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#1 吉田松陰 〜コテンラジオを聴いて〜

明けましておめでとうございます。ぱんさくです。
年明け早々、心が痛む出来事がありました。
被害に遭われた皆様は、今も不安な日々を過ごされていることと思います。
少しでも状況が良くなることを祈りつつ、心よりお見舞い申し上げます。

2024年1月1日は、「一粒万倍日」と「天赦日」そして「元旦」というものすごく縁起がいい日らしい…という事で、私も早速COTEN RADIOを聴き直し。
ただ聴くだけよりも、と思いラジオを聴いた後は本も一冊読んでみました。
以下吉田松陰編の内容やら感想やらつらつらと書いていきたいと思います。


1. COTEN RADIOからの学び

恥ずかしながら私自身は、日本史は得意ではなく、吉田松陰と聞いてもあまりピンとこない…というのがPodcastを聴く前でした。
なんなら、初めて聞いた時には「このPodcast、めちゃめちゃ評価高いけど最初のシリーズは吉田松陰かぁ。結構チョイス渋いけど、面白いんだろうか?」なんて半信半疑でした。

とりあえず聞いてみるか…と再生ボタンを押してみるとあら不思議!
いつの間にか1時間が経過して、「吉田松陰ってやばい!」と感化されてしまっていました笑
COTEN RADIO、勉強になる上に本当に面白くて聴きやすいので、ぜひ聞いてみてくださいね。

COTEN RADIOから伝わってきた吉田松陰という人の魅力は「行動力」そして「他人への影響力」です。

どうやら思い立ったら即行動!というのが彼の指針のようで、江戸に黒船が来航したときには、弟子と2人で小舟を漕いで黒船に乗り込みに行ったのだとか…
鎖国中の日本に黒船が来ることは、当時の人たちにとって、宇宙人が攻めてきたと喩えられるほど怖いことだったようなのですが、吉田松陰はそれをアメリカから学ぶチャンスだと捉えて行動する人だったみたいです。

「他人への影響力」のエピソードとしては、吉田松陰がある犯罪を犯して山口の野山獄に収容された際、なんと周りの囚人までもを巻き込んで教育を始めた、というものがありました。しかも看守までもが、吉田松陰の授業に参加していたそうです。荒くれ者だけではなく、監督する立場の看守まで巻き込むなんて、なんて人たらしなんでしょうね笑

他にも色々なお話をされていましたが、ここまで聞いた私は「松陰ってどんなふうに育ったんだろう?」と思って、自分でも調べてみることにしました。
吉田松陰にしても、COTEN RADIOにしても人への感化力がハンパないですよね。

2. 「吉田松陰と松下村塾の志士100話」 (山村竜也 著) を読んで

吉田松陰の人生を自分でも調べてみたくて、手に取った本がこちらです。
他の本は、語録が多い印象でしたがこちらは志士100話ということで、吉田松陰の人生を網羅していそうな印象を受けたのと、Kindle Unlimitedで読み放題だったことが理由です。

読み始めてみてわかったことですが、松陰は想像していたよりもものすごい勉強家でした。そして生粋の教育者でした。
自分自身の覚書として、彼の人生の一部(生い立ちから江戸遊学くらいまで)を簡単にまとめさせてください。

2-1. 吉田松陰の生い立ち

吉田松陰は、1830年に山口の萩で杉家という下級武士の家に次男として生まれました。兄の他に、妹・弟が6人もいたということで、あまり裕福な暮らしではなかったみたいです。
実際、吉田松陰の父は半農半士として働いており、農作業のために畑に松陰とその兄を連れて行った際には、農作業をしながら四書五経を教えていたとのことでした。
吉田松陰の幼少期については、彼の実の妹の話が紹介されていて、他の子供のように凧やコマで遊ぶのではなく、ずっと机に向かって読書をしていたと話していました。また、いつも着物の懐に本を何冊も入れて持ち歩くので、着物の首筋が肩にかかるくらい崩れてしまっていたとか。
本当に学びに余念がない笑

2-2. 杉家の松陰が”吉田”になったワケ

実は松陰には2人の叔父さんがいます。2人とも他家に養子に行き家督を継いでいました。1人が吉田大助、もう1人が玉木文之進でした(2人とも松陰の父の弟にあたります)。
叔父の吉田大助には跡継ぎがいなかったため、松陰は幼くして吉田家の養子になりました。しかし、吉田大助が急死してしまい、松陰は6歳という幼さで吉田家の家督を継ぐことに。吉田家は長州藩の兵学師範を担っていたため、この時点で藩校である明倫館で兵学を教えるという宿命を背負うことになります。
松陰の兵学の教育は、もう1人の叔父である玉木文之進が行いますが、彼の教育はかなり厳しいものだったとか…
松陰が幼くして勤勉だった背景にはこういった生い立ちが関係しているのかもしれません。

2-3. 松陰11歳にして、頭角を現す!

彼が勤勉であったことは先述の通りですが、玉木文之進の教育の成果もあり、松陰は11歳の時に長州藩の藩主である毛利敬親の前で講義を行うことになります。
その講義は藩主や他の重臣たちが目を見張るほど、すばらいしいものだったということです。
しかも11歳というのは数え年での年齢だそうで、現代の年齢だと9歳に当たるようです。でも9歳ってせいぜい小学校中学年。すごすぎないか、松陰!
それから彼は、萩城下でも有数の秀才として知られるようになります。
そんな松陰の目を国外へ向かせたのは、後見人を務める山田右衛門という人でした。彼は16歳の松陰に、当時の世界情勢を知る最先端の本を贈ります。
それに衝撃を受けた松陰は、西洋事情に通じた藩士である山田亦介から、西洋列強の脅威を学んでいきました。
そして17歳の頃には「外夷小記」という外国のに渡来船に関する情報をまとめた冊子を編集します。このときにアヘン戦争で半植民地化されていく中国(清)の姿ににはかなりショックを受け、日本も同じように西洋列強に攻められる日が来るのではと危機感を抱いたようです。

2-4. 松陰、旅に出る。

西洋諸国への脅威をきっかけに西洋兵学について学ぶため、21歳になった松陰は九州、そしてその後は江戸へと遊学を行います。
江戸では、様々な師のもとで学びますが、代表的なのは当時随一の西洋兵学者だった佐久間象山です。
また江戸遊学中には、視察の名目で友人との東北旅行を計画しますが、出発の直前に通行手形の発行ができていないことに気がつきました。今でいうパスポート的なものらしく、当時の旅行の際には必ず必要なものだったのですが、出発日までに間に合わないと悟った松陰は、手形を待たずに出発します。不法出国ですね笑
もちろん江戸に戻った松陰は罰を受けることになり、強制的に帰国(江戸→萩)、そして長期の謹慎となりました。
強制送還は本人的にかなりショックだったみたいですが、謹慎中は読書に励んでいたようです。また謹慎部屋には、松陰から学ぼうと過去に明倫館で教えた学生たちが出入りするようになったとか。
不法出国をして謹慎中の犯罪者であるにも関わらず、松陰から学ぼうと思う学生が多くいて、その影響力と人望には驚かされますね。


遊学時代やこの後のエピソードもとても面白く、吉田松陰が本当に日本の将来を憂いていたことや、とにかく思い立ったら即行動!の人であることがわかるものばかりでした。
今回読んだ本には、松蔭が関わった人々とのエピソードが多くまとめられていて、とても勉強になるのでこちらも興味があれば読んでみてください!

3. まとめ!

吉田松陰の半生を少しだけ紹介しましたが、生い立ちの部分だけでも彼がどんなに勤勉であったかわかるかと思います。
COTEN RADIOを聴き、本を読んだ後で吉田松陰という人を一言で表すとするならば、「真っ直ぐすぎる人」でしょうか。
自分が人生の中で何を成し遂げたいのか、いつも軸を持って行動しているように見えますし、実際そうだったのだと思います。
だからこそやるべきことに情熱を注ぎ、真っ直ぐに向かっていくことが可能で、そんな姿勢が周りを巻き込んでいくことにつながったのかもしれません。

いつの時代も何かに本気で取り組む人って魅力的ですよね。
私もそんな姿勢を見習って、いろんな活動にチャレンジしていきたいと思います。

最後まで読んでいただきありがとうございました。


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