INTJ女性の”母性がない罪悪感”に向き合うのが苦しい話

先日、生後生まれて間もない赤ちゃんに対峙する機会があった。大好きな友人の子供だった。私が友人だと呼べる人は、限りなく少ない。だから、本当に大切な人で、心から大切にしたい人なのだ。赤ちゃんに会うのが怖い、なんて、どうしても言い出すことができないぐらいには。
誰かと暮らすことが前提となっている間取り、飾られた両家の家族写真、生まれたての赤ちゃん、ベビーベッド、カラフルなおもちゃ、可愛い猫ー。
むせ返るような生を前に、私はゆっくりと目を瞑る。これがきっと”幸せ”、というやつなんだろう。幸せが溢れる空間からお邪魔して、外気に触れた瞬間、私の心に棲みつく悪魔が顔を出した。暖かな春の陽だまりを感じながら、私は溢れる涙を止めることができなかった。

結婚、子供、マイホーム、これらを手にしていく同世代を羨む感情を、私はおそらく持ち合わせていない。私が本当に羨ましいのは、自分の絶対の味方という物理的存在と、愛する人との子供を願える感情である。物心ついた時から子供が欲しいなんて全く思ったことのない私は、それでもこの感情さえ努力で変えられるなら変えたいのだと思う。なぜなら、私の大切な人たちは、自然と子供を慈しむから。私は、数少ない大切な人達のために、いや、本当は自分のエゴのために、子供に対する共通言語を取り入れたい。

子供を持ちたくない理由は、まさしくこちらの通り。思わず「うんうん」とうなずいてしまう内容だった。

理由は上記のとおりなのだけれど、本記事では、”母性がない罪悪感”を抱え続ける私の感情に主軸を置いている。
「私の気持ちをわかって欲しい。」のではなくて、「この罪悪感を殺してやりたい。」という私の話。
なお、友人の子供のように、この世に誕生した子供たちについては全員、心から幸せになって欲しい。そして、子供たちが幸せな社会であって欲しいと心底願っている。

2:6:2の法則

人間関係における、2:6:2の法則をご存知だろうか。
人間関係についてはどのような行動をとっても自分のことを好きでいてくれる人が2割、行動によって好き嫌いがわかれる人が6割、なにをしても嫌いになる人が2割いるとされ、2:6:2の法則が成り立つというものである。
基本的にこの法則が話題になる時は、必ず2割の人からは嫌われるのだから全員から好かれることは不可能で、嫌われる勇気を持つのです、という展開になることが多いのではないかと思う。

元婚約者は、6割の人からはもちろん嫌われたくないし、この何をしても嫌いになる2割からもできるだけ嫌われたくない、という人物だった。というよりは、全員から好かれていたいのだと思う。だから、この法則の話をしても、共感はしていなかったんだろうな、と今になって思う。
私はこの法則を知った時、どのような行動をとっても自分のことを好きでいてくれる人が、2割もいるのか、と衝撃だった。私がどんな思考を持っていても、2割が許してくれるなら、残りの8割から嫌われても構わないとさえ思った。
人から敵意を向けられるのは不快だし、もちろん敵は少ない方がいい。成長過程とともに、人間関係は良好であるほうが生きやすいことを学んだ。だから、自分を放出する割合を調整して、生きている。けれど、6割の人に自分を理解してもらおうという発想は全く無い。必ず嫌ってくる2割なんてもはやどうでもいい。私に実害がないのなら、どうぞ勝手に嫌ってください。実害があるのであれば、闘うか、その環境から立ち去る努力をするだけだ。学生時代は与えられた環境から逃げるのが難しくて、大変苦しい時期もあったが、環境を変える努力ができるという意味では、大人になった今の方がずっと生きやすい。

できれば好かれた方が楽、だから敵ができないように振る舞う。でも、迎合して他人から好かれたいとも思わない。そう、8割に対しては。
けれど、2割については心から大切にしたいし、愛したいと願っている。

幼き頃の私

私はおままごとや人形遊びをしない子供だった。子供の頃から子供に興味がなかった。例えば、「将来お母さんになったら〜」みたいな妄想は一切しなかったし、自分より幼い親戚の子供と関わろうとすることもなかった。

「お母さんにはなりたくない。」
小学生の頃、男女を分けた空間で、女の子の体の作りとやらを学ばされた時、率直に、そう思った。
将来子供を産んで、母親なることが当たり前のように想定されていて、それを前提とした女性の身体の仕組みについて学ばされる。
自分の母親みたいになりたくない、とは違う。命がけで子供を生んでまで、「お母さん」という役割を背負っていけないと感じた。与えられた役割は死ぬまで降りられないことも、その責任の重さも、その頃にはすでに気づいていたのだと思う。
小学生の頃には生まれていたこの感覚は、それから十数年の月日が流れた今もなお変わらない。

あくまでも私の場合は、家族仲はおそらく良好なはずだし、経済的にも不自由な思いをしたことがなかった。専業主婦で優しい母、忙しくとも家庭を大事にしようとする父、眉目秀麗で優秀なきょうだい、愛しいペットー。家庭環境が悪かった、なんて口が裂けても言えない。記載していることが全てではないけれど、私は家族と過ごす時間も大切にはしていた。幸せな家庭で育ったのだと信じたいから。たとえ、この家族という船の中で、私だけがどこか違う方向を向いていて、皆の言葉が同じ星の下で産まれたものだと思えなかったとしても。この乗組員達は、私のことを否定することはなかった。船から降りろとは言わず、乗せ続けてくれた両親には本当に感謝している。それは相当に恵まれた環境なのだろう。だから子供が欲しくない理由に、家庭環境を持ち出すつもりはない。

いっそ外的要因のせいにしたい

いじめ、不登校、受験、etc…
子供を取り巻く問題がニュースになるたびに、私は思う。
全部が全部、親の責任にされてしまったら、堪ったもんじゃないだろうなあと。もちろん、家庭環境や親の教育が人格形成に大きな影響を与えることはわかってる。
でも、”子供なんていらない”というこの性質を、だれかに「親や家庭環境のせいだ」と言われたらこう叫びたくなる。
「違うんです、私のなにかがおかしいだけなんですよ!」
どこまでが本人の性質で、どこからが親の責任になるのだろう。

どうして、子供が欲しくない理由は求められるのだろう。
理由はいくらでも語れるけれど。
でも、どうだっていいじゃないか。だって、子供がほしい理由なんて、皆求めないじゃないか。

10代の頃、周りの大人の女性は、みんな誰かのお母さんだった。将来、子供は欲しくないと公言している人は、私の周りには1人もいなかった。私の耳に届かなかっただけなのかもしれないが、声を大にして叫んではいけないような話だとは自分でも気づいていた。

インターネットの海を泳ぐと、自分と同じ価値観を持つ人を探す事はできる。子供が欲しい旦那、欲しくない妻、といったテーマは何十個もみてきた。

「本当に愛している人の子供なら欲しいと思うはずですよ。」
「まだ若いからですよ。歳をとると焦るようになりますよ。」
「自分も子供は欲しくなかったけれど、自分の子供は可愛いですよ。」

きっと善意で投げられている言葉の数々が、私の心に悪魔を潜ませる。

自分に関することであれば、基本的には努力で生きやすい環境を手に入れてきた。それは、自分が努力できる性質があったこと、そして努力できる環境に恵まれていたからに他ならない。自分のことを愛し続けたいから、愛すべき理想に向かって努力することができる。
だからこそ、「子供が欲しくない」この感覚さえ、努力で変えられるのではないかと。でも、向き合うにはあまりに苦しすぎる。

心に潜む悪魔が顔を出す。

「男の子ならキャッチボールがしたい、女の子ならパパ大好きって言われたい。」
それぐらいの解像度しかないくせに、子供が欲しいなんて言うなよ。

「今は子供が欲しくなくても将来的には欲しくなるよ。」
年齢が理由で発生する本能なんて、気持ち悪い。

「自分の子供が欲しいのは本能だから仕方ないよ。」
”本能”だから仕方ないの?
じゃあ その本能を持ち合わせていない私はどうすればいい。私の何かがおかしいのか。じゃあどうすればその本能を手に入れられるの、教えてよ。
本能で全てが許されてしまうなんて、ずるい。

「子供がいたほうが人生に張り合いがあるから。」
「子供は”かすがい”だから。」
この言い分は私には全く理解できない。自分の人生の暇つぶしに、他者を盛大に巻き込むなんて、とても怖い。

「愛する人との子供なら自然と欲しくなるよ。」
この感情が愛じゃないなら、なんと呼ぶのだろう。だれか、教えてほしい。私の感情をどうか言語化してほしい。

「自分の子供は可愛いよ。」
一番良く聞く言葉だけれど、もし私がそう思えなかったら?とは誰も考えないのだろうか。一か八か盛大なギャンブルをして、私が負けても、きっと誰も責任は取ってくれない。そして、私も一切の責任を負わないなんて選択はできない。

誰も私を責めなかった。でも、彼のことを責める人もいなかった。
仕方ないんですって、だって、子供が欲しいのは「本能」だから。
愛している人と自分との子供は「幸福の塊」だから。
人の感情は移ろうものだから、時間経過で考えが変わることも「仕方ない」のだと。
私は彼が時間経過で考えが変わったのではなく、現実を見ないふりしただけだと思っている。時間が経てば私の考えが変わるなんて、甘い考えもあったのかもしれない。
浮気は許せないと、その裏切りの境界線も全部伝えていたのに、なんてことないようにあなたは軽々と越えてきた。
「僕は子供が可愛いと思う。自分の家族が欲しい。」だから別れた方がいいのかもしれないと、どうしようもない現実を私に突きつけて、浮気を正当化しようとしてきたことが、今でも苦しくて仕方ない。その家族とやらは、私の存在だけではどうやらダメなんだろう。子供は私だって、可愛いと思うこともあるよ。でもそんなこと伝えたところで何の意味もなくて、きっとあなたには何ももう伝わらない。最初から何も伝わっていない。

「子供はいらない、君がいてくれればいい。だから、ずっと一緒にいよう。」
何度もそう言った彼が突きつけた現実は、あまりに重たい。体が鉛のように重たくなって、息の仕方すら忘れてしまいそうになる。私は10代の頃から広いインターネットの海を泳ぎながら、そしてひっそり海の底に沈んだのだ。きっと自分の最大の味方は現れない。幸い現れたとしても、きっと結婚は難しい。周囲が自然と結婚に憧れる中で、私は夢見ることすら憚られた。
そんな私を引っ張り出して、君の最大の味方だよって微笑んで、なんだか分かったような優しい言葉を投げかけて、ずっと一緒にいると誓って、突きつけた現実がこれか。身体中に毒が巡って、心に潜む悪魔が私の感情をひどく掻き乱す。

プロポーズは媚薬だった。ここに存在してもいい。今後のあなたの人生に、私が介在する許可を得ること。それは、身体中を駆け巡る甘い甘い快感。その媚薬は時を経ていつしか毒になり、私を壊していく。

わかったフリなんていらなかった。
何度も何度も何度も、確認したじゃないか。
今更、価値観の相違なんて言葉で片付けないでよ。
子供が欲しいことを理由にして、自分の弱さを正当化しないでよ。

「死にたい」「消えたい」「生きることに疲れた」
私の心に巣食っている希死念慮は、いつだってそこにいる。深く絶望した時はそれが色濃く出るけれど、調子のいい時にもいつだってそこにいる。むしろ、調子のいいときこそ、ひょっこり顔を出してくる。
プロポーズされたあの甘美な時間をどこかに閉じ込めて、終わらない愛を噛み締めて永遠に眠り続けていられたら、どれだけ幸せだっただろう。

”母性がない罪悪感”
こんな感情、向き合うんじゃなくて、殺してやりたい。
でも感情は殺せない。飼い慣らすしかない。悪魔を見ないフリは、今後もきっとできない。私だって、こんな悪魔は飼いたくなかった。私だって、大好きな人を失うのは怖いし、大切な人たちの持つ共通言語を身につけて、明日を夢みたいのに。

それでも、どうか、自分の愛すべき姿を目指し続けてほしい。好きな自分でい続けて欲しい。
その隣に、あなたを受け入れてくれる最大の味方が隣に立っていたらいいなと、諦めつつも、願わずにはいられない。

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