なぜ山に登るの
近ごろ口を開くたび、山の話をしている。
8月の終わりにゆるゆると始めた登山。すっかりはまってしまい、それから毎月のように山へ行っている。登山がしたいのではなく、自然の近くにいたい、という感覚が近い。自然が近くにあることが自分にとって良い状態だと思うから。
アウトドアグッズや山に関する書籍なんかにも興味が出てきて、少しずつ買いそろえるのも楽しい。
そんな中で、「串田孫一」という人に出会い「山のパンセ」を読みはじめた。有名な書籍だったけど、今このタイミングで初版本に出会い、購入した。
最初の節、「山での行為と思考」にこんな一文がある。
どうしてまた急に、そんなに山ばかりへ行くようになったのかと言って首を傾ける者もいますけれども、私は別に、自分のことを不思議に思ってはいません。
そうそう、わたしも不思議には思っていない。自然なことだな、としっくりきている。このあと、「山で何を考えているのか」という質問にも、同様に答えられない。何を考えているか覚えていない、考えていないわけではないのに。というような文章が続く。
山では自分の行為の質が変るように、思考の質も変わるのでしょう。
わたしは山で何を考えていただろう?と思い返す。まだ少ない登山経験の中で、基本的には友人たちと、他愛もない話をしながら歩いている。だから何も考えていないというわけではないのだが、確かに街中にいるときとは何かが本質的に違うように思える。それが何なのか、まだ分からない。
何かにつけて迷うことがあまりに多い私は、次々にどちらかを選ばずには一歩も進めないようなところへ自分を立ち向かわせる必要を感じ、それで山へ出かけているというわけなのです。
ところが、山での行為と思想が一つになる場合があります。私は、秘かにそういう機会に巡り会うことを願って山へ出かけているような気さえしてきました。
串田孫一のこういったことばが、今のわたしにすっと入ってくる。
わたしが山の中にいるとき、わたしの心に何がおきているのか。何を求めて山に登るのか。いや、何も求めていないのかもしれないのだけど、いわゆる「内省タイプ」のわたしにとって、山の中で過ごすことがとてもいい機会になるような予感がしている。
そんなことを抜きにしても、山の中に入って葉っぱをふみしめる音、土のにおい、空気がどんどん澄んでいくこと、すっきりした仲間たちの顔。そんなことを思い浮かべるだけで、山に行くのが楽しみで仕方がないのだ。
うれちい