掌編『ネモフィラの視線』2019.11.21


 榎田先生が他人になる前に、わたしは告白をしなくちゃいけない。教室のすみに座っていた、ひとりの女の子が、どんな想いを抱いていたか。どういう気持ちで、あんなことをしていたのか。
 ネモフィラの種まきをしたのは、うだるような暑さが亡霊みたいに居座る去年の秋口だ。くたびれたアパートの花壇は雑草もはえていなくて、大家さんが、寂しいねと笑っていた。なんでもすきな花の種を植えていいよ、と言われて、あの日、花屋に行くことに決めた。
 はじめて話した花屋の早苗さんは、物腰のやわらかい、素敵な女の人だった。そのうち、なんでも相談をするようになった。ファッションも、メイクも、なんでもききたくなる。早苗さんは身長が高く、わたしよりも腕が細くって、肌も髪も咲きたてのお花くらいにみずみずしい。でも指先だけがぼろぼろで、それがまた、働きもののお姫さまのような甘い香りをさせていた。
 担任の榎田先生をはじめて外で見かけたのは、わたしが早苗さんと仲良くなりはじめた頃だ。塾が終わるころ、シャッターを閉める早苗さんを、先生は遠くからじっと見つめていた。何も言わずに。仕事終わりのビジネス鞄を左手にぶら下げたまま、おばさんたちが行きかうスーパーの入り口で、さりげなさを装い、出入りや買い物をくりかえして。
 いつからそこに立っているんだろう、と思った。早苗さんの花屋が閉まるのは夜の二十二時。部活が終わるのは十九時くらいだって運動部のともだちが言っていたから、先生が帰るのもそれくらいだと思う。早苗さんが遅くまで花屋を開けているのは、主なお客さんが、近くの夜間診療のある病院や、お墓や斎場を利用する人たちだからだけれど、先生はまるで自分のために早苗さんがお店を開けてくれていると感じているみたいに、毎日そこに立っていた。
 ネモフィラが咲くのは三月の終わりよ、と早苗さんは言う。白地に、さし色の紫が映えて、とってもかわいいの。無邪気な早苗さんは、榎田先生が毎日自分を見つめていることに気付いていない。気づかないふりをしているのかもしれない、と思った。
 早苗さん、眼鏡をかけた細身の、首元にホクロのある男の人、しってる?
 わたしがきくと、早苗さんは、あの人のことかなぁ、と言った。優しい目をした方でしょう。男の人で、あんなにお花がすきなひと、他にいないと思うの。
 いつも花を買いにくるんだろうな、と思った。でも、榎田先生は、本当にお花がすきだから買っているのかな。いや違う──。
 残暑がおわり、秋本番になった頃、わたしは学校で、思いきってきいた。
 榎田先生って、花すきなの?
 ……どうして?
 榎田先生は、微笑みをうかべながらききかえした。わたしが花をすきだから、とつづけたら、俺はそんなに、花に詳しくないよ。俺のおばあちゃんがすきだけど、と言った。
 わたしがアパートに植えたネモフィラの芽が、無事に育ちはじめた。早苗さんに報告する。余計な芽をまびかなきゃいけないね、と言われる。
 花壇での密度が高いと、栄養をうばいあって、みんな枯れちゃうから。
 その日も先生は、店先に立つ早苗さんをみていた。わたしはそのうち、塾がない日も早苗さんのお店に行くようになり、先生がいるか確認するようになった。またいる。いつも、いる。
 冬本番になった。わたしと榎田先生の秘密はつづいていた。早苗さんの手が、暖かい頃に比べて、もっとぼろぼろになっていた。
 崩れちゃいそうな手、つやつやの唇と身体のラインが描く早苗さんの、やわらかい曲線。わたしがダッフルコートをクリーニング屋からおろしたとき、先生はついに学校で、わたしに話しかけてきた。
 お前、塾の勉強、うまくいってるか。
 ぜんぜんです。
 返事をしてから榎田先生の、わたしを見る目が変わった気がした。優しかった目元が、少しずつ歪んでくる気がして、みはるのなんてやめなきゃ、と思うようになった。
 榎田先生の、おかあさんにかくれて、悪いことをやめられない、悪さする少年の表情。早苗さんの甘いお花の香り。ネモフィラのつぼみと、届いた大学の受験票。
 大家さんが、色づいてきた花壇を褒めてくれた。
 そのころにはわたしは毎日、朝の水やりをしながら登校しながらホームルームをききながら授業をうけながら下駄箱の靴をとりだしながら、榎田先生のことを考えるようになっていた。
 C判定の模試結果と早苗さんの応援と塾の先生の表情と、榎田先生の悪い虫のような黒いスーツ。
 ネモフィラはね、つよくなれる花なんだよ。早苗さんが、切り花の茎の先端を切り落とし、わたしに言う。
 春がくるまでに、覚えてね。いつでも見たら、花言葉を思い出せるようにね。そうしたら、きっとなにがあっても大丈夫よ。
 早苗さんの言葉をきいてから、わたしはもう、榎田先生を追わないことに決めて、ずっと、早苗さんのこともわすれて、参考書ばかり見た。
 先生が早苗さんを見つめるのと同じくらい早苗さんが綺麗に揃えたお花を見つめるのと同じくらい集中して集中して集中して集中して集中した。
 一次募集で、すべての大学におちたわたしは、榎田先生に、どうしよう、と報告した。榎田先生は、泣きじゃくるわたしの背をさすりながら、だいじょうぶ、だいじょうぶ、と言いつづけた。その頃、早苗さんが結婚したと、きいた。
 他の生徒は全員帰ってしまった。わたしと先生は長い時間ずっと、誰もがいなくなった校舎で、星の見えない冬の空が真っ黒になるまで、一緒にいた。
「榎田先生」
 先生に言わなくちゃいけないとおもった。わたしが制服をぬいで、ただの他人になるまえに。
「二次募集、頑張ります」
「うん、応援してる」
 榎田先生は、わたしをじっと見つめて、ふっと笑った。二月の終わり。
「わたし、卒業します」
「うん。お前がいなくなると、寂しくなるよ」
「だからわたしが受かったら最後に、わたしの住んでいるアパートに来てくれませんか」
「俺が?」
「ネモフィラが咲くんです」
 わたしは、卒業する。
「花言葉、知ってますか? あれは、つよくなれる花なんです。早苗さんに教わったんです。
 誰にも知られないまま、一人で。
「へぇ。……行こうかな」
 榎田先生、わたし、あなたを許します。先生がわたしを女の子として見てくれなくても、先生とわたしに同じ、花の蜜を求める悪い虫であった過去があっても。
 ネモフィラの花が咲いたら、すべて卒業するの。



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