何事も無かったかのように宿題を広げていた斜め向かいの席に戻っていった。そしてすぐに、ノートと教科書を片付けだした。
「あれ。帰るの?」
「帰んないけど、次、授業だから」
そう言いながら手早く荷物をリュックへと詰め込み、ドアの前へと進み、立ち止まった。

「さっきのさ……キュンとした?」
「へ?」
「いや、無理にとは言わないんだけど、少しでも助けになれたらな、と思って。じゃ、俺行くわ」
背中をこちらに向けたまま手を振り部室から出ていく雪成の耳は真っ赤だった。

雪成は答えさせてはくれなかったけれど、あの行動にはキュンとこない訳がない! 物語にしたためて、残しておきたい。だけどその一方で今は、あの雪成を誰かに知られたくないと思ってしまう。しばらくは、私の心の中で独り占めしたい。もう一生忘れないくらい心に焼き付けられたら「キュンとする話」にしたためよう。

そうしてできた物語を最初に読むのはもちろん、今と変わらず雪成であってほしい。

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