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安楽死と死のハードル

 このテキストでは、安楽死がもし誰にでも認められるようになった場合、社会にどのような影響を及ぼすのかについて、筆者が考えたことを書いていきます。

はじめに

 安楽死というのは、苦痛を回避しながら人や動物を死に至らせることです。安楽死が検討の対象となるのは多くの場合、回復の見込みがなく苦痛に耐えつつ死を待つような終末期の患者に対しての場合です。安楽死には積極的安楽死と消極的安楽死があり、前者は薬物などにより患者の死期を早めるもので、後者は延命のための措置をせず苦痛を回避しながら死を待つというものです。日本では前者を認める法律はありませんが(後者は患者の意思があれば可能)、スイスのように前者を認めている国や地域もあります。

 安楽死、特に積極的安楽死を認めるべきかは議論があります。苦痛を伴う治療や延命よりも余生のQOL(=Quality of Life)や安らかな死を求める立場もあれば、できるだけ病気に立ち向かい生を全うするのがよいとする意見もあります。また、安楽死が可能になると、患者に安楽死の圧力がかかるのではないかという懸念もありますし、安楽死で本当に苦痛なく死ねるのかは誰にもわからないでしょう。一方で安楽死のための技術も進歩しているようで、2017年末にはオーストラリア人医師が発表した「ハイテク安楽死マシン」が話題になりました。

 今回は安楽死の対象を拡大して、「健康な」人が自分の人生を自分で苦痛なく終わらせるための安楽死について考えたいと思います。すなわち、苦痛なく自殺する手段としての安楽死です。

 筆者は、「自分の人生を自分で苦痛なく終わらせる権利」は(誰も行使せずに済むのが望ましいとは思いますが)認められるべきだと考えています。人生を自分で始めた人はいませんし、不幸になりたくてなる人もいないでしょう。それなのに不幸な人生を送らざるをえないのなら、自分で人生をやめる権利は認められて当然だと考えます。自殺するにしても苦痛や失敗のリスクが伴いますし、どうにもできない原因があって人生を終わらせたいと望む人には苦痛のない死という形で「解決」できるようにするのが人道的なのではないかということです。

 では、そのような万人向け安楽死を認めると社会はどうなるでしょうか。現在そのような公的制度がある国はないようですが、もしそのような制度ができた場合どうなるのか、考えていきたいと思います。

死のハードル

 安楽死が誰でも可能になるということは、「死のハードル」がかなり下がるということを意味します。人間も生物ですから、死を避けるようにできています。そのため、苦しい状況に陥って死んだほうがましだと思ったとしても、それを実行することは簡単ではありません。自殺にはいろいろな方法があるようですが、自殺行為自体に伴う苦痛だけでなく実行するまでの恐怖も大きいものがあるでしょう。また自殺未遂に終わった場合、後遺症が残るなどの影響もあります。現状、自分で人生を終わらせるハードルはそれなりに高いと言えます。

 しかしそれでも自殺者は後を絶ちません。自殺者数は2010年代に入り減少傾向にあり一時期のような3万人超えはなくなりましたが、去年も2万人を超える人が自殺により亡くなっています。これは世界的に見ても多いようです。

 つまり、これだけの人が自殺を完遂しているということは、自殺を考えたことがある人々はもっと多くいると推測できます。そのような人々の前に苦痛のない確実な死=安楽死という選択肢があったならば、下がった「自殺」のハードルを越えていく人が増えることが考えられます(逆に「いつでも死ねる」が安心感につながって結局自死しない人もいるかもしれません)。

労働からの解放

 現在の社会では、大人は労働によって自分の生活費を賄うことが求められています。しかしその労働が自分のやりたいこととは限りません。生活のために我慢してやっている仕事も多いでしょう(そしてそういう仕事は賃金が低いことも多いです)。そういう労働者にとっては、生存を人質に労働を強いられている状態といえます。憲法で生存権は保証されていますし生活保護のような福祉制度もありますが、国や社会としてはできるだけ頼ってほしくなさそうに見えます。

 ではそのような労働者が「こんな生活なら死んだほうがまし」と思ったら、そして楽に死ねたら、どうなるでしょうか。今まで生存を人質にとっていたのにその意味がなくなり、使用者、そして社会との力のバランスが崩れます。つまり「自分たちが死んだらその仕事誰がやるの」となるわけです。

 楽観的な見方をすれば、労働者に死なずに仕事を続けてほしい使用者側が賃金を上げる、待遇を改善することが考えられます。そうなれば労働者としては生活がよくなるでしょう。ただその場合、上がった賃金が消費者にも影響を与えるとは思われます。

 一方で、同じ待遇で満足する別の労働者を連れてくるという手もあります。日本人の中だけではなく外国からの移民、さらにはロボットという手段も多くの現場で現実味を帯びてくるでしょう。その場合、使用者としては労働者を入れ替えればいいだけですから、元の労働者は仕事を失います。「嫌なら別に死んでもいいよ」になってしまうだけです。

 近い将来、AIなど技術の発展により人間の労働者の代替が進むことは確実でしょう。そうなったとき、人類は皆で労働から解放され技術の進歩を享受するのか、あるいは生産手段を持つものと持たざるものでさらに格差が拡大するのか、後者の場合は安楽死制度は行き場のなくなった「元労働者」のために作られるのかもしれません。

与信

 死のハードルが担保しているものとして、人間はそう簡単には自ら死を選ばないという「信頼」があります。その信頼の上に成り立つ構造は、例えるなら、三途の川に背水の陣を構えさせるようなものです。安楽死で死のハードルが低くなれば、その信頼が揺らぎます。安楽死の実現は三途の川に橋を架けるようなものでしょう。

 そう簡単に死なないという信頼の上に成り立つもの、それは社会における「契約」です。この信頼が揺らぐことで大きな影響を受ける契約の一つとしてお金の貸借があります。お金を借りることは返しますという約束とセットであり、貸す側は相手の稼得能力や資産、これまでの貸借の返済実績などを考慮して判断します。

 しかしこれらの条件の根底にあるのは、返す側が返すまで死なないということです。もちろん事故死等のリスクは現在もありますが、返済に困ったときに安楽死という選択肢があることは想定されていません。自死を選ぶくらいですからその人の財産はマイナスでしょうし、そうなると当然貸した側が損をすることが多いでしょう。そのようなリスクがある場合、保証人になる人もなかなかいるとは思えません。こうなってしまえば、与信のハードルは上がるでしょうし、精神面での安定というのが重要な判断材料になると思われます。債務があるから安楽死は認めませんとするのも人権問題になりそうです。

将来設計

 安楽死により死のハードルが下がれば、今すぐ死にたいと思っていない人でも将来の利用を考えるかもしれません。医療技術の発展により、日本人の寿命は延び、「なかなか死ななく」なりました。しかし、それは老後の健康の保証ではありません。体は衰えますし、がんなどの病気のリスクもあります。認知症になれば介護する側の負担も大きくなるでしょう。そのような状態で寿命を全うするよりも、自分で「終わり」を決めたいという人はいるはずです。「終活」の進む先の一つかもしれません。

 そうなれば、現在はいつ死ぬかわからないままに行われている「老後の備え」の形も変わってくるでしょう。独身であったり子供がいない人は、介護が必要になったときに誰に頼むかの不安もあるでしょうし、低所得の人は老後の備えより現在の生活を優先したいかもしれません。そのような人々には、安楽死は将来設計の役に立つでしょう。

 仮に老後に期待しない人が多くなった場合、年金などの支払いが問題になります。年金が現役世代のうちに積み立てて老後にもらうという理念に基づくとすれば、老後にもらうことを諦めれば払う必要もないことになります。しかし、実際には現役世代の払った年金は同時代の高齢者に支給されます(賦課方式)。

 この方式だとインフレに強いなどの利点もある一方、少子化が進むと現役世代からの収入が減り払った分の年金がもらえなくなる可能性もあります。日本ではこの先も少子化が進むと予想されており、それは将来満額もらえるかわからない年金を払うことへの抵抗感にもつながります。そして将来安楽死することを見越して年金を払いたがらない現役世代が増え、年金制度の変更を余儀なくされた場合、影響はその時すでに高齢者になっている人たちに直撃します。

 また、近年は年金の受給開始年齢が引き上げられています。財政に余裕がない場合、人がいつ死ぬかわからない現状では受給年齢を引き上げることで年金支出を抑制するしかありません。もし安楽死が普及すれば、「年金受給終了年齢」を個人が設定することで年金生活を前倒しできるようになることも考えられます。ただそうなっても、自分で設定した年齢になってから死にたくなくなってしまった場合が問題になります。年金を積み立てなかった人にも同様の問題が生じうるでしょう。

合法的抹殺と復讐

 安楽死により死のハードルが下がった場合、圧力により不本意ながら安楽死に追い込まれることが懸念されます。あるまじき行為ですが、しかしそれを殺人として立件できるかといえば難しいでしょう。数人による包囲攻撃ならまだしも、もっと多くの人、さらには社会が攻撃主体になる可能性もあります。つまり、人間を法に引っかからない範囲で追い詰めて抹殺することもできるようになりかねないということです。「自分には生きている価値がない」「死ぬしか逃げる方法はない」「早く死んだほうがよい」、そう本人が思ったのだからそれまで、「被害者」は永遠に泣き寝入りするしかないのでしょうか。

 しかし、追い詰める側にもリスクがないわけではありません。法に触れることを回避したとしても死を覚悟した側の復讐が待っているかもしれません。追い詰められた側はもう死のうと思っているのですから、今更恐れるものなどないのです。窮鼠猫を噛むです。容疑者や受刑者の安楽死の権利がどう扱われるかはともかく、死刑を最高刑としている以上、死んで償いたいと言われれば認めないわけにもいかないでしょう。

 ただ、誰しも捨て身の復讐ができるわけではありません。そのため、安楽死の前にどうして安楽死を望むようになったのか、安楽死以外に問題を解決する方法がないのかを一緒に考えるシステムが必要になるでしょう。

おわりに

 ここまで安楽死を誰でもできるようにした場合の影響について考察してきました。まとめると、安楽死により死のハードルが下がり、そう簡単には死なないという「信頼」に基づいた社会の仕組みが揺らぐ可能性があります。また、自分の死期を決められることによる社会保障などへの影響もあるでしょうし、安楽死の圧力とそれに対する復讐が生じる懸念もあります。

 安楽死が普及した社会はどうなるでしょうか。誰もが死まで含めた人生設計をできる、いつでも死ねることが「武器」になるというのは少々楽観的過ぎるでしょう。弱者が脱落する実質的な優生主義装置になる可能性もあります。適者生存、淘汰が進み人類の進歩が早まると「優れた人々」は思うかもしれません。しかし、安楽死で「自ら」退出した人々は彼らの足元にいたのであり、敗者が大人しく死んでいったとしてもだるま落としのように彼らにも安楽死を強いられる番が回ってくる……というのは考えすぎでしょうか。

 

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