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記事紹介「誕生・出産を全否定する“反出生主義”が間違っている7つの理由。『なぜ貧乏なのに僕を産んだの?』にどう答えるか=午堂登紀雄」

 今日はこちらの記事の紹介とコメントです。「MONEY VOICE」という経済系がメインらしい情報サイトに掲載されていて、不思議な場所に載ったなと思いました。noteに慣れてると広告が少し間に挟まるだけで「読みづらっ!」となりますね…。

 こちらのコラムを書かれた午堂登紀雄氏は記事のプロフィールによると米国公認会計士で、企業の代表取締役も務めていらっしゃるそうです。反出生主義に関係する記事というのは哲学や社会科学の研究者が書くことが多いので、ちょっと異色ですね。

 その午堂氏はタイトルから「反出生主義は間違っている」と断言しているわけですが、ここからはその根拠とされている7つの理由について見て、それについて反出生主義がどう反論するのか考えていきたいと思います。

間違っている理由その1:人生に疲れて現実逃避している

 午堂氏は、反出生主義は「異世界転生系」と呼ばれる小説のジャンルと同様、傷つきやすく打たれ弱い現代人特有の思考パターンに親和的だと指摘します。前者は出生を否定した先の苦しみのない世界を、後者では異世界という都合のいい世界で、現実ではできないような活躍を夢想することで現実逃避しているというのです。

 確かに反出生主義に現実逃避的な面があることは否めません。「生まれてこないほうがよかったのに!」と嘆いたところで現実ではもう生まれてしまったのですから、反出生主義に頼っても状況の改善は見込めないでしょう。

 とはいえ一方で「現実」と向き合った結果の反出生主義という見方もできるのではないでしょうか。「生まれてこなければ苦しむこともなかった」というのは、現段階での我々の知見からすれば十分に妥当な現実だと思われます。また「子供を生まれさせなければその子供が苦しむことはない」というのもまた事実です。反出生主義からすればこの世界の「現実」は子供を生まれさせないほうが子供のためだと判断するには十分でしょう。

 根本的には「現実」とは何かという話になってくると思います。「絶対子供を幸せにしてやる」という決意をする人もいますが、それはどこまで「現実」を見てのものでしょうか。

間違っている理由その2:苦痛は「本人がどう受け止めるか」次第

 ここでは、「苦しみ」というのはその人個人の問題であり、苦しみを乗り越えて得られるものもある、苦しみを全否定するのは心の未成熟さ故だと論じています。確かに何をどの程度苦しいと感じるかは個人差があり、苦しみが喜びにつながることもあるでしょう。ベネター的な反出生主義の、少しの苦しみでも人生が無価値になってしまうというのは個人的にはあまり賛同していないところです。

 ここに反出生主義が反論するとすれば、「苦しみを重く受け止めてしまう人もいる」「苦しみがある人生を勝手に始めさせないでほしい」というところでしょうか。確かに苦しみの感じ方には個人差があるので、反出生主義を知っても「生まれないほうがいいなんて嘘だろ」と思うような苦しみに強い人間もいるし、苦しみを乗り越えて何かをつかみ取ることができる人間もいるでしょう。それは素晴らしいことだと思います。しかし一方で、反出生主義の広まりというのはそれだけ人生をつらく思っている人が多いことをうかがわせますし、それに毎年この国だけで万を超す数の人が自ら死を選んでいます。

 傷つき苦しみながら成長すれば達成感を得られるとしても、そもそもそういう状況に参加させられたくなかったと思う人たちは反出生主義を支持するでしょう。また彼らは、子供もそのような環境を歓迎するかわからない以上、生まれさせないほうがよいと考えるのです。

間違っている理由その3:苦しみも不安も「必要な感情」

 次に主張されるのは「苦しみの必要性」です。不安や悩み、嫉妬なども生存や成長に有用な感情であり、苦しみを悪とし不必要と考えるのは反出生主義者の誤解であると午堂氏は言います。

 仰る通り、生存にとって苦痛は不可欠です。苦痛を感じなかったり我慢できてしまったりする生物は絶滅してしまったでしょう。「苦痛回避エンジン」というべきものが単なる生存だけでなく個体の成長に転用されたのも自然な流れだと思います(もっとも、それを理解したところで苦しいことは苦しいので、やはり経験せずに済む方がよいとは思いますが)。

 これに対しては前段と同じような返答になってしまいますが、一言で言うならば「生に苦痛は必要でも、我々に生は必要ではなかった」となるでしょうか。午堂氏自身が記事の最初でまとめた反出生主義の主張の中に「主体が幸せか不幸せかを認識しない状態になれば、別に問題にはならないのではないか」とある通り、そもそも我々は非存在のままでも何も問題はなかったはずです。それなのに親の都合で勝手に、苦しみという副作用の伴う人生を始めさせるのはおかしいのではないかと声をあげたのが反出生主義です。

間違っている理由その4:人間が存在しているのには意味がある

 曰く「必要がなければ人類は生まれてこなかったはずだ」そうです。苦しみをなくすために出生を全否定するのは短絡的で、多くの人はそれよりも人生を謳歌するほうにメリットを見出すだろうと語っています。

 これについては午堂氏の考える「人類の存在している意味」というのが何か、私には読み取れなかったのですが、神などの上位存在を想定しない場合はやはり意味はないのではないかと思ってしまいます。理科の教科書のように無神論的な進化論を前提とすれば進化は行き当たりばったりなので、人間も蚊もたまたま存在しているにすぎません。「苦しいことだけで生が否定されないことを多くの人は本能的に悟っている」というのも、「苦しみで生が否定されないと本能的に悟ったように思えた人間が子孫を残すのに有利だった」だけのこととも考えられます。

 もっとも「苦しみを感じるくらいなら生まれない方がいい」とまで考える人が少数派なのは事実でしょう。多数派だったら人類はもう絶滅しています。反出生主義は「生まれないことによるデメリットは認識されないから誰も生まれない方がよい」と主張しますが、この正しさはさておきどこまで広く納得してもらえるかは怪しいところです。

間違っている理由その5:「みんないなくなればいい」は思考停止

 見出しの通り、誰も存在しないことで苦痛を消滅させるのはとってもラクな思考停止だと午堂氏は書いています。問題を回避したり、直面しても対処する時間も充実したもので、そこから成長する実感や生きている感覚が得られるそうです。

 これに関しては、午堂氏自身が「しかし反出生主義者は、そういうことを考えることすら面倒なのかもしれません」と書いているのがそのまま答えでになっています。問題への対処を楽しくやれるならそれもまた一興ですが、望んでもいないのに人生のトラブルにリソースを割かれるのは面倒としか言いようがありません。残念ながら人生を終わらせるのも現状それなりに面倒です。

 思考停止と言いますが、反出生主義者が思考の上では面倒くさがりでなければ、反出生主義は彼らなりの思考の終着点だとも言えます。思考停止なのか行き着くところまで行ってしまったのか、どうすれば見分けられるのでしょうね。ただ一つ言うとすれば、反出生主義にはその正しさの次にはその実現というフェーズがあるので、まだまだ考えるべき物事は多いのですが。

間違っている理由その6:子どもが欲しいのは親のエゴだが、産まないのもまたエゴである

 午堂氏は「子供が欲しいのは親のエゴ」と認めつつもそれは生物の本能であるとします。また子の幸不幸も人生の最後までわからないと言い、子供に起きる問題を生まないことではなく、問題を回避したり対処法を考えたりするという「知性」的なやり方で解決をするほうが効率的だとしています。

 確かに子供が欲しいのが親のエゴであるなら、子供を産まないのもまた親のエゴでしょう。子供に選択してもらうことはできないので、親になる可能性のある人間が、どちらがよいか判断するしかありません。そのことは反出生主義者は百も承知でしょうし、その上でどちらがよいか議論するのが反出生主義です。

 それで午堂氏は人生の評価はその最期の時までわからないとしていますが、これは本人が「生まれてこない方がよかった」という評価を下す可能性も含むものです。「これでよかった」と思いながら息を引き取れればいいのですが、そうでなかった場合は親はどうするのでしょうか。責任のとりようはないですし、もうそのころ親は先立っているからというのではあまりに無責任に思えます。幸不幸はわからないというのは生まれさせてよい理由にはならないように思います。

 また、もちろん子供が直面するかもしれない問題への対処を考え、社会をよりよくしていくという営み自体は称賛されるべきものだと思いますが、しかし根本的な原因が「生と苦が不可分であること」のため、最も完全な解決法は短絡的かもしれませんが、やはり「生まれさせないこと」になります。反出生主義者の少なくない割合は「生まれない方がよかった」という思いを抱えているようですが、これは今の社会が彼らを十分に救えなかったからではないでしょうか。

 この話の中で「事故が起こるかもしれないから飛行機を作らないほうがよいとはならない」とありますが、飛行機と出生の異なる点は、繰り返しになりますが生まれる側は生まれなくても何の問題もないということです。飛行機でも原発でもメリットとデメリットがあり、我々はそれを天秤にかけて判断するわけです。しかし子供には生まれないことによるデメリットはありません。

 午堂氏は「私は子が『自分の人生を自ら切り開くという醍醐味』を、親のエゴで奪いたくないと考えています」と続けています。何か子供に残したいものがあるということ自体はいいんですが、反出生主義者にしてみれば、子供さんがそれを楽しんでくれるのか心配になってしまうでしょう。一般論としては親は子供に人生を謳歌してほしいと思っているのでしょうが、必ずしもそうはならないのがこの世界です。

間違っている理由その7:「生き方を選べる」のが最大の民主主義

 午堂氏は反出生主義に対する率直な感想として、「そう思う本人だけがそうすればいいだけで、他人に押し付ける性格のものではない」と思ったそうです。ヴィーガンにしろ反出生主義にしろ、正義を他人に押し付けようとするのはNGだそうです(その後に「押し付けるな」という押し付けをしている自己矛盾にも言及しています)。

 これに対して反出生主義が言うのは、そもそも出生というのは生きることの押し付けじゃないかという話です。もちろん生まれさせないことも押しつけではあるのですが、思想を押し付けるなと言いながら子供に人生を押し付けている人はその弁解を考える必要があるでしょう。

 それで、なぜ反出生主義が「押し付け」になってしまうのかですが、それは反出生主義がまだ生まれていない子供という第三者を問題にする思想だからです。ヴィーガンも同様で、彼らは動物にも搾取されない権利があると考えています。

 同様の構造というのはこの2つだけにとどまるものではなく、例えば奴隷制や差別、ハラスメントなどにも当てはまります。「あなたが奴隷制/差別/ハラスメントに反対するのは認めるが、私には押し付けないでほしい」と言う人がいたらどうでしょうか。人それぞれとはいきません、なぜなら問題なのは奴隷制や差別、ハラスメントの被害者の権利だからです。反出生主義あるいはヴィーガニズムの正しさがそれらと同等かはまた別の話ですが、構造としては共通しています。

 世の反出生主義者がどうかは知りませんが、少なくとも私は午堂氏と同様、生き方は他者に干渉されず自分で選べるほうがよいと思っています。しかしそれと同時に、生まれないことに勝る自由はないのではないかとも思っています。


 記事はこの後に「産んでくれとは頼んでいない」「貧乏なうち、サイテー」と子供に言われたらどう答えるのがよいかという話が続きますが、午堂氏の考える反出生主義が間違っている理由についてはここまでで一通り見てきましたので、この辺りで私の記事はまとめたいと思います。

 印象としては、反出生主義とは話のレイヤーがどうもかみ合ってないような気がしました。反出生主義というのは「どうしたら損をしないか」という思想と言えるかもしれません。もっとも子供が生まれなければ今生きている世代は困ることもあるでしょうから、まだ生まれていない子供が損をしないようにするというほうが正確でしょう。

 対して午堂氏の意見を見ていると「どうやって得をするか」という思想に基づくように思いました。人生にはこういういいことがあるし、悪いように見えることでも人生に役立てることができるんだよという感じです。午堂氏が経営者であることを考えれば納得のいく話です。経営というのはリスクをとらないと儲けは出ません。おそらくこの「バイアス」は午堂氏も自覚していると思われます(4ページ最後を見る限り)。

 それで、自分がどうやって得をするかを考えるのは全く否定はしないのですが、出生というテーマの下では問題となるのはまだ選択権のない子供です。もちろん生まれたら素晴らしい可能性が開けるかもしれませんが、同時に生まれなければ避けられた数々のリスクにも晒されます。飛行機に例えるならば、今の飛行機は安全ですからもっと昔、まだそこまで安全が確立していないころに、わが子を飛行機に乗せて新天地に飛ばせるかという話になるでしょうか。反出生主義者はそうしなくても問題がないならわざわざリスクを背負わせる必要はないと考える一方、午堂氏は新天地の可能性に子供の未来を賭けるのでしょう。

 生まれたい人だけ生まれてそうでない人は生まれなければいいのですが、芥川龍之介の『河童』のようにはいきません。次善の策として安楽死の自由化という意見もあるようですが、それも私がこの記事から感じたような反出生主義と世間一般のかみ合わなさというのがどこまで解消できるか次第になってくるでしょうか。

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