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ポリコレ加速主義

 有名な人魚のディズニー映画『リトル・マーメイド』が今度実写化されるそうで、その主役のアリエルを歌手のハレ・ベイリーが演じることになったと報じられた。しかし原作のアリエルは赤毛の白人として描かれていたため、黒人のベイリーがアリエルを演じることに賛否両論が上がっている

 リンクを貼ったニュースによると、この映画の監督はハレ・ベイリーがアリエル役に最適だと考えてキャスティングしたようだ。しかし「アリエル」という既にキャラクターデザインのある役に対し、外見の類似を重視したとはいえないキャスティングであるのは否めない。結果として最近のアメリカ映画やドラマでよくある、マイノリティに「配慮」した「ポリティカル・コレクトネス」の影響を受けた配役ではないかという疑念が発生してもおかしくない。

 私がこの映画を観に行く可能性は低いので誰が主役でもまあ構わないのだが、今回主演を任せられたベイリーがアリエルとの外見的な距離を乗り越えて余りあるほどの名演を見せて賞賛される可能性はあるだろう。そもそもアリエルが赤毛なのも、『リトル・マーメイド』(1989)の少し前に公開されて成功したこちらも人魚の映画(ただし実写)『スプラッシュ』(1984)のヒロインがブロンドヘアであり、それと差異化を図ったためという話がインターネットでは語られている(本当かは知らない)。それまでの金髪の人魚描写から変化をつけたアリエルが人気者になった歴史が今度は黒人のハレ・ベイリーによって繰り返されるかもしれない。

 しかしこれはあくまで『リトル・マーメイド』の実写化であり、その主演は「アリエル」であることが求められる。アリエルのあのイメージのままで実写化がなされることを期待するファンがいるのは当然のことで、SNSでは誰が実写化アリエルにふさわしいかという話がトレンド入りしているそうだ。人種や肌の色による差別が大きな問題だったのも、人間が肌の色の違いに敏感だったからだろうし、それが違う2人を同一のキャラクターとして認識できるか不安になる気持ちは想像に難くない。

 しかもアリエルの「赤毛」というのもまた1つのマイノリティ属性であり(人間の髪の色としては黒や茶、金といった色より少なく、アメリカでは2%ほどらしい)、赤毛に対する差別や偏見も存在する(ドイルの『赤毛組合』やモンゴメリの『赤毛のアン』などを思い出してほしい)。そうした背景も鑑みるならば、「赤毛のヒロイン」アリエルを黒人に変更するというのは、赤毛というマイノリティからその属性のヒロインを奪い取るようなものという批判も発生しかねない。もし黒人キャラを実写化する際に赤毛の白人俳優を登用した場合はポリコレ的に大変なことになるだろう。

 今回のキャスティングが一部でささやかれるような「ポリコレ配慮」のものなのか真相は定かではないが、そう疑われるほどに現在のアメリカではそのような配役が流行しているということだろう。そしてそれを快く思っていない人も、大きな声では言えないだけで大勢いると思われる。

 コンテンツを提供する企業としては、「ポリコレ」関係で怒られが発生する事態はできるだけ避けたいはずである。となると、多くのファンが望んでいなかったとしても、声の大きいポリコレ推進派のご機嫌を取る選択をするほうが無難になってくる。本当は原作のイメージを大事にした作品を作りたい制作者や世界観を壊されたくないファンがいても、そういう声を上げることは差別主義者のレッテルを貼られかねないリスキーな行為なのだろう。

 では娯楽コンテンツからポリコレの影響を排除し、作品の世界観が守られるようにする方法はあるのだろうか。それがタイトルに掲げた「ポリコレ加速主義」である。

 簡単に説明すると、ポリコレを徹底的に、過剰なほどに守ることにより、「ポリコレ配慮」を極限まで膨張させて破裂に至らしめようという企てである。アリエルが黒人なのは変?いえいえ、肌の色は関係なく役に合った人を選んだだけです、アリエルが赤毛の白人という固定観念に囚われたあなたは差別主義者じゃないでしょうね?多様性ですよ多様性、様々なマイノリティを娯楽作品の中で活躍させることで現実世界での融和と共生が促進されるんですよ、マイノリティのヒーローやヒロインはもっと増えるべきです、差別や偏見につながるものは娯楽の中から完全に排除しましょう……

……うんざりしただろうか?ポリコレ加速主義の狙いは一般人、できるだけ多くの人をうんざりさせることにある。ポリコレにこれでもかと配慮することで、多くの人に娯楽がポリコレ的正しさに侵食されていることに違和感や嫌悪感を抱かせ、ポリコレに疲れた彼らがポリコレに対し一斉に反旗を翻すのを待つ、それがポリコレ加速主義のシナリオである。表面上コンテンツ制作者はポリコレを熱心に守っているだけなので、ポリコレ推進派から怒られることもない。

 これは一種の賭けで、下手をするとうんざりした客は反乱を起こさないままその娯楽から離れていってしまう。そうなると制作者は単にポリコレと心中しただけである。欧米の娯楽とポリコレがどのような関係なのか、日本からなんとなく眺めているだけの私にはわからないことも多いだろうし、このポリコレ加速主義が成功しうるものかは未知数である。

 私もマイノリティ差別には反対だし、娯楽を通してそういう差別や偏見が助長されるのは望ましくないと思う。しかし娯楽作品の世界観がそういうポリコレやポリコレを守ることに熱心だがコンテンツ自体には無関心な人々によって悪影響を受けるのは違うだろうと思う。制作者がポリコレ的クレームをはねのけられるようになるためには、一度ポリコレに染まりきった世界の深淵を見せるしかないのだろうか。

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