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さなのばくたん。 最高のショーに感じた喪失感(を乗り越えて)

1.はじめに

はじめまして、私のnoteを開いて下さりありがとうございます。

これは、私が「さなのばくたん。-ハロー・マイ・バースデイ-」を現地に見に行ったときの感想と自分なりの解釈をまとめたものになります。名取さなを見始めて1年足らずのVtuberオタクの感想なのでご容赦ください。なお、少しネガティブな内容とメタ要素が含まれます、ご注意ください。


 3月7日、川崎チネチッタで初めてのさなのばくたんを見終わった直後、大きな衝撃を受けた。というより、なぜか突き放されたようなショックを受けて悲しかった。自分でもその感情が理解できずに戸惑った。泣いているせんせえもいる中、呆然と、取り残されたような気分だった。その感情の理由を整理するため、私はこのnoteを書くことにした。

2.最高のショーに感じた解釈不一致

 ショーの前半と中盤までは普段の配信のような温度感で楽しく見られていたのだが、最後に名取■奈が出てきて独白するシーン、そして名取さなと一緒に歌い、解決するシーンで「とうとうこの物語が終わるのか!?」という緊張感、それと同時に唐突な違和感に襲われ、そのまま違和感が無くなることはなく、ショーは終わった。
 その違和感の正体は、結果から言えばただの「解釈不一致」だった。しかし、この解釈不一致を説明するには、Vtuberという存在が一体何なのかまで遡って考える必要があった。そのため、これからは違和感の説明のために、名取さなとは直接関係ない自分の中のVtuber論を展開していく。
(ただの持論語りなので、”4.違和感の正体”まで飛ばして大丈夫です)

3.Vtuberを見ているとき、我々は何を見ているのか?

Vtuberの種類

 まず、Vtuberとは何なのか、遡って考える。自分の中の定義は「リアルの人間の顔を出すことなく、立ち絵をもって活動するYoutuber」だ。分解すれば条件は2つ。①中の人が顔出ししないこと。②立ち絵・素体をもっていること。
 そして、現在Vtuberは大きく分けて2種類あると考えている。一つは、「声優系Vtuber」、もう一つは「覆面系Vtuber」だ。大別するときの着眼点は、「Vtuberを見ているとき、我々は何を見ているのか?」という部分だ。

声優系Vtuber

 声優系Vtuberとは、既存のキャラクターをYoutube上で活動するために多く用いられる活動形態で、中の人は基本的に声優としての役割しか持っていない。構図としては以下の通りだ。

声優系Vtuberの構図

 例としては、キズナアイ(初期)・ゲーム部・猫宮ひなた(過去)・ぱかチューブ(ウマ娘)・アロナちゃんねる(ブルアカ)など。
 特徴としては、Vtuberの中でもアニメよりで、独自の世界観を作っているところや箱外コラボが難しいところ(する必要がない場合が多い)。前々から完全な設定がつくられており、視聴者は作られたキャラクターの言動を楽しみ、中の人はコンテンツに含まれないように設計されている。

覆面系Vtuber

  覆面系Vtuberは、Vtuberとして活動する意義の第一が顔出しを避けるためであり、それに加え立ち絵や設定の魅力を付加価値として利用するためという意義も含んでいる。現在最も主流なVtuber。注目すべきところは、中の人もコンテンツの一部に含まれているという点。
 覆面系Vtuberはその中でも2つに分けることができる。

1.生主タイプ

生主タイプの構図

 例としては、ホロライブ・にじさんじ・その他の大半の箱と配信勢個人Vtuberなど。
 特徴としては、中の人の人柄と作り上げられたキャラクターの両方を楽しむところであり、キャラクターの性格は基本的に中の人と同一。設定を守るかどうかは人によってグラデーションがある。それによって、中の人とキャラクターのどっちとして楽しむかの比重が変わる。例えば、設定を守るとアイドル的な売り方になり、キャラクターの魅力が増すことで海外ウケしやすくなったりする。

2.Youtuberタイプ

Youtuberタイプの構図

 例としては、おめがシスターズ・ぽこぴー・アズマリム・動画勢個人Vtuberの多くなど。
 特徴としては、実写の動画が多く、顔出ししない(見た目がキャラクターの)Youtuberをそのまま楽しむような感じ。設定は活動内容にあまり影響せず、普通のYoutuber同様コンテンツが重視される。まとめると、生主タイプがニコ生から来た配信者にキャラの魅力を足したような体裁なのに対し、Youtuberタイプは普通のYoutuberにキャラの魅力を足したようになっている点である。


 ここまでは、自分のVtuber論を説明してきたが、これから先はついに、解釈不一致の原因に迫ろうと思う。


4.違和感の正体

※以下、名取■奈の中の人を「ナトリサナ」と呼称する。

 違和感の正体、解釈不一致の真相は、自分が、普段配信を見ているときの構図とさなのばくたん。での構図の違いにあった。

普段の配信での構図

 今までは、私は「名取さな」のコンテンツを、名取さなを演じている名取■奈を演じているVtuberとして見てきた。簡単にいえば、「Vtuber系Vtuber」とでも言うだろうか。名取■奈は、ナトリサナの人間的な部分をキャラクターに昇華させたアバター的な存在であり、名取■奈=ナトリサナ。名取さなはナトリサナ(名取■奈)の憧れや好きなキャラから生み出された存在だと解釈していた。一方、今回のさなのばくたん。での構図はこれだ。

さなのばくたん。での構図

 ナトリサナはコンテンツの対象ではなく、監督・演者だった。つまり、「名取さな」コンテンツは、ナトリサナに迫るコンテンツではなく、ナトリサナ監督の『自分と似た設定の「Vtuberを演じるVtuber」』という創作物だったのだ。
 自分のVtuber論を用いて説明すると、私は「名取さな」コンテンツを、生主タイプの覆面系Vtuberとしてみてきた。すなわち、ナトリサナ自体も一部として楽しんでいたが、今回のイベントで名取さなは、中の人を含まない声優系Vtuberであることがわかった。

 図示すると、上のようになる。イベントを通して、一番外縁の性質が取り除かれ、声優系Vtuberへと変質したのだ。

 私はVtuberの魅力の一つに、匿名性をもつことでより強調される中の人の人間味の部分があると思っている。外見では判断できない人間味といっていい。Vtuberをやる人の人格形成には、少なからず暗い歴史が含まれることがある、祖父の死後借金が見つかった、無理心中に巻き込まれかけた、実家が火事にあった、彼女に全財産を持ち逃げされたなどなど、その部分も含めて、キャラクターとしてVtuberを好きになりつつ、中の人の人格も好きになる。そのような楽しみ方をしている。きっと、いや確実に、ナトリサナにも暗い過去、暗い境遇があるのは、見ていればわかる。それを少しでも知りたかった。しかし、そこまで楽しむのは間違っていたのだ。勘違いしていた。そこまで見るべきではなかったのだ。
 今後、ナトリサナ本人の人間性について掘り下げがされる可能性は低いだろう。なぜなら、もし掘り下げがあるとすれば名取■奈が配信で話してくれるときであり、さなのばくたん。の劇中で名取■奈は名取さなとして活動していくことに対しての引け目を解消し、これからも改めて、名取さな(なりたい存在)として活動していくと決心したからだ。「ありがとう」という言葉は”名取■奈”から放たれた言葉だった。私の解釈不一致は、「引け目を感じている」ことが証明した、名取■奈≠ナトリサナという事実に起因していたのかもしれない。

5.改めて、鑑賞した感想

 私の間違った認識を改め、ナトリサナ監督の作品とすれば、「さなのばくたん。-ハロー・マイ・バースデイ-」は今までの活動の集大成として、ほんとうに素晴らしいショーだった。これからも活動を続けてくれることがひたすらに嬉しい。ずっとずっと応援し続けるだろう。ただ、名取■奈が生まれ変わった瞬間、ナトリサナがテクストから消えてしまった。その喪失感が拭えない。

6.喪失感を乗り越えて(加筆)

 このnoteを投稿してからとてもモヤモヤしていた。うまく言語化できていない部分があるのではないか?あまりにネガティブな内容だったのではないか?そんな不安が消えないため、他の人のnoteや記事をよんで色々考えた結果、モヤモヤの原因は、文章が抽象的ではっきり言葉になっていないからなのではないかと考えた。そして、このモヤモヤを晴らすため、もう一度言語化してみようと思う。

感情の具体化

 名取■奈の独白のシーン、「私本当はナースじゃないんです。~」。そんなことはわかっていた。当然すぎる。つまりこれは、ナトリサナの言葉ではないのだと気付いた。そして同時に名取■奈はナトリサナではなく登場人物に過ぎないことが明確になった。もちろん名取■奈はナトリサナの不安や苦悩を象徴する存在であることはわかっている。名取■奈の発言はナトリサナの発言でもあるだろう。しかしそれは登場人物の台詞としての表現だった。ナトリサナにとっての名取■奈は、太宰治にとっての『人間失格』の主人公・大庭葉蔵のようなものなのだろう。
 また、ナトリサナはテーマパークの創始者のようなものだ。キャストじゃない。そのテーマパークでは名取さなという着ぐるみを被った名取■奈がいて、私はそれを見て楽しむ。テーマパークを楽しむとき、全体として何を伝えたいのか、どのような経緯で作られたのかまで考えるのは自然な楽しみ方では無いだろう。
 「名取さな」というコンテンツは、ナトリサナが表に出る必要性がなくなったまま完成されてしまった。それが悲しかったのだ。

喪失感を乗り越えて

 ここまで私はネガティブな感情ばかり吐露してきた。他の人のnoteを読む度、「自分と同じ感情の人間はいないのかもしれない。」「私は名取さなが好きじゃなかったのかもしれない。」そんな気持ちになった。でも、今でもわかる感情がある。私は名取さなが好きだ。出会えてよかったと感じている。Vtuber黎明期から活動を初めて、ここまでのものを作り上げられたのは天才としか言いようがない。さなのばくたん。を通して、私は、名取さなの性質が変化したと感じた。しかし裏を返せば変化したのは自分だったのかもしれない。私は、名取さなを推している存在から、名取さな作品のファンへと生まれ変わったのだ。そしてその物語はこれからも続いていく、これ以上に喜ばしいことはない。名取■奈が前を向いたように、私も未来に期待を膨らませ、ずっと応援し続けたい。

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