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冒険譚のラストシーンにて -4-


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炎の消えた闇のなか、新月のような色をした鱗が煌めく。
竜が口を閉じて父と敵将に向き直っても、竜の恐ろしい咆哮はいつまでも街に木霊していた。敵将が悲鳴を上げながら自軍の方へと駆けていく。

じっと父を見つめる竜。それを呆然と見ている父。


竜はその長い首を僅かに下した。
他の者には、威嚇のように見えたかもしれない。だが私と父には解った。
見覚えのあるそれは、あの竜の「別れの挨拶」だった。



少し下した首を、またもたげて。なにかを叫ぼうとした父を制するように、竜が再び咆哮する。

” お前に瀕死の傷を負わされてから20年、お前を殺す日を夢見て今日まで来た!!何と言う無様な姿だ!お前を殺すのは私だ!! ”

私や父を傷つけまいと、いつも小さく穏やかな聲で囁いていた竜が。いまや風の刃となって人間たちに吹き付けることも構わず、大声で叫ぶ。びりびりと肌を刺すほどの衝撃と鋭さ。その大きく張り上げるような台詞は、まるで茶番劇の役者のようで。私は彼が演じようとしている役どころを理解して、悲しくて胸が痛くて泣いてしまう。

” 私の獲物だ!私以外に、この男を傷つける者を赦さぬ!この街を壊すものを赦さぬ!私の復讐を穢すものを赦さぬ!! ”


その場にいる全ての人間たちを縮み上がらせるのに十分すぎる迫力と恐怖。それは神々の域にある生き物だと、皆に思い知らせ、そして畏怖させる。
竜は怒りを孕んだ息を荒げながら、大きな躰をぐるりと一周させて、竦みあがる敵軍へと向き直る。その昏く光る眼に射抜かれて、人間たちは身じろぎひとつできない。
そして___竜が喉をそり上がらせて息を吸い込み、軍へと息の限り再び咆哮した時には、そこには一筋の大きな伽藍洞ができていた。竜巻が通り過ぎた後のように、あれだけひしめき合っていた人間たちの跡形もなく。
何もかもを消し去る風圧を免れた兵士たちは、大恐慌に陥った。我先にと元来た道を戻ろうと藻掻く矮小な人間たちを、怪物は赦さない。

切り裂く。踏みつぶす。噛み砕く。巨大な竜がただ軍を追いかけ身をよじっただけで、ありとあらゆる暴力がそこに発生した。竜の躰が赤黒く汚れていく。月や薄氷に似た、虹を抱いていた鱗が、穢れていく。

距離のある者はなんとか武器を振るったが、剣も、矢も、炎も、何もかもが竜には無意味だ。こんなにも人間たちを圧倒してゆくのに、そこに実体がないかのようだった。まるで霞のように矢や剣がすり抜けていくのを見て、兵士たちは狂乱しながら絶望する。その抵抗は余計に竜を怒らせるだけで、しまいにはほとんどが烈風の中に霧散していった。






___風が収まる。
落ちた沈黙が耳に痛い。たった数分のようにも、数時間のようにも感じる一方的で無慈悲な狩り。竜の前には綺麗なほどに何もなくて、ただ、美しい竜の体だけが穢れていた。






▽▽▽






息を吸う。吐く。生まれて初めて聲を張り上げ喚き散らした喉は痛くて、そして自分の躰にこびりついた血の噎せ返る匂いが、ただただ不快だった。躰が重たい。

「……全員避難しろ!俺がなんとかする!!」

背中側で聞こえる、数年ぶりの男の声。泣きそうな声。泣くな。お前は英雄で、この街の長だろう。
怯えて逃げ惑う街の兵士たちを何とか宥めて避難させる男の言葉に、思わず少し笑ってしまう。そういえばお前も随分前から、役者であったなあ。わたしなどよりもよっぽど、ちゃんと板についたじゃないか。
兵士たちの声や足音がすっかり遠くなって、自分の躰の重たさに耐えきれなくなったわたしは地面に横たわる。起こった地響きに躓きながら男は走り寄ってきて、そしてもうすでに泣いていた。その横には、すっかり大人びたファリアが。

” …ああ、とんだ三文芝居だった。茶番劇にはもう出ないと、決めていたんだがな ”

ふたりがわたしの鼻先で泣いて離れないので、枯れた喉で喋っても風は起こらないことに安心した。いや、喉が枯れているからではなくて、わたしのなかの力が尽きかけているからだろうか。鱗の隙間から染み込んだたくさんの人間の血に、内側に宿っている神聖が滲んで溶けていくのを、ずっと感じていた。男が山を護って育んでくれた神聖だったから、わたしは自分の命よりもそれを惜しく感じる。

” 泣くな、たのしい冒険だった 。 植物だったわたしにも 、おまえたちのために 振るえる力があるのだと ああ 愉快だ ”

ざらざらとした笑いが口から洩れる。
軽蔑するか?わたしは、お前たち以外はどうなってもいいのだ。消し飛ばして骨の欠片さえ残さなかった大勢のことだって、気にもならないのだから。
何かを護ろうとする時、同じだけの重たさの犠牲を払うことになる。何を捨てるか選ぶ時、お前は1番先に自分の命を選ぶことがわかっていた。
わたしが何を護るか選ぶ時には、その1番目にお前たちがいるというのに。


きっとこの先、お前たちやこの街を襲おうなどと言う阿呆は出てこないだろう。だから、わたしがしたことに何の後悔もない。

「いかないで!!」

涙をいっぱいにためたファリア。腕に傷がつくことも構わず私の鼻先を抱くので、わたしも開き直ってその手に擦り寄る。ああ、柔らかで優しい掌だ。この掌はこれからきっと、たくさんの永遠を知っていくことになる。わたしがその未来を護ったのだ。

「そんな、そんな…!まだ何にも恩返しできていないのに…!」

男が、服の袖で鱗の血をぬぐおうと躍起になっている。鱗の色が、黒く淀んできたことに気が付いたのだろう。数百年前、滅んでいった竜たちの最期もこんなだった。内側の神聖が穢れたら、永久の竜の命はそこで閉じる。

” ここでお別れだ 。さあ 顔をよく見せてくれ ”

最期に見る二人の顔は、涙でひどいものだった。わたしの死に向けられた涙。誰にも看取られぬはずの竜を、悼む涙。

” こころを持つと、生は重たすぎるものだなあ 。だが、本当によいものだった わたしに、意味のある生と死を教えてくれて、ありがとう ”

やっとのことで呼吸する。肺に入る空気が重たい。
【     】。吐息と一緒に竜の言語で呼べば、ファリアがはっとする。その前髪が風に踊って、涙がぱっと散るのを、わたしは網膜に縫い留める。男が傷だらけになりながらわたしの首を撫ぜる。その優しい指の温度を、忘れぬように焼き付ける。

” わたしは 【     】の元へ還るよ。
  幸福に生きろ、永遠に ”





もう瞼すら重たくて、わたしは抗わずに目を閉じた。二人の匂いもわからないし、もう声さえ聞こえない。いままでで一番つよい眠気が、尾から頭へと染みわたっていく。
瞼の裏側の白い闇だけを知覚していた。そこに、あらゆる記憶が映し出される。ただの木偶だと思っていたあの日の男。一緒に祭りの音楽を聴いたこと。男と星を眺めて、神話を教えてやった夜。子が生まれたと泣いて駆け込んできた朝。赤子だったファリアを初めて見たとき。忙しい仕事の合間を縫って時折顔を出した男。ファリアがたった一人でわたしに会いに来た雨の日。男によく似て無鉄砲で、頑固で、そしてとても優しい子だったこと。帰ってゆくふたりの背中。いつの日もふたりに会いたかったこと。ふたりを夢想しながら過ごす日々は、とてもとても永かったこと。最期にわたしを想って、泣いてくれたこと。それらが半透明の立体となって立ち上がって、白い闇の中を私に向かって吹きつけてくる。竜の言語が起こす、誰も傷つけない風のように。
わたしはきっと笑っている。ああ十分だ。こんなにもたくさんのものを手に入れた。

大昔に消えていった竜の仲間たちは、終わりの瞬間にこんな走馬灯など視なかっただろう。彼らの生はからっぽだったから。
湧き上がる幸福感に胸の中心が灼けつきそうだった。このこころを抱いて消えてゆく。わたしは、わたしだけが、こころをもった竜だった。世界でいちばん幸福な竜だった。






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____喪失感でどうにかなりそうだったあの冬が終わって、春が来て、そして夏が来た。
関所ひとつが燃え墜ちただけで、私たちの街に何の被害も出さなかった争い。父と私の、取り戻しようのない宝物がたったひとつ失われた争い。

あの聡い竜が演じきった役は、完璧だった。彼は「三文芝居の茶番だった」といったけれどそんなことはない。あの演技は完全に、私と父と母以外の全ての人間を騙し切った。送り込んだ軍をほぼ全て塵にされた領地からは、勝手に始めたくせに、これまた勝手に停戦協定の申し入れが送られてきた。すべての兵力を失ったのだから、こちらにいま報復をされれば困るのは明白だったからだ。私はとても納得できなかったけれど、でも父はある程度こちらの利になる条件を飲ませたうえで、それを受け入れた。

「あの竜はすべてわかっていたのさ。どんなに悲しくて、悔しくても、いまその台本を俺が受け取らなくてはいけない」
「俺たちの余生はあの竜の形見だ。生きていかなくては」


父は数日ふさぎ込んで泣いていたけど、でも、そう言いながら街の長としてまた立ち上がったのだった。
そして街に根付いていた信仰は、より強固なものになった。生物としてあまりに圧倒的な姿とその力を目の当たりにして、「非力な人間は自然の内側で生かされている」という教えは実感に変わったからだ。しかもその畏怖は、この街の者だけじゃ無く王国中に広まっていった。
山周辺の領地や噂が届いた王都などは、「けしてあの街や英雄へ手を出さないでおこう」と肝に銘じたことだろう。もし父が死んだ後でだって、私たちの街へ手を出せるはずもなかった。ここは「最悪の怪物」が永遠に棲まう山のお膝元なのだ。

あの怪物は、あの後再び父に瀕死においやられて山へ帰っていったのだと皆は思っている。でも本当は、私たちの美しく優しい竜は死んでしまったのだ。私たちの目の前で、星屑になって夜に溶けていってしまったのだ。



それがいつまでも受け入れられなくて、わたしは頻繁に竜がいた山へ足を運ぶ。鮮烈な記憶は薄れたりしない。だから子供の頃にたどり着いた竜のねぐらをちゃんと憶えていた。そこまでの道を通るたび、日に日に樹々や草花が元気になっていくような気がしている。遠い雨の日、竜は「お前の父が興した信仰のおかげで、山が再び生き返ろうとしているのだ」と話してくれた。きっと、街の信仰が強くなったおかげで竜が”神聖”と呼んでいたエネルギーも強くなったからだ。信仰が育んだ神聖がもっと強くなれば、いつの日か山頂には再び竜たちが生まれ落ちるのだろう。そしてあの竜の噓が、ずっとずっとその子たちの穏やかな日々も護るのだろう。


竜のねぐらは。樹々がどんどん葉をつけて育ち、花が咲き誇る花畑になりながら。それでも竜が寝ていた場所だけは薄らかな低い草だけしか生えていなくて、まるで主人の帰りを待っているかのようだった。横に生えている大木だって、かつて竜がいた場所にだけは陰を落とさぬように枝をひそめている。柔らかい陽光がスポットライトのように落ちるそこに、ちょうど美しい竜だけが、居なかった。

「【     】という星に還ってしまったの。もうここには、あの竜は戻ってこないのよ。」

からっぽのねぐらへ、小さい子に言い聞かせるみたいに、自分に言い聞かせるみたいにそう言った。
最期の時、竜は私の名を呼んでから、”【     】に還るよ”とそう言った。
それは ”お前と永遠に一緒にいるよ”と言ってくれたのだと、悲しくて気がおかしくなってしまいそうな私に父が教えてくれた。その言葉が、立ち上がれないくらいにひび割れて粉々になってしまった私のこころを繋ぎとめている。




私生きるよ。生きて、あなたと同じように、死に奪われない何かを握りしめながら死にたい。
そしたら【     】でまた会おう。そうして、「失われないもの」の中にあなたがいたと、証明したい。
あなたからすれば、きっと居眠りほどの時間でしょう。待っていてね。


草花を揺らす風が吹いている。
その風が私の背を撫ぜる。
竜は、竜は、永遠にここにいる。

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