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近くて、遠い

すっかり酔いがまわって、頬があつい。血液が皮ふの外にじゅわっと染み出ているような気さえする。ふうっと吐いた白い息は、アルコールが濃縮されたようなにおいがした。

「ねぇ、恋愛と結婚って別だと思う?」

午前中のうちに待ち合わせて、まずは蕎麦屋にはいった。勧められるがままに日本酒をすすり、鴨をつつく。表面の焦げたこうばしい鴨をかじりながら、わたしは彼の指先ばかり見つめていた。長く、細く、まっ白な指先。手を伸ばせば届くところにあるのに、けっして触れることのない聖域。

「恋心じゃあ、結婚はできないよ」

「どうして?」

ひとしきり蕎麦をたのしむと、今度は川沿いを歩いた。彼のポロシャツのすそにほころびを見つけて、少しだけ安堵した。どうやら、ほころびをつくろってくれるような相手は、まだ見つかっていないらしい。

それから古本屋で本を一冊ずつ手に入れて、喫茶店で向かい合って本をめくった。一遍読んだら互いの本を取り替えようという暗黙のルールを破ってしまったのは、わたしのほうだった。「むつかしくて読み解くのに時間がかかるんだもの」と、でまかせを言うと、「嘘つき」と、彼は笑った。目にきゅっと寄ったしわが、出会ったころよりも深くなったような気がした。

喫茶店を出ると、彼の行きつけだというイタリア料理店でワインをしこたま飲んだ。苦手だと言い出せないまますする赤ワインは、燃えるような味がした。喉をすべりおちて、胃も、腸もすっかりとろけさせてゆく。口のなかにはタンニンが、いつまでもざらざらと砂のように残っている。

「結婚は、恋心と切り離さないとうまくいかないから、だよ」

「じゃあ、結婚願望は?」

困惑すると、眉をぎゅっとあげる癖。つられて眼鏡がほんの少し持ち上がるその姿がすきで、わたしはたびたび彼を困らせた。けれどどうしても、いちばん彼を困らせるたったひとことが言えなかった。

「僕はきみとならいつだって、結婚したいと思っているよ」

「……それって、いちばん残酷」

彼の真っ白な薬指にのこる、ひときわ白い一本の筋。彼もかつては、切り離せない思いに焦がれていたのだろうか。いまの、わたしがそうであるように。

指先が触れ合わない距離で、並んで歩く。彼は息をするようにやさしくわたしを拒絶する。きっと、あともう一歩踏み込んだら、この関係は終わるのだ。隣にいるのに、近くて、遠い。手をのばすこともかなわないまま、わたしは今夜も彼を見送った。


* * * * * *

ここのところすっかりお仕事の文章ばかりなので、息抜きに創作を。

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