夢だった華の女子高生生活が狂い始めて鬱になった話

私は高2の夏に学校を辞めて、通信制の高校N高に転入しました。

私がなんでだいすきだった学校を辞めたのかなどを書いていこうと思います。

私と同世代の女の子や、これから高校生になるひとに色んなことを伝えたり、共有できたりしたらうれしいです。

また、こんなひとがいるとたくさんの方に知っていただけたら、もっとうれしいです。

長いです。飛ばしながらでも読んでいただきたいです。
暗い話ばかりで嫌になるかも知れませんが、
文章もごちゃごちゃしていて、読みにくいと思いますが、
たくさんの人に知っていただき、わたしみたいになるひとがいなくなってほしいという気持ちで書きました。

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中3のとき、島暮らしだった私が、単身赴任だった父のもとを訪れたときに、はじめて見に行った都会の高校は、
とてもキラキラしてて、芸能人みたいに可愛い子がいっぱいいて、みんなとっても楽しそうで、学校も綺麗で、設備がとってもちゃんとしている学校でした。

これぞ、私が目指していた高校生活を送るべき場所だと思いました。

私はそこに入るべく、猛勉強しました。
島に塾がなかったので、週末は半日かけて船で塾に通っていました。
毎日、夜遅くまでずっとやって、キツかったけど、あの高校に入るためならいくらでも頑張れました。

直前まで危うかったのですが、なんとか合格できました。
うれしくて、うれしくて、泣き叫び、家族だけでなく、島中のひとみんなに知らせました。
とにかく、自慢しまくりました。

卒業式も
「私一人だけ華のジェーケー生活おくってきま〜す!」と、ノリノリで言っていました。

もちろん、島を出るということは、母とも離れ離れにならなければいけませんでした。(中1の弟が島を出たくないといったため)

その時は母と離れることは全然平気だったのですが、唯一の親友であった犬と別れるのがなによりも寂しかったです。

そして、父との二人暮らしと高校生活が始まりました。

入学式など、はじめの1週間は、キラキラJ Kらしく、常に大きな声で目立とうとして、積極的に誰にでも話しかけて、全力のギャグをやったりしていました。

だれよりも最初にクラス委員長に立候補したり、生徒会に入ったりしました。

かわいい子には積極的に自分から猛アタックして友だちになろうとしました。

少しでもおしゃれしようと、かわいい靴下やアクセサリーをいっぱい買ったり、毎日やったこともなかったヘアーアイロンを何十分もかけてやっていました。

大食いを生かしてみんなの残りの弁当、学食全部食べ尽くしました。毎回の休み時間にドデカデニッシュも食べていました。

「やばい!超絶めっちゃくちゃいい高校生活のスタートじゃん!!」と思っていました。

しかし、私の高校生活はだんだん狂いはじめていきます。

最初は、勉強のことです。入学してすぐにあったテストが全く解けず、学年で下から3番目でした。
みんなの前では成績が悪いこともウリにしてバカ発言をして盛り上げていました。(盛り上げられたのは塵くらいの時間のみ)

しかし、実際は焦りまくっていました。
島ではトップだった私は、「私って超絶頭がいい」とずっと勘違いしていたので、これからどういきていけばいいのか、進級できるのか不安でたまりませんでした。

それから、私の休み時間は、友だちとのおしゃべりの時間ではなく、勉強の時間に変わりました。

そうなったことで、友だちの輪にも上手く入れず、お弁当の時は一応輪には入ってるけど、一言も喋らず、勉強のことだけ考えて、だれよりも早く食べて勉強に励んでいました。

周りの友だちは本当に優しい人しかいなかったので、私をいつも誘ってくれたりしましたが、勉強を理由に全て断り続けました。
やがてみんな遠慮するようになりました。

次に、自分の容姿のことです。私は、平均体重くらいだったのですが、家系的に体つきががっしりしていたので、大きく見えがちな体でした。
顔も頭も大きくて、足も短いという、キラキラ女子高生には似合わないスタイルに、
島育ちらしい色黒、極太眉、ザ・一重、ほっぺパンパン星人でした。

私が通っていた学校は県内でもトップレベルに美人が多く、周りは、ちょースタイルよくて、おまけに顔までかわいいくて、ちょー優しいという超絶ハイスペック女子ばっかりでした。

これでは恥ずかしくて惨めで友だちと自撮りなんてしたくないし、
同じかわいい制服きて、ショッピングとかするのも恥ずかしすぎる!と思っていました。

もともと、自分の容姿にはコンプレックスがあったのですが、それが高校で強まりすぎました。
こんなブスでこんなスタイル悪かったらこの先生きていけない。と思い、その思いが日々強まっていって、どんどん暗い性格になっていきました。


最後に、生活環境が大きく変わったことです。
父と暮らしているとはいえ、父が帰ってくるのは深夜で、しかも私は別に父のことが好きでもないし、頼ってもいなかったので、父がいるいないはおそらく関係なかったのですが、

父の分含めた、家事を全部一人でしなければならないことがとっても重荷でした。

中学校のときまで、少し足りともお手伝いをしたことがなかったので、何も知らなくて、洗濯機の回し方、味噌汁の作り方、野菜の切り方全て一から学びました。
家事だけならば全然大丈夫だったのですが、
私は勉強に全力を注いでいたので、家に帰って家事で全部時間が奪われ、勉強ができなくなることで、余計焦ってしまい、眠れなくなりました。

私の華のJ K生活、約5日で終わりました。
それ以降地獄J Kの生活です。

これ以降、母にLINEで「具合悪い」と言わなかった日はありませんでした。

1ヶ月たった時、担任の先生が心配して声をかけてくれました。
私は弱さを見せることはすごく恥ずかしくて、みっともないことだと思っていたので、母にしか状況を伝えていませんでした。

その時はとっても辛かったのですが、

先生に「全然大丈夫です」とだけ言いました。

その後も先生は、何度も何度も私に話しかけてくれて、休み時間もずっと話してくれました。

そして私は、受験期よりも勉強していたので、成績もみるみるあがりました。すぐにクラスの上位の成績になれました。

しかし、私はもともとがバカだからこのくらいじゃ全くダメだと思い込んで、勉強はひたすら続けました。
私は、どこの大学に行きたいわけでもなかったし、クラスで一番とりたかったわけでもなかったのですが、ただ、漠然とした不安から毎日何時間も勉強を続けました。

食事を作る時間、食べる時間が一番もったい無かったので、それを割いて勉強をしました。

体も細くしたかったので、
食べなければ痩せられるので一石二鳥だと考えていました。

そのころは、少しスリムになって、女子力をあげたら、島の家族や親戚や友だちに華のJ Kぽさを伝えられるとおもっていました。

もともと食べることは大好きなので、ダイエットして、ある程度痩せたら、たくさん食べようと楽しみにしていたのですが、勉強しすぎて食事のことなんて忘れていました。

夏休みが始まると、すぐ島に帰りました。

しかし、私は島に帰っても全く遊ばず、家族や親戚と会話を楽しむこともなく、ひたすら勉強をしていました。夏休みの宿題はすぐ終わったので、目標もないのに、大学受験の勉強を高1の夏に必死になってしました。

島に帰ると不思議なことが起きました。

いくら食べてもお腹いっぱいにならず、大食いファイターなみに食べていました。
島に帰ると、たくさんのひとが料理を作ってくれ、美味しいごはんを食べるのは今しかないと思ったら、いくらでもたべれました。

夏休みが終わり、学校が始まったら、毎日がより憂うつでした。

二学期が始まってすぐ、勇気を出して、はじめて保健室へ行きました。

そこにいた保険の先生はなんと、
私と同じ島の出身でした。

そんなこともあって、これ以降、ほぼ毎日、保健室の先生にもとってもお世話になりました。

保健室ってこんなに気軽にいっていい場所なんだ。と初めて知りました。
保健室にいるときが家にいるときも心地よかったです。

二学期になると、ほぼ毎週末、島に帰っていました。
帰れないときや、テスト期間で忙しいときは、
母やおばあちゃんに来てもらっていました。

二学期すぐのテストでは、学年で3番になりました。
それでも焦っていました。

体重は10キロ近く落ちました。自分では気づいていませんでした。
しかし、服を脱いだ時の骨と皮膚だけの私をみて、母がすごくショックをうけ悲しんでいたのを覚えています。

常に冬服の理由は、夏の時期は私にとってなによりも学校の冷房がきつかったからです。
教室にも何台もあるし、廊下や体育館の隅々など、、、どこも極寒でした。
急に痩せて脂肪もなくなり、気力がないので運動もしないので、寒さに異常に弱くなっていました。九月でもダウンジャケットを着ていました。

秋くらいになったら、食べ物を食べることが少しずつ難しくなっていました。
「ものを口に入れて食べる」という行為ができにくく、友だちからもらった小さなお菓子も食べれなかったし、お弁当はほぼ毎日食べていなかったです。
食べたらものすっごく具合が悪いけど、吐ける気力はありませんでした。ずっとムカムカして、全身がだるかったです。

毎日24時間ずーっと具合が悪いから、何百回も病院へ行きました。
父か母かおばあちゃんだれかが必ずついてきてくれました。
ついてきてくれないとあるけないくらいフラフラでした。

この頃くらいから、頻尿にもなりました。
30分ごとくらいにトイレに行きたくなる。その分死ぬほど喉が乾く。その繰り返しでした。

授業中もトイレに行きたくて行きたくて、それしか考えられなくなりました。
「トイレにいってもいいですか?」を何百回もいっていたので、担任の先生が、何も言わなくても自由に出入りしていい制度をつくってくれました。そして席もいつも出口に一番近いところにしてもらってました。
一度、帰り道でお漏らししたことがあって(幸いだれにも気づかれなかった)それ以降は介護用の尿もれパンツや尿もれオムツをつけてました。

食べないし、全く動けないので、便秘がものすごかったです。2週間でないのはあたりまえでした。
生理も、高校生になってからは結局一度も来ませんでした。

毎日頭が割れそうで、胃が痛くてムカムカして、めまいがして、体がふわふわしていました。なにより、寒気が凄かったです。冷凍庫の中にいるような感じでした。

こんな状況でも私は学校には絶対行き、勉強も家でも学校でもずーっとしていました。
友だち、先生みんなが心配して声をかけてくれましたが、すべてに大丈夫といって何も話せませんでした。

担任の先生が
「周りの友だちや先生にいつでも悩みや今の状況を言っていいんだよ」と言われた時
「絶対にできません」といいました。

カウンセラーに相談してみたらとも言われましたが、絶対に嫌だ。とずっと思っていて、頑なに拒否していました。

SNSをみると、私も同じ高校生が楽しそうにあそんでいる写真ばかりで、登下校に楽しそうに話している高校生も毎日たくさん見ました。

帰り道はみんな寄り道したり、帰週末は遊びに出かけたり、学校ではギャーギャー騒いでたのしくおしゃべりしたり
私がなるはずだった高校生像に私だけがなっていませんでした。憧れのままで終わって行きました。
それを見るのが毎日辛かったです。

学校でも毎日一人でした。一人でお弁当を食べていると声をかけてくれたり一緒に食べようといってくれるひとはたくさんいたのに、
なにかしら理由をつけて断っていました。
いつもいつもすごく後悔していました。

だれにもみられないように、だれにも気を使わせないようにするため、一番奥のトイレで食べていた時期もありました。

学校を休むことで自分はダメ人間だ。と思い込みすぎてしまうので、必ず学校にはいっていたのですが、保健室には、ほぼ毎日通ってました。保健室ではいつも泣いていました。
なんでかわからないけど、泣いていました。

親の前では絶対に泣かなかったのですが、
保健室の先生の前ではなぜかよく泣いていました。
それ以外は家に帰ったらいつも一人だったので、その時に思う存分泣いていました。

保健室に行く頻度がだんだん多くなったり、病院へ行く回数が増えたりして、出席日数が危うい授業もたくさんありました。
とくに、体育はなにもできませんでした。
少し動こうとしてもすぐめまいがして、体育の授業はすこしも受けれていませんでした。
体育は、見学さえもしていませんでした。
ここまでできたのは、担任の先生が体育の先生だったからです。

先生は私に無理に状況を聞き出すこともなかったし、必ず、どんなときもすぐに保健室に連れて行ってくれました。そして、常に私の心配をしてくれていました。

母が来られない日も多かったので、そんなときはいつも80歳のおばあちゃんに来てもらっていました。
来たこともない都会の街で、携帯も使えないから、いろんなひとに聞きながら、買い物をして、慣れない狭いキッチンで1日かけて私にご飯を作ってくれました。
せっかく作ってくれたのに全く食べれない日もありました。
病院にいくときは、私の重たい荷物を持ってくれました。
一瞬たりとも休まず家事をやってくれました。

母が来た時は、1ヶ月分くらいの料理を1日で作って全部冷凍してくれました。
全部私が大好きな料理をいつも作ってくれました。

父に島に帰って暮らしたらどう?とも言われましたが、あれだけ宣言しといて、こんなボロボロの状態で戻るなんて恥ずかしすぎるので、拒否しました。

父もかなり心配してくれて、仕事からも早く帰ってきてくれていたのですが、
父とはどうしてもうまく話せず、結局ほとんど話してないような気がします。

毎日死にたくて死にたくてたまりませんでした。
帰り道はいつも、トラックが私を引いてくれないかな
道に急に飛び出してみようかな
としか考えられませんでした。
それでも怖さが勝っていたので、死なずに済みました。
たくさんのひとに迷惑をかけて、自分自身も具合悪いし、生きている意味がないと思っていました。ほんとに死んだほうがいいと思っていました。

冬になると、外はもちろん、暖房が効いてる学校でも寒さに耐えきれず、クッション、電子ゆたんぽ、マフラー二枚重ねのコタツ状態で過ごしていました。

外の冷気をほんの少し感じるだけで倒れそうになっていました。

そして、母と愛犬と弟は私が高2になった春からこっちに来てくれました。
島を出ることを頑固拒否していた弟は、私をみて、多分気を使って中3での転校を決意したのだと思います。

高2では、トップクラスでした。
しかも、担任は去年と同じ大好きな先生でした。

学年が上がった節目に周りの人ともたくさん話してみようと最初はとても張り切りっていました。家族もきたし、家事もやらなくていいし、自分の時間が増えるから高校生活たのしもう!!と思っていましたが、
それも、すぐ終わりました。
周りの友だちはとても優しくしてくれましたが体調の悪さがいつまでも治りませんでした。

高校生活終わった。と、またどんどん暗くなってしまいました。

体調の悪さがどうしても治らない。
いくら薬をのんでも効きませんでした。

2年生になって、親の説得もあり、カウンセラーの先生のところへ行くようになりました。話をしたら気持ちが楽になりました。無理やりだけど行ってよかったと思いました。

全国から患者が集まる自律神経系のプロフェッショナルかたがいるの整体にも行きましたが、こんな人見たことないと驚かれました。治るのはとっても時間がかかると言われました。

この頃になると、体調の悪さもピークになり、本当になにもできませんでした。
ただ横になって休むことしかできませんでした。そんな自分にとってもイラついていました。

具合が悪すぎて寝ることさえできなくて、イライラして、いろんなひとに八つ当たりしたり、勝手に一人で泣いていたのですが、ずーっと私の犬はべったり横にいてくれました。

犬だけが支えでした。犬の力は本当にすごいです。

結局、私は勉強もできなくなり、成績までみるみる落ちていきました。

本当に生きていけないと思うくらい辛くなりました。
学校もよく早退していました。

母はもう学校行かなくていいよ。と何度も言っていました。
しかし、わたしにはその勇気がありませんでした。
学校に行かないということが考えられませんでした。眼中にもなかったです。
高校をやめる=落ちこぼれ
通信制高校=落ちこぼれ
とばかり考えていました。

プライドが高く、強がりなわたしは、いくら体調が悪くなっても学校に通い続けました。

夏なのに、ダウンジャケットとヒートテックで冷房がない場所でもそれで過ごしていました。

7月の台風の日、学校が休校になりました。
学校がないってこんなに幸せなんだと、久しぶりに幸せを感じました。
その日に急に学校やめようと決心しました。

ネットで調べてみると「学校に行けないひと」の居場所はたくさんありました。
学校に行かなくても生きていけるんだと知りました。

たまたま、ネット広告ででてきたN高を見つけて、楽しそう!と思ってすぐ決めました。

その日からは学校に行かなくなりました。
行けなくなりました。

先生にもちゃんと伝えられました。
カウンセラーの先生、担任の先生、学年主任と話し合いました。

カウンセラーの先生や担任の先生は、わたしのことをずっと見てきてくれた分、
できれば学校に残ってほしいけど、元気になるのが一番だから。といってくれました。

保健室の先生も、私が自分で決めたことを知って喜んでくれました。

なるべく早く転入したいと言ったので、
担任の先生はものすごく急いで手続きしてくれました。

私は本当に周りの人に恵まれていたと思います。たくさんの人に支えられました。

だからこそ、最初から自分が弱さを見せることができたら、もっと違った結果になっていたと思います。

私はN高に入って本当によかったとおもいます。
一日中家に入れるので、ゆっくり体調を治すことができました。
しかし、体調は完璧には治らないし、生理もいつまでたってもきません。(婦人科でずっと治療をしています)

自分の容姿に不満があったり、ダイエットしていたり、痩せたいと思っている人は私くらいの年齢だと多いと思います。

自分の見た目のことでも、中身のことでも、勉強のことでも周りと比べないことが一番だと思いました。

たしかに、私は周りに比べたら体格はがっしりしていたけど、これが私にとっての正常でした。
痩せているこもそのこにとってはずっとこの体系で、正常なのかもしれないし、頑張って細くしている人もたくさんいると思います。
人それぞれ正常や普通の基準は違うからひとと容姿なんて比べる必要はないと思います。

勉強もそうです。
たしかに、私は入った時は最下層のレベルだったので、みんなについていけるように頑張らないと行けなかったのですが、
それぞれスタートが違うのだから、最初から追いつくことばかりかんがえないで、自分基準でどれだけ伸びたかを考えられることができたらよかったのかな。と思います。
私は高1のときに休まず死ぬほど勉強しました。誰とも遊ばず、SNSもしてませんでした。
しすぎて、いろんな人から「もう勉強はやめて」と言われてました。
私が勉強が大好きな人ならそれでいいのかもしれませんが、
私は勉強はそこまで好きではないし、
友だちと一緒に遊んだり、いろんなひとと喋ったり、テレビをたくさんみたり、SNSでかわいい動物をみたり、美味しいものをたくさんたべることが大好きな普通の高校生です。
勉強のために好きなことを全部捨てました。

学歴社会だし、勉強はとっても大事だからそれでもいいのかもしれませんが、
私は普通に高校生活をたのしみたかった。とずっと後悔しています。
勉強はある程度やって、受験生になるまでは、遊びや友だちやおしゃれメインの高校生活を送りたかったです。
たしかに、多くの人ががタピオカに並んでいる時間、私は勉強に費やすことがてきたけど、
タピオカに並ぶ方が、高校生にとっては大事な時間だと思います。

高校生にとって、勉強はとっても大事だけど、それ以外の自分の好きなことはそれ以上に大事だと思います。

ギャーギャー騒いだりできるのは高校生までしかできないことだと思います。

勉強は受験生になってから死ぬほどやればいいと思います。


後悔していることはたくさんありますが、
わたしは体調を崩したお陰で本当にたくさんのことを学びました。
ひとのあたたかさ、学校に行けないひとの気持ち、ひとりぼっちの人の地持ち、家族や友人の大切さです。
当たり前のことかもしれませんが、わたしは何も知りませんでした。
「不登校」のひとをみて、いつも意味わかんない。怠けてるだけじゃん。ズル休みじゃん。と思っていました。
「行きたくても行けない」ひとのきもちがよく分かりました。

わたしは一人でも行きていけると勘違いしていましたが、周りの人に支えられるパワーのすごさを初めて知りました。
他人のことなのに、本気で心配してくれるひとの優しさも知りました。

迷惑をかけたり、ひとのことをすぐ頼ったり、弱さを見せることは決していけないことではないとわかりました。逆にしたほうがいいとわかりました。

担任の先生とは大人になったら一緒に飲みに行く約束をしています。

おばあちゃんはわたしの元気な姿をみるだけでいつも泣きます。
元気でよかった。といって泣きます。
わたしはこれくらいのことでいつも泣かれるのでとっても恥ずかしいのですが、それほど心配してくれていたんだな。と思います。

母は、「健康に過ごせればほかは何もいらない」とずーっと言っていて、
その意味がずっとわからなくて、なんて小さすぎる願いなんだろう。と思っていましたが、
健康でなければ、お金があっても、友達がいても、時間があってもなにもできないこと知りました。
やっと母が言っていることの大切さを知りました。

また、食べ物を食べれなくなって、「食べる事」の重要さを初めて知りました。いままでは与えられたものや好きなものを食べていただけなのですが、
一度なにも食べれなくなって、
いま、いろんなものが食べれる喜びを感じています。食べる事が前から大好きだったのですが、より大好きになりました。

気楽に生きるって、とっても簡単だと思っていたのですが、すごく難しいです。

おそらくいまは気楽に生きていると思います。

ずーっと家にいて、やりたいことをやって、食べたいものを好きなだけ食べています。
ただの怠け者ですが、いまは、だらだらできるのが本当に幸せです。

ひたすら勉強に励んでいたときは、一日中だらだらして、好きなだけ寝れたらどれだけしあわせなんだろう。とよく考えていました。

いま、それをやっています。ちょー幸せです。

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