『リリカ』7.19


 ぼくにむずかしいのはわからないんだ。だからもう、こたえをおしえてほしいんだ。どうして朝の日課をやらなくなったの。
 いつもとおなじように、まぶたをあけたそのときに走りだし、まだねむっているきみの部屋へ、観葉植物の森をぬける、ねむっている金魚の水そうにあいさつして。
 うすいキャミソールから足までをねじり、寝がえりを待つ。まぶたのひふが、うすいから、さわったらいけないのかな。
 きみが、まぶたをこすらないようにドレッサーのかがみの前で、きゃしゃなノドを上にむけ、息をのみこむのをみている。
 なにかあったの。つらいことでもあるの。
 きみは「慣れてないの」とわらう。ぼくじゃなくねこのマルシェに。
 柔らかいうなじへ、ゆびをくしの形にしてつたわせ、かみをかき上げて一つにむすぶ。ついでになでられるマルシェ、ずるいや。
 きらいならきらいって言ってほしい。きらわれているとは思っていないけれど、ぼくだってすこしはこわくなるんだ。マルシェが鼻でわらう。なさけないオトコ、何から何まできづくのがおそいのね、いつまでもね。
 タカビシャなオトコ。
 ぼくがつぶやくと、マルシェはモップとつぶれまんじゅうの顔をふるわせ、ゆかにしっぽをたたきつける。
 アンタ、本当にそっくりね。アタシはきづいてるわよ。
 朝の日課はマルシェのざらざらの舌よりあぶなくない。だいじょうぶ、げんきになるよ。ぼくはずっとそういう気持ちで、これをやってきたんだ。
 チャイムがなる。
 キミのまぶたがはっきりひらいた。おおきなひとみが、水分をふくませて黒い孔をひらひら、はしゃいだ子どもがとびつくのをたえる瞬間を、みているみたいだった。
「おそくなってごめん」かれが言う。
 ぐるぐる回るぼくを、かれは抱きあげてニカっとわらったんだ。海のむこうからかえってきた。トランクをカラカラしながら家へはいり、さっそくひろげ、おみやげだけど、となげかける。「これもこれも、好きかなとおもってさ」。
 きみはかれに抱きつき、ぼくをバターサンドのバターみたいにおしつぶし、ついにまぶたにふれるのを許した。かれはそれできづいたらしく、ずっとぼくがわからなかったことをきいてくれた。
「ふんいき、変わった?」
 マルシェがためいきをついた。
 きみは、大変だったよ、とうれしいんだか悲しいんだか、目をふせて、あいまいな表情をした。
「大変だったの」
 その声はせつなかった。ぼくはやっときづいたけれど、どう言っていいか、わからなかった。
 かれもぼくとおなじ気持ちで、そのうちおたがいに見つめあい、わらいだし、おなかを抱えた。
 かれは、ぼくのしっぽを回してあそびながら、そっか、と言った。ぼくの気持ちをかわりにつたえてくれる。
「でもさ、まつ毛なんか増やさなくたって、ずっと好きなのに!」
 ぼくもかれも、ついでにマルシェも、きみが泣いてしまったのがわからなくて、みんなでそのまぶたに、いつもの日課みたいにとびかかってキスをしたんだ。
 たくさんのまつ毛がぬけた。それでやっと僕らは六ヶ月ごしに、ふたたび会えたんだ。

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